1.髪の毛一本もなくならない
(1)問題が起こらないことではない
今日の聖書の箇所に登場するイエスの言葉に「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と言うものがあります。聖書を読む私たちにはとても聞き慣れたイエスの言葉の一つです。そして様々な問題にぶつかって、心悩む私たちをいつも励ましたくれる言葉でもあると思います。おそらく私たちはこの言葉をマタイによる福音書の10章30節の部分から覚えているかもしれません。
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(29〜31節)。
今日の言葉とは少し表現は違いますが、ここでもイエスは「髪の毛」と言う言葉を使って神様の守りの確かさを私たちに教えています。しかし、誤解してはならないのは、この言葉は私たちの人生は神様に守られているから、一切問題など起こらないと言っている言葉ではないと言うことです。むしろ、この言葉は私たちの人生に起こる数々の思いがけない問題を前提にして語られていると言ってもよいのです。
(2)すべてはわたしの救いのために
それでは、この言葉はそのような数々の問題に遭遇せざるを得ない私たちに何を教えているのでしょうか。私たちの教会の大切な信仰問答の一つであるハイデルベルク信仰問答の第一問はこの言葉の意味を次のように語っています。
「また、天にいますわたしたちの父の御旨でなければ/神の毛一本も落ちることができないほどに、私を守ってくださいます。実に万事はわたしの救いのために働くのです。」
ここには私たちの人生に起こる出来事は「私の救いために」神様がたてられた計画に基づいて起こっていると言う説明が語られています。主イエスも先程のマタイの聖書箇所で「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と語っています。「父の許しがなければ、それは起きない」と言っているのです。それは神様は私たちの救いのためにならないことは一切、私たちの人生に起こることをお許しにならないと言うことなのです。
このことを勘違いしてしまうと私たちはいろいろな誤りに陥ります。「教会で洗礼を受けたのに、いろいろな不幸が立て続けに起こる。これは聖書の約束の言葉と違うではないか」。そう言って教会生活から離れてしまった人がいると聞いたことがあります。確かに深刻な問題に出会ってショックだったのかもしれませんが、その人が教会生活から離れてしまった原因の一つは聖書の言葉をよく理解していなかったことにもあるようです。いずれにしても、私たちの人生には私たちの思ってもいなかったような出来事が起こります。そんなとき、私たちはどのように受け止め、また生きていけばよいのでしょうか。今日の聖書の箇所は私たちにそのヒントを教えているのです。
2.惑わされてはならない
今日の聖書の箇所はエルサレム神殿に関するお話から始まっています。イエスと弟子たちの一行はこのとき旅の執着地点であるエルサレムの町に滞在し、その町の中心にそびえる神殿にやってきていました。そしてこの後、イエスは逮捕され、十字架にかけられることになります。ですから今日のお話はイエスの死が間近に迫ったときに語られていると言うことになります。
荘厳な神殿とそこに献げられた様々な奉納物は神殿に訪れる者の目を引くものであったのだと思います。そんなときにイエスはこの神殿が崩壊すると言う預言を語ります(6節)。当時の神殿はクリスマスの物語に登場するヘロデ大王が改築に着手して、このときはまだその工事は完成していなかったとようです。なぜならこの工事80年以上の期間をかけて紀元64年に完成したと言われているからです。しかし、そのあとすぐにこの神殿は紀元70年にエルサレムに侵入したローマ軍によって跡形もなく破壊されてしまいます。この言葉がイエスによって語られた当時の人々はエルサレム神殿が跡形もなく崩壊してしまうなどと言うことは考えもつかないものだったようです。だから、人々はエルサレム神殿が崩壊するとしたら、それはきっとこの世の終わりの出来事に違いないと考えたのです。ですからこの世の終わり、終末の時はいつくるのかと言う質問がイエスに向けられることになったのです。
実はこの文章を理解するためには大きな問題があります。ここでイエスが語られているのはこの新共同訳聖書が小見出しで紹介されているように「終末の徴」なのか、それともエルサレム神殿の崩壊に伴う徴なのかと言うところで解釈者たちの意見が分かれるからです。後の25節のところで「それから、太陽と月と星に徴が現れる」と人の子であるイエスの再臨の出来事、世の終わりの出来事が取り上げられています。ですからその前に紹介される様々な出来事は世の終わりの徴ではなく、エルサレム神殿崩壊に伴う徴であると考える人がいるのです。
