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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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主イエス・キリストを身にまとう

(2010.11.28)

ローマの信徒への手紙13章11〜14a節

11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

1.待降節と終末のとき
(1)時の中心イエス・キリスト

 今日から教会暦はクリスマス(降誕祭)を準備する待降節に入ります。私たちはクリスマスと言うと年末の慌ただしい季節を思い浮かべます。しかし、教会のカレンダーはこの待降節の第一主日から新しい一年が始まる仕組みになっているのです。普通のカレンダーと違って、この教会暦はイエス・キリストの生涯を追う形で聖書の箇所が決められています。この教会暦に従って礼拝を献げる者はこのイエス・キリストと共に一年間の生活を送ることができるようになっているのです。そのような意味でこの教会暦の中心はイエス・キリストであると言えるのです。
 今日のこの待降節の第一主日の聖書箇所はパウロの記したローマの信徒への手紙の言葉が選ばれています。この箇所でも「時」と言う言葉が登場しています。実はここでパウロが語る「時」も私たちが普通、時計などで調べるような「時」とは違った意味を持っています。簡単に言えば、パウロが語る「時」とはいつもイエス・キリストと関係している「時」と言えるのです。そしてパウロが語る「時」の中心もこのイエス・キリストにあると言うことができるのです。私たちはこのパウロの語る「時」の意味を理解しながら、この待降節の歩みを始めたいと思うのです。

(2)主イエスの再臨の時

パウロはこの箇所でまず次のように語ります。

「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)

 パウロがここで語っている「あなたがた」とは直接的にはこの手紙を最初に受け取ったローマの信徒たちのことを指しています。しかし、それと同時にローマの信徒と同じように、イエスを救い主として受け入れているすべての信徒たち、つまり今ここで礼拝を献げている私たちもまた、この「あなたがた」に含まれていると考えてよいのです。パウロはここで「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と語ります。言葉を換えれば「イエスを救い主として受け入れているあなたたちなら、今がどんな時であるかを知っていて当然です」とパウロは言っているのです。

 それではイエスを信じる私たちが知っていて当然な時とはどういう時なのでしょうか。パウロは続けてそのことについて語ります。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」。

 ここに「眠りからさめるべき時」とあります。この眠りとはどのような意味なのか、いろいろな解釈を考えることができます。ただこの場合は、死んだ者が復活するとき、死から命へと目覚めるときを語っていると考えてよいと思います。つまり、イエス・キリストが再びこの地上に来られる再臨のときに、死んだ者がすべて甦らせられるときが近づいているとパウロは言っているのです。だからそのことをパウロは言葉を換えて「救いは近づいている」とも言っているのです。
 神様が立てられた救いの計画に従い、イエス・キリストがこの地上にもう一度おいでになる時を、パウロはここで「眠りからさめる時」とか「救いの時」と呼んでいるのです。そして、イエスを信じる私たちはこのときが近いと言うことを知っているはずだとパウロは語っているのです。
 その上でパウロはその時を知っているあなたたちは当然、今をどのように生きるべきかをもよく理解できる者たちではないのかと言っているのです。

