1.復活を否定するサドカイ派の人々
(1)サドカイ派とファリサイ派
以前、私はアメリカで書かれたとても珍しい推理小説の翻訳本を読んだことがあります。その小説のどこが珍しいのかと言えば、事件を解決する主人公が探偵や刑事ではなく、ユダヤ教のラビであると言うところです。しかも彼は事件解決の手段としてときどき聖書の律法解釈を用いるのです。この小説を通して現代のアメリカで生活するユダヤ教徒たちがどんな生活をしているかをわずかですが垣間見ることできるのです。その中で私の記憶に残っているのは、主人公のユダヤ教のラビが友人のカトリックの神父に冗談交じりに語った言葉です。彼はこう言っています。「どうして、キリスト教徒は人間の死後に天国と地獄があると信じているのかね。そんなことを信じているからキリスト教徒に自分の将来が心配になって、ノイローゼ患者が多く生まれるのではないか」と。
つまりこの主人公は「自分たちユダヤ教徒は死後の世界など信じていなから、余計な心配をしなくていいのだ」と言っているわけなのです。現代のユダヤ教徒の信仰が実際にどのようになっているのか、私は詳しく調べたことがありません。しかし、今日の聖書箇所に登場する「サドカイ派」と呼ばれる当時のユダヤ人の宗教グループに属した人々はこの復活を否定し、また死後における霊魂の存在さえ否定していた人々だと考えられています。当時のユダヤ人の宗教グループはこのサドカイ派だけではなく、聖書に度々登場する「ファリサイ派」と言うグループがありました。彼らはサドカイ派の人々と違って「復活」を信じ、死後の霊魂の存在を信じていたと言われているのです。
(2)「モーセ五書」だけが聖書
どうして両者の間にこのような信仰の違いが生まれるのかと言えば、この両者が「聖書」として採用した書物が何であったのかと言うことが関係してくるのです。ファリサイ派の人々は現在の私たちが知っている旧約聖書の全体を受け入れ、また信じていたようです。しかし、このサドカイ派の人々は聖書の中でも、その最初に登場する「モーセ五書」と呼ばれる書物だけを自分たちが信じるべき聖書だと考え、他の書物にはその価値を認めなかったのです。サドカイ派の人々は私たちが知っている「モーセ五書」以外の旧約聖書の書物は単にこのモーセ五書に記された律法の新たな解釈を記した書物であると考えたのです。だから彼らはそれらの書物を聖書として認めることがなかったのです。つまり彼らは「モーセ五書」に記されたことがらを新たに解釈することを好まない保守派であったと言えます。だからこの五つの書物に書かれたことがらしか信じる必要はないと主張したのです。そして、彼らはこの五つの書物には人間の死後の問題、特に「復活」については教えは何も記されていないと考えたのです。
サドカイ派の人々の信仰はまさに自分が生きているこの世のことだけを考えればいいと言う現実主義者で、それ以外のこと、つまり人間が死んだ後のことを心配する必要はないと考えたのです。そして彼らはその自分たちの立場から今日の箇所でイエスに「復活」に関する論争をしかけたのです。
2.その女はだれの妻になるのか
(1)レビラト婚の問題
彼らがここでイエスに提示した問題は次の通りです。一人の女性が不幸にも結婚した相手に死に別れてしまいました。そこで子供がいなかったこの女性はその死んだ夫の兄弟と結婚することになったと言うのです。ところが不幸は繰り返され彼女はまた新しい夫と死に別れすることになり、しかもそれが彼女の人生で七度も繰り返されたと言うのです。つまり、この一人の女性にとって七人の男性はみな彼女の夫になったわけなのです。そこでサドカイ派の人々は復活信仰の矛盾点をついてこう言うのです。復活と言う出来事が起こったら、死んだ者がすべて甦ることになるわけです。そうなるとそのときこの女性は七人の夫と再会することになります。いったい、そうなったとき誰が彼女の本当の夫なのか判断することができるかと問うたのです。
この問題は「レビラト婚」といって子供のないやもめはその夫だった者の兄弟と結婚することができると言う旧約聖書の律法(申命25章5節、創世38章8節)に基づくものです。どうして旧約聖書にこんな決まりがあるかと言えば、女性には嫁いで行った家の家系を絶やしてはならないと言う義務があるので、そのために子供がないまま夫と死に別れた女性はその夫の兄弟と結婚して子供を生み、その家系を絶やさないようにする勤めがあると言っているのです。
ある説教家はこのサドカイ派の提起した問題は二つの面で「復活」信仰を否定する意味があったと説明しています。一つはこの文章にはっきりと記されているように、復活と言う事実を肯定したら、レビラト婚に従った女性は夫がたくさんできてしまい、困ったことになるということです。聖書の戒めに忠実に従った者が困ってしまうようなことを神様はするはずがないとサドカイ派の人々は言っているのです。
(2)今を大切に生きることが求められている?