私たちの世界では私たちがいままで経験したことがないような災害や戦争が起こると、「これは世の終わりの徴ではないか」と考える人が登場します。しかし、イエスは今日の箇所で「世の終わりはすぐには来ないからである」と語り、むしろ世の終わりの徴が現われたと主張する人たちを警戒するようにと命じているように思えます。
「どうして神様を信じているのにこんなことが起こるのか」と考える人々にイエスは「惑わされないように気をつけなさい」と語っています。なぜなら、私たちの心を惑わす者たちが必ず現われるからです。現代、私たちの世界はかつてないほどの情報の量があふれていて、私たちはその洪水の中で生きています。その中には大切な情報もありますが、むしろ私たちを不安に陥れるような情報も数々存在します。だからイエスは私たちにそれらの情報に「惑わされてはならない」と教えていうるのです。
そこでこう語るのです。「こういうことがまず起こるに決まっている」(9節)。言葉を換えて訳せば「こういうことがまず起こらねばならない」と読むことができます。つまり、これらの出来事は偶然に起こったものではなく、すべて神様の計画に基づいて起こったものなのです。そして、それらの出来事が神様の御旨によって起こっているものだとしたら、私たちにとって大切なのは、この神様を信頼し、人の言葉ではなくて、神様の言葉に従うことだと言うのです。
3.準備しなくてもいい
(1)その前に
イエスは更に続けて「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」(10節)と語っています。しかし、イエスの強調点はこれらの徴を見分けることではないことが次の言葉から分かります。「しかし、これらのことがすべて起こる前に」(12節)と語っているからです。将来起こるべき出来事に目を向けて心配している人々にイエスは、それよりもあなたがたが考えなければならないことがある、それはこれらのことが起こる前に、つまり、今これから何が起こる出来事であると言うのです。ここでイエスは世の終わりに向けられている私たちの目を、「今」、現実の信仰生活に戻しているのです。
聖書の解説書を読むと、この部分はおそらくこのルカによる福音書が記された当時に、この福音書を読んでいる読者たちが体験していた出来事であったと説明しています。つまり、この言葉がイエスの口から語られたときは、これらの出来事は近い将来に起こるべきことだったのですが、このルカの福音書の読者たちにとっては今、実際に体験している出来事であったと言うのです。そして福音記者ルカはこのイエスの言葉を紹介する形で、彼らが今遭遇している出来事の意味を教えようとしてとも言えるのです。
(2)神が与えてくださる言葉と知恵で証しせよ
信者が迫害の中で逮捕され、権力者の前に連れ出されると言う出来事を実際に使徒言行録に記されています。そしてイエスはこれらの出来事は「あなたたちにとって(自分の信仰を)証しする機会となる」(13節)と説明しているのです。イエスはここでとても興味深いアドバイスを読者たちに語ります。「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」(14節)と言うのです。当時、裁判にかけられる被告や、その弁護人はその裁判で自分の無実や正しさを主張するために予め演説を準備することが許されていたといいます。おそらくここで言われているのはそのような演説原稿を作る必要はないと言うことです。そしてイエスはその理由について次のように続けて語っています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(15節)。
この言葉を文字通り解釈して、人々の前で信仰を証しするために、あるいは教会で説教を語るために、予め原稿を準備して語ることはいけないと考える人たちがいます。しかし、それは少し違うと思います。むしろ、この言葉は権力者の前に立ってその信仰を証ししなければならないような重大なときに、イエスが必ず私たちに語るべき言葉を与えてくださると言うことを教えているのです。そして人々を本当に説得することができるのは人間の考え出した言葉ではなく、イエスが与えてくださる言葉だけだと言うことを言っているのです。私たちにとって大切なのは人の考え出した言葉ではなく、神様が与えてくださる言葉です。だからこそ、私たちの準備はいつも、聖書に示されている神のみ言葉に耳を傾けることしかないのです。それ以外の準備はする必要がないのです。私たちは神様が与えてくださった言葉に基づいて、自らの信仰を証しすればよいと言うのです。
4.忍耐によって、命を勝ち取れ
(1)すべては神の愛の御手を通して起こる
イエスはここで続けて、私たちの家族や親族の中で起こる裏切りについて語っています。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(16〜17節)。