2.今のときの意味
(1)変ってしまった「時」の意味

 黒澤明監督の作った「生きる」と言う映画の中に登場する主人公は市役所で働く職員として長い年月を人間関係に波風を立てることなく、すべて事なかれ主義を貫いて過ごしてきました。ところが、彼はある日自分がすでに治療が困難な病気に冒され、余命あとわずかであることを知らされます。そして、主人公はこのことを境に自分が「生きる」とはどういうことなのかを考え始めるのです。彼は自分に残された人生をどのように生きるべきかを考え、新しい生き方を始めるのです。
 この映画の主人公にとって、かつて「時間」とは無意味に流れていくだけのものであり、その退屈な時間を生きていくことが彼の人生であったのです。しかし、彼は自分が不治の病にかかり、残された人生の時間があとわずかでしかないことを知ったとき、その人生の時間の意味は変ってしまったのです。残された時間で自分が生きているという実感をどのように見いだすのか、彼はその問題に真っ正面から取り組みながら、満足のうちにその最後を迎えていくと言うのがこの映画のストーリーです。
 ローマの信徒への手紙を記したパウロも実は、この映画の主人公とは全く違う形ではありましたが、自分が考えていた「時」の理解を全く変えてしまうような体験を味わいました。それがイエス・キリストによる救いの出来事でした。
 パウロはかつてファリサイ派の熱心な信徒として、日々律法を守ることによって自分の救い、永遠の命を神様からいただこうと努めて来た人物でした。ところが、パウロはある日、復活されたイエス・キリストに出会うことになります。そして彼はそのイエス・キリストが神様の前に罪を犯し続ける人間のためにどのような救いを成し遂げてくださったかを知ることができたのです。
 このローマの信徒への手紙は聖書の中でもイエス・キリストによって成就した救いの出来事を見事にまた、読む人に分かりやすく記した書物として有名なのです。そしてパウロはこのローマの信徒への手紙の中でイエス・キリストが私たちの救いのためにすべてのことをしてくださったことを力説しているのです。そのイエス・キリストの御業に私たちが何かを付け足す必要がないほどに彼の救いの御業は完璧なものなのです。そして私たちはそのイエスの勝ち取ってくださった救いを彼を信じる信仰によって受け取ることができるとパウロは語っているのです。
 それではこのイエスの救いを信仰を持って受け入れる私たちはどう生きていくべきなのでしょうか。言葉を換えて言えばイエス・キリストによって救われた私たちは「今」のときをどのように生きていくべきなのでしょうか。それは自ずと、イエス・キリストもその救いも知らない人々、またその救いに対して明確に拒否の態度を取る人の生き方とは全く違ったものとなってくるはずです。実はパウロが今日の聖書の箇所で言っていることはそのことのです。つまりパウロは「あなたたちはイエス・キリストに救われた者として今のときをどのように生きるべきかを知っているはずだ」とこのローマの信徒への手紙の読者たちに訴えかけているのです。

(2)救いが完全に実現する時

 私たちが受け入れたイエス・キリストの救いは、この地上においてまだ完全な形として実現しているわけではありません。それはまだ約束手形のようにすべてが現実になっておらず、その実現のときを待っているのです。そしてそれが実現する時がパウロが語っている「あなたがたが眠りから覚めるべき時」であり、イエス・キリストの再臨のときであると言えるのです。
 世の終わりの出来事について興味本位に取り扱う者たちは、その変化によってどのようにこの地上に驚くべきことが起こるのかを力説します。そしてそれによって人々を不安に陥れることが度々あります。しかし、キリストの救いが完全に実現する日を待ち望む私たち取って、イエス・キリストの再臨のときは不安を呼び起こすときでも、恐怖に陥れられるときでもありません。その日はまさに喜びのときなのです。だから私たちはその日を希望を持って待っているのです。
 パウロはここで「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と言っています。パウロはイエス・キリストが再臨されるときがもうすぐであると言う緊迫した終末意識を持っていたからこそそう言えたのだと言う人がいます。しかし、だからパウロの時代から2000年近くも立った現代の人間はこのパウロと同じような緊迫した終末意識、イエス・キリストがすぐに来られるという意識を持ちにくくなっているとも語るのです。つまり、パウロがここで語る「そのときが近い」と言う意識を現代人はなかなか持ちにくいものだと考えるのです。しかし、本当にそうでしょうか。パウロはここで「信仰に入ったころより、救いは近づいている」と言っているのです。つまり、私たちが信仰生活を送っていくなかで近くになっていると言っているのです。
 私たちは信仰生活には様々な出来事が起こります。喜びや感謝に満たされる出来事もあれば、失敗や後悔に襲われることもあります。しかし、聖書を通してイエス・キリストの救いを示されている私たちはそのすべての出来事を通してイエスが私たちに救いを実現してくださると言うことを知っているのです。そう考えると、私たちに対するイエス・キリストの救いは私たちの信仰生活を通して着実に完成の時へと導かれていると言うことになるのではないでしょうか。つまり、私たちにとっても救いの時はさらに「以前より今のほうが」近くなっていると言うことができるのです。