もう一つは神様がわざわざ聖書にこのようなレビラト婚のような制度を残して、人々に従うように命じた理由は何かと言うことに関係してきます。もし死んだ者が甦るとしたら、その家の家系が地上では断たれたとしてもやがて復活のときその家系が回復するときがやってくるはずです。それなら、このような結婚制度を定めてまで家の家系を絶やさないようにせよと人々に命じたその意図の根拠がなくなってしまうのです。つまり、彼らは「復活」などと言う事実はないのだから、どうしてもこの地上で与えられている自分の家系を絶やしてはならない、そのために神様はこの戒めを定められたと言っているとサドカイ派は考えたと言うのです。
実はこのサドカイ派の考えた問題はイエスの主張した復活信仰ついて提起されたものではなく、当時のユダヤ人のもう一方の宗教グループであるファリサイ派の人々が考えていた「復活」についての信仰に向けられていたと考えることができます。なぜならば、ファリサイ派の人々の復活信仰はどちらかと言うとこの世の生活の延長線上に「復活」と言う出来事があると考えていたからです。つまり、この世では残念ながら不完全なままで終わってしまった人生を、信仰者は復活のときに完成することができると彼らは考えていたのです。そして、この考え方はイエスが主張する復活信仰とは違っていたと考えることができるのです。
3.復活にあずかる者、神の子
(1)結婚制度の必要はなくなる
そこでイエスはサドカイ派の人々に本当の復活について次ぎように語っています。
「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(35〜36節)。
イエスの説明を簡単に考えると復活の後に私たちに与えられる命、またその人生にはもはや結婚制度のようなものは必要がないと言っているのです。一方、ファリサイ派の人々は復活の後の命についてはっきりとした信仰がありませんでしたから、どうしてもその復活の後の命をこの世の私たちの生活に基づいて考えようとしたのです。だから彼らはそこでも同じように結婚生活があったり、他にもこの地上で私たちがしていたことがそのまま続いたり、繰り返されると考えたのです。そして、イエスは私たちに、復活の命はファリサイ派の人々が考えたようなものではないと教えてくださっているのです。それならいったい、復活の命とはどのようなものなのでしょうか。しかし、私たちはここではまずそれを考える前に、私たちが持っている復活の命についての誤解についてもう少し考えてみたいのです。
(2)私自身が神の子として変えられる
こんなお話があります。愛する夫に先立たれて悲しみ沈む一人の夫人がいました。その夫人、そんな自分の悲しみを慰めてほしかったのでしょう。ある有名な神学者にこのような質問をしたと言うのです。「先生。聖書に書かれているように私たちは愛する人たちと再び天国であうことができるのでしょうか」。するとその神学者は即座にこう答えました。「夫人よ。それは真実です。私たちは天国で再び、愛する人たちと再会することができるでしょう」と。その言葉を聞いた夫人は、ほほえんでうなずきました。ところが神学者はその言葉に続けてこう語ったのです。「確かにそれは真理です。しかし私たちは天国では会いたくないと思っている人とも再会することになるでしょう」と。
このお話はまじめな神学の問題を語っているのではなく、人々を楽しませるユーモアを提供しているお話です。しかし、このお話は復活の命について考える際に私たちが陥りやすい誤りをよく示しているのです。それはどういうことかと言うと、私たちは「復活」の後でも自分が会いたくない人がいると考えるところにあります。つまり、ここで問題なのは私たちがこの地上で感じた憎しみや、不和の問題が復活の後もそのまま続いていると考えてしまっているところにあります。しかし、これではファリサイ派の人々が考えてことと同じように、「復活」の後も地上で生きた不完全な自分がそのままいて、その命がそのまま永遠に続くということになってしまうのです。
しかしイエスが語る復活の命はそのようなものではありません。むしろ私たちに与えられる命は復活のときに完全なものに変えられるのです。ですから、私たちは地上で抱えていた問題をその復活の命において考える必要は全くないのです。
4.神によって生きている者たち
(1)彼らは今も生きている
ところでイエスはこの復活についての論争をおもしろい言葉で締めくくっています。
「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(37~38節)。
「モーセの『柴』の箇所」とは出エジプト記の3章の部分を指し示す言葉です。当時の聖書には私たちが知っている「章」も「節」もついていませんでしたから、このように近くの有名な物語を目印にして説明するのです。イエスはここでサドカイ派の人々が大切にしているモーセ五書の一つ出エジプト記の記述を引用して、復活についての証拠がそこに語られていると言っているのです。
かつてエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を約束の地に導くために神様はモーセをそのリーダーとして任命しようとします。その際に神は自分を自己紹介するために「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言う言葉を使っているのです。この言葉は神様がモーセに対して、自分はあなたがよく知っている先祖たちの神であると言っているように読むことができます。この言葉を誰かイエス以外の人物が引用して語ったとしても復活の証明にはなり得ない箇所なのです。しかし、この言葉が神の子であり、すべての者に先立って最初に復活されたイエス・キリストご自身が語るならば、その意味は大きく違ってくるのです。なぜなら、聖書の著者は神様です。そしてイエスは神の子、つまり神ご自身であるため、ここではその著者自らが聖書の言葉について説明していることになるのです。書かれた本に記された本当の意味を知っているのはその著者ですから、まさにイエスのこの解釈こそ正しいものだと言えるのです。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であるとイエスは語ります。そしてその神が私は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言うのだから、彼らは今も生きてるに違いないと説明するのです。彼らがこの地上で神様と結んだ命の関係は今も断たれることがなく、彼らはその神様によって今も生かされているとイエスはここで教えているのです。
アブラハムやイサク、ヤコブがこのときどのような状態で「生きている」と言っているのか、彼の魂は今も生きていて、復活のときを待っていると言っているのか、そのことについてはここで詳しくは言及されていないのですが。彼らが死んでいないと言うことは確かであるとイエスは語っているのです。
(2)イエスの姿こそ復活の姿
復活の命について考えようとするとき、私たちの想像には確かに限界があります。だからそこでは誤りを犯しがちです。なぜなら、私はいつも自分が経験した事柄に基づいて、またその延長線上でしか物事を判断することができないからです。まさにそれは人間の科学の限界がそこにはあるのです。しかし聖書はそのような私たちに一つの指針を教えています。
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」(ヨハネの手紙一3章2節)。
私たちがやがて受ける復活の命について聖書が明確に語ることは、そのとき私たちは「キリストに似た者となる」と言うことです。そして聖書はこのキリストの姿を豊かに私たちに示しているのです。「復活」を否定するサドカイ派の人々は「そんなことを信じている人間は、この地上の生を疎かにして「あの世」事ばかり考える厭世主事者になってしまう」と主張しました。しかし、誰よりもこの「復活」の出来事を知っていたイエス・キリストは厭世主義者であったのでしょうか、彼はむしろ誰よりも地上の生涯を大切にして、ご自分に与えられた使命を果たされたのではないでしょうか。
本当の復活信仰は私たちが今、与えられている命を大切にするようにさせるのです。なぜなら復活信仰は将来のためだけの信仰ではないからです。神はこの信仰を持って生きる人を今、その豊かな命で満たしてくださるからです。イエスは次のように語っています。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ヨハネによる福音書11章25〜26節。
このように今、この地上でイエスを信じ、彼が約束する復活の出来事を信じて生きる人を、イエスは今すぐに復活の命で満たしてくださると言ってくださっているのです。このように復活を信じて生きる者はこの地上の人生で与えられた今を豊かに、そして大切に生きることができるのです。
【祈祷】
天の父なる神さま
死に勝利し復活されたイエス・キリストによって、私たちもやがて同じ祝福にあずかることできるという希望を与えてくださりありがとうございます。しかも、あなたはその復活を信じて生きる私たちに、今、復活の命を豊かに満たし、私たちがこの地上の人生を喜びと感謝を持って生きることができるようにしてくださいました。私たちがこの信仰にとどまることで、ますますあなたの命に満たされ、私たちに与えられた人生を誠実に生きることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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