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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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十字架にかけられた王

(2010.11.21)

聖書箇所:ルカによる福音書23章35〜43節

35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

1.十字架から降りないイエス
(1)イエスの十字架を取り囲む人々

 今日の箇所では十字架にかけられたイエスが登場しています。ここで語られているイエスの言葉、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)は『イエスの十字架上での七つの言葉』の一つとして知られる大変に有名な言葉です。イエスと共に十字架にかけられた犯罪人たちについて、マタイ、マルコの二つの福音書は十字架を取り巻く他の人々と同じようにイエスを侮辱し、罵ったと記しています(マタイ27章44節、マルコ15章32節)。しかし、ルカは彼が持っていた別の資料に基づいて、この犯罪者たちの様子について別の報告をしているのです。
 「されこうべ」と呼ばれる丘の上で十字架刑に処せられたイエスの姿を描写した福音記者ルカは、イエスの十字架を取り囲む人々の姿を次のように記します。民衆は立ってこの光景を見つめています(35節)。当時のユダヤの指導者たちであった最高法院の議員たちはイエスをあざ笑います(35節)。同様に、この十字架刑の直接の執行人であったローマ兵たちもイエスを侮辱したのです(36節)。その上でイエスの十字架を挟んで同じように十字架刑にされた二人の犯罪者の一人は議員やローマ兵と同じようにイエスを罵っています(39節)。しかし、もう一人の犯罪人は他の登場人物とは全く違った態度をイエスに示しているのです(40〜42節)。

(2)天国泥棒

 古い聖書の訳ではこの「犯罪人」は「強盗」と訳されていたはずです。この二人の犯罪人がどんな罪を犯していて、十字架にかけられたのかに関しては明確に聖書は語っていません。ただ、当時のローマの役人は簡単に犯罪者を十字架刑にする事はなかったと言われています。十字架刑はもっとも過酷で残酷な刑罰ですから、特にローマの国家権力に対して反旗を翻した反逆者たちにのみこの処刑方法がとられたのです。イエスはここでは国家反逆罪の罪で十字架にかけられています。十字架上につけられた「ユダヤ人の王」と言う罪状書きの言葉はこの国家反逆罪の罪を示しているのです。なぜなら、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあったため、その王はローマ皇帝のみと考えられていました。そこで自分を「ユダヤ人の王」と呼ぶ人物はこのローマ皇帝の支配を認めないことになってしまうのです。もちろんこの罪状書きはユダヤ人たちの偽証によってでっち上げられたものでしかありませんでした。しかし、福音書はこの十字架にかけられたイエスこそ、神様がダビデに約束された王位を継承する真の王、救い主であることを私たちに示そうとしているのです。
 私がまだ教会に通い始めた頃に、「この聖書箇所に登場する強盗は本当に泥棒だった」と言うような話を聞いたことがあります。この強盗はいったい何を盗んだでしょうか。彼はその人生でいままで不信仰な生活を続けていたのです。ところが自分の死を間近にした最後の最後の瞬間にイエスによって罪許され、「あなたは今日楽園にいる」と約束していただいたからです。彼は何の苦労もせずに一瞬で天国を手に入れた、だから「天国泥棒」だと言うのです。本当に彼を天国泥棒と言っていいのかはともかくとして、彼の存在は私たちが悔い改めて、福音を受け入れるチャンスが人生の最後の一瞬まで残されていると言うことを示していると言えます。彼は教会の礼拝に出席した訳でもなく、また洗礼を受けた訳でもありません。しかし、最後にはイエスに「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と救いの約束をいただいているからです。
 イエスの十字架を取り囲む人々の姿を通して、またイエスがそこで語られた言葉を通して、私たちは救い主イエスの御業について考えてみたいと思います。

2.議員と兵士たち

 さて先程も触れましたようにイエスの十字架刑の様子を民衆はじっと立って見つめていました。彼らはそのようにして、これから何かが起こるのではないかと観察していたといえます。それでは彼らはそこで何が起こることを期待していたのでしょうか。その期待が次の議員やローマの兵士の言葉から明らかにされています。

「議員たちは(イエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)。

 最高法院の議員たちはイエスが神から遣わされた約束の救い主であるとするならば、ここで自分を十字架刑から救い出して、その証しを立ててみろと言っているのです。本当の救い主なら「自分を救う」ことができるはずだと彼らは考えたからです。つまり、もしイエスが十字架から降りることなく、死を迎えるとしたらそれは彼が真の救い主ではなかったと言うこと明らかにしめすことだと言っているのです。
さて、もう一方のローマの兵隊も結局は同様のことをイエスに語りかけています。