3.キリストを身にまとう
(1)相応しい生き方をしなさい

さてパウロはここで、このイエス・キリストの救いの出来事を通して「時」の本当の意味を知る者は、そうでない者と次のように生き方が違ってくると説明しています。

「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て(なさい)」(12〜13節)。

「夜は更け、日は近づいた」と語られています。暗闇が深ければ深いほど、夜明けは近づいていると言います。もしかしたら、この手紙を受け取った人々の人生は今まさに「夜の闇」のような状態にあったのかもしれません。だからパウロはここで「救いの時が近づいた、希望を持って生きなさい」と彼らを励ましているのです。そしてこのままではどうなってしまうのだろうかと恐れる人々にあなたたちを守る「光の武具があるから、それを身につけて勇敢に生きなさい」と薦めているのです。
また「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と言うパウロの薦めも、イエス・キリストの救いが実現することを待っている者は、それに相応しい生き方をするべきだと言うことを重ねて強調していることになるのです。そしてここにはそれとは全く反対の相応しくない生き方の具体的例が列挙されています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て(なさい)」がそれです。平和と繁栄を謳歌する当時のローマの社会の中で大半の人はパウロの語る「時」の意味を知らないで生きていました。それはまるで黒澤映画に登場した主人公のかつての生き方のように退屈な時間をもてあましながら生きていたのです。

(2)イエスを見つめ、イエスを身にまとう

ある説教者はこのパウロがここであげた実例の中で特に「争いとねたみ」と言う問題に焦点を当てています。もちろん、他の例が私たちと無関係であると言うわけではありません。しかし、その説教者は特に「争いとねたみ」から全く無関係であると言える人は一人もいないのではないかと言っているのです。しかも、神学者や信仰者の「争いやねたみ」は普通の人よりも巧妙に隠されていて、陰険であると言うのです。私たちは後ろめたさを感じながらも「争いやねたみ」と無関係に生きることができません。だから、それを隠すのです。後ろめたさを感じない人はむしろ、それを公に示して生きていてもいいからです。
もちろん、私たちに与えられたイエス・キリストの救いは変ることがありません。必ず主イエスは私たちを最後の日の完成へと導いてくださるのです。しかし、それは私たちの地上の生活に一切、問題が起こらないと言うことを言っているのではありません。だから私たちはこの地上の生活の中で、救われた者として相応しい生き方に努める必要があるのです。

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(14節)。

パウロはそんな私たちに「主イエス・キリストを身にまといなさい」と教えます。私たちに心は千路に乱れ、あらゆるところに向かう傾向があります。しかし、そんな私たちの心を徹底的にイエス・キリストに向けることが私たちの信仰の勝利につながると言っているのです。同様にヘブライ人への手紙の著者はこの生き方を競争にたとえてこう言っています。

「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12章1〜2節)。

問題を見つめても私たちは自分の愚かさや無力さに絶望して、立ち止まってしまいます。だから私たちは徹底的に私たちを救いに導いてくださるイエス・キリストを見つめ続ける必要があるのです。私たちの信仰生活のすべてをこのイエス・キリストが支配してくださるために、その方を見つめ続けるのです。それはまさに私たちが「主イエス・キリストを身にまとってしまう」のと同じです。そうすれば、主は私たちを守り、私たちの生活から不必要なものを取り去ってくださるのです。パウロはこのイエス・キリストを見つめ続ける生き方こそ「今」を生きる私たちの生き方であると教えているのです。

[祈祷]
天の父なる神さま。
 ことしも待降節に入りました。どうかこの季節、私たちに対してあたえられた救い主イエス・キリストを見つめるときとしてください。私たちがもし他のものに目を向けるなら、私たちの時間は無意味で退屈なものとなってしまいます。しかし、あなたは私たち心を聖霊で満たし、今を生きるに相応しい姿をあたえてくださいます。そのことを