私たちにとって2000年近く前に崩壊してしまったエルサレム神殿の存在は遠いものかもしれません。しかし、ここに登場する家族や親族の存在は、私たちが最も頼りにしているものかもしれません。しかし、そのように自分が頼りにしているものが、むしろ自分を裏切るようなことが起こるとイエスは語るのです。しかも「中には殺される者もいる」と言うのですから驚きます。
しかし、その一方で私たちが毎日見ている新聞やテレビの報道では、考えられないような事件が数々起こっているのも事実です。親が子供を殺し、子供が親を殺す事件が相次いで起こっています。ですから矛盾に満ちたこの人間社会ではこれらの出来事も十分に起こりうることだとも言えるのです。
さて私はこの説教の最初の部分で信仰を受け入れて洗礼を受けたのに、考えてもいなかった問題が数々起こってしまって、「こんなはずではなかった」と教会生活から離れて行ってしまった人がいるということを話しました。そしてそれは神様の約束を誤解していることから生まれたと説明したのです。
確かに問題が起こったからと言って教会生活から離れてしまうのは問題ですが、私たちが人生に起こる様々な問題を深刻に考えざるを得ないのはむしろ私たちが愛なる神様を信じているということから生まれてくるとも言えるのではないでしょうか。なぜなら、今触れましたように、どんなに思ってもいなかったような問題が起こったとしても、この矛盾に満ちた人間社会を考えるとき、その問題は生まれるべくして生まれたと説明することができるからです。かつて信仰を持っていなかった私たちはこの世界や自分の人生に希望を持っていませんでしたから、どんな問題が起こってもある意味では、それは仕方のなかことと諦めることができたのです。しかし、信仰を得た今の私たちは違います。なぜならどんなに矛盾に満ちた出来事が私たちの上に起こっても、聖書はそれが私たちの救いのために起こると言っているからです。
(2)答えを与えてくださる神様
イエスは私たちにこう語るのです。「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(18〜19節)。どのような事が起こっても、神の私たちに対する救いの計画に変更はないとイエスは語ります。だから私たちは忍耐することができるのです。神様の計画を信頼することができるからこそ、私たちは忍耐して、今の時を生きることができるのです。
おそらく、ここに集まる私たちの人生にも今までいろいろな問題があったと思います。もちろん、今もなお私たちは沢山の問題を抱えていることも事実です。しかし、私たちが信仰の目を持って見るとき、その問題が自分の信仰にとってどんなに大切であったかを知ることができるのではないでしょうか。
この間、私は前任地の教会で行われた一人の姉妹の葬儀に出席しました。私は今から20年近く前にその夫人のご主人の病床洗礼に立ち会い、葬儀を行いました。その夫人とのいろいろな思い出が残っています。その夫人が90歳で天に召されて、葬儀ではその夫人の今までの信仰生活が牧師の説教を通して紹介されました。私も本人から聞いてことがありますが、この夫人が教会に導かれたきっかけは、まだ大学院生だった娘さんが病気でなくなられたことにありました。その娘さんは教会学校で教師をするような熱心な信仰者でした。そして人生の上に突然に起こった出来事、説明のつきようない出来事の答えを求めてこの夫人は娘さんが通っていた教会へと導かれたのです。それ以来、長い信仰生活を送って天に帰られたこの夫人の信仰の証しを私は葬儀で聞いて、神様はこの方の信仰生活を通して答えを与えてくださったのだと思うことができました。
同様に私たちの生涯にどのような出来事が起こっても、信仰を持って忍耐して待つ、私たちに神様は必ず答えを与えてくださるのです。そのような意味でこのイエスの言葉は問題の中に生きる人々に忍耐して生きることができる希望を与えるものだと言えるのです。
【祈祷】
天の父なる神様
私たちが確かなものと考え、また頼りにしているものが跡形もなく崩れ去ってしまうとき、私たちは混乱してしまいます。もし、神様の約束の言葉が私たちを支配してくださらなければ、私たちは様々なものに惑わされてしまう者たちです。私たちにあなたのみ言葉を豊かに与えてください、そしてそこに明らかにされているあなたの計画の確かさに私たちの心を向けさせてください。私たちがあなたから与えられる答えを得るまで、また命をいただくまで、忍耐して、信仰にとどまることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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