「(兵士たちもイエスに近寄り)言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)。

ローマの兵士も議員たちと同じようにイエスに「自分を救ってみよ」と語りかけます。しかし、彼らの関心は議員たちと少し違っています。ローマ兵たちにとってユダヤの人々が信じる救い主は興味の対象ではありませんでした。むしろ、自分たちの上に絶対的な権力を持って君臨しているローマ皇帝や、彼と同等に力を持つ政治的な指導者、つまり「王」こそが彼らの関心の的だったのです。
 もし、イエスが王であるとしたら、たとえ彼自身には何も奇跡は起こせなかったとしても、ここで民衆を動かして、自分を十字架から救い出すことができるはずです。彼らはイエスに今こそ、お前の王としてのリーダーシップを表わして、自分を救い出させるときではないかと言っているのです。つまり、彼らもまたイエスが王であるかどうかは「自分を救えるか」どうかにかかっており、もし、ここでイエスが何もできないままであったとしたら、イエスは王ではないと言うことを示す明らかな証拠になると考えたのです。
 このように両者の関心は微妙に違っています。しかし、イエスにむかって「自分を救え」と言う点では一致しているのです。ところが、彼らの質問に対してイエスは沈黙を守り、答える姿勢を見せていません。いえ、むしろ聖書記者は黙って十字架の上にとどまり続けるイエスの姿こそがイエスが救い主である明確な証拠だと言っているように思えます。それではいったい、このイエスの答えの意味は何なのでしょうか。それが次のイエスと共に十字架につけられた犯罪者たちとの会話で明らかになってきます。

3.イエスを罵る犯罪人
(1)自分たちを救え

 次に登場する二人の犯罪人は先に登場した民衆や、議員、ローマ兵とは明らかに違った立場に立たされています。十字架につけられて耐えることのできない苦しみの受けながら、自分の死を待っているのが彼らの姿なのです。彼らは他の人々と違いきわめて危機的な状況に立たされています。もちろんすべての人々は死を避けることができませんし、自らの死という出来事を前に危機的な状況に置かれていると考えることができます。しかし、私たちの多くは幸か不幸か自分の死と言う出来事を普段は意識することなく生きています。しかし、この二人はこのとき自分の死を意識せざるを得ない立場に立たされたのです。
 そして二人はこのように同じ立場に立たされていながらも、イエスに対しての態度という点で明確な違いを表わしています。

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」」(39節)。

 イエスと共に十字架につけられた一方の犯罪人、彼もまた、イエスに対して「自分自身を救ってみろ」と語りかけています。それを通してイエスがメシアである証拠を示せと言うのです。ただ、彼が他の人と違う点は、彼の置かれた危機的な状況から出る「我々を救ってみろ」と言う言葉です。迫り来る自分の死を回避できる道を示せと彼はイエスに言っているのです。しかし、これは彼の心からの願いであったのかと言えばそうではないような気がします。むしろ、彼は「そんなことはできっこないだろう」と言って、イエスに対して「だからお前はメシアでも、王でもないはずだ」とののしっているだけなのです。

(2)他人に責任を転嫁して生きる人生

 この後に出る犯罪者の態度と彼の態度を比較する際に分かることは、彼は自分自身の犯した罪を認めず、その責任をまったく回避しているのです。「自分が生きるか、死ぬかはお前の力にかかっている、だから責任を取って私たちを救ってみろ」。と彼はイエスに向かってこのように主張しているようなものです。もしかしたら、彼の今までの生き方のスタイルはこれと全く同じであったのかも知れません。自分が不幸なのはいつも支配者のせいであり、政府のせいであると言ってはその責任を誰かに課して来たのかもしれません。
 先日、久しぶりに会った友人から有名なキリスト者であった賀川豊彦について話を聞く機会がありました。彼は最近、熱心に賀川豊彦の生涯について研究しているからです。賀川豊彦は神戸の貧民窟に入ったり、生活協同組合を作ったり、労働運動を導いたりした社会運動家として有名です。しかし、彼の運動が他の社会主義者や共産主義者と違ったところは、問題の解決を資本家と労働者の対立として考え、階級闘争を呼びかける人々とは異なり、賀川は資本家も労働者も共に神様の前に悔い改めることが大切であると考えた点です。それがなければ社会の構造を変えたとしても問題はなくならないと彼は考えたのです。そう考えるとイエスを罵った犯罪者は、社会や権力者の責任を問うても、自分自身の責任を考えることなく、そのため悔い改めの必要性も感じることがなかった社会主義者や共産主義者と同じような人物であったと言えるのです。

4.もう一人の犯罪人
(1)自分の罪と向き合う犯罪者

 ところがこの犯罪人と違い、もう一人同じように十字架刑に処せられていた人物はイエスに対して次のような全く異なった態度を取っています。

「すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」」(40〜41節)。

 もう一人の人物はイエスを罵ったもう一方の犯罪者をたしなめています。そして自分の責任をイエスに転嫁しようとする彼の態度を「神を恐れない」行為だと非難しているのです。そして、この後半に登場する犯罪者の特徴は何よりも次の二つの点にあると考えることができます。
 第一は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と語っているように、彼は自分が犯した罪と向き合い、自分の犯した罪の責任が問われてこの刑罰を受けているのだということを自覚し、また表明しているところです。自分の人生の責任を第三者に転嫁しても、そこには何の救いもありません。それはもう一方の犯罪人がしたように自分の人生に対する絶望を一層深めるだけのものでしかないのです。しかし、その反対に自分の罪と向き合うものには大きな希望が残されていることをこの人物は私たちに教えているのです。

(2)イエスは真の救い主

 そしてこの人物の第二の特徴はイエスについて「しかし、この方は何も悪いことをしていない」と語っている点です。彼はイエスが十字架刑にかかるような罪を何も犯してはいないと言うことを知っているのです。もしかしたら彼の他の多くの人々はイエスが言われ無き罪の責任を問われて十字架刑につけられたことを知っていたのかもしれません。しかし、誰も自分に害が及ぶことを恐れて、イエスが無罪であることを語ろうとはしませんでした。しかし、この人は違いました。自分の死を自覚している彼にとって恐れる者はもはや神以外にはなかったからです。それために彼は大胆に、ここでイエスの無罪を主張しているのです。
 ここには他の人とは違ったイエスに対する彼の異なった評価が現われています。先程言ったように人々はイエスが自分を救って十字架から降りるならば、それがまことの「救い主」であると考えたのです。しかし、彼はイエスが自分では問われるべき罪を何も犯してはいないことを知っています。しかも、そのイエスが十字架から降りることなく、厳しい裁きを甘んじて受けようとする姿を目撃しているのです。そこで彼の下した結論は次のイエスに対する言葉によって明らかになります。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(43節)。

「あなたの御国においでになるときには」と彼は語っています。「御国」とは「支配」と言う意味を持っていますから「あなたの支配する国においでになるとき」と言う意味で、彼はイエスが王であることを告白しているのです。つまり、神が遣わされた真の王がこのイエスであること、またイエスが救い主であることを表明しているのです。彼はイエスが十字架にかかることで、しかもそこから降りることなく死を迎えようとする姿を通して、彼こそ約束さえた救い主、また真の王であると確信し、また自らの信仰をここに告白したのです。

(3)楽園の約束

 「わたしを思い出してください」と彼は語っています。彼はイエスに「そこに自分も連れて行ってください」と言っているのではありせん。「思い出してくださるだけでよい」と語っているのです。ここには彼のイエスに対する謙遜と、強い信仰が表わされています。彼はイエスが自分のことを思い出してくれるだけで、それだけで自分は確実に救われると確信しているのです。かつて、イエスの元に「病気の部下を直してください」とやってきたローマの百人隊長は、イエスに「わざわざ足を運んでいただかなくても、お言葉をいただくだけで自分の部下は癒されるはず」と語りました。この人は百人隊長と同じようにイエスの絶大な力を信じているからこそ、このような言葉を語ることができたのです。
 そしてイエスはこの人の信仰を受け入れて、ここで沈黙を破って彼に語りかけました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。ここでは「天国」ではなく「楽園」と言う言葉、パラダイスと言う言葉が使われています。この言葉から想像できるのは創世記に記されているように最初の人間が神様と共に暮らした場所です。そして人間は罪を犯すことによりこの「楽園」から追放され、祝福を奪われてしまったのです。イエスはここで人間が失ってしまった「楽園」に彼を導くと語っているのです。「楽園」とは人間と神様との関係が回復される場所、私たちの本当の命が回復される場所なのです。
 たとえ地上の死を間近にしていても、イエスを救い主と信じる者には誰にもこのイエスの祝福に満ちた言葉「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」が語られるのです。どんな人間の励ましも、支えも及ばないところでも、確かにイエスの祝福の言葉を聞くことができるのです。そして、この言葉が確かである証拠こそ、十字架から降りることがない救い主イエスの姿を通してはっきりと示されていることを聖書は教えているのです。

【祈祷】
天の神様。
 私たちもまた自分の犯した罪の責任の故に厳しい裁きを負わなければならないものです。しかし、救い主イエスは十字架の上でその裁きを私たちに代わって受け、死ぬことによって、私たちをその裁きから救い出してくださったことを心から感謝します。私たちがそのあなたを信じることにより、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言う言葉を私たちに語られた言葉として聞くことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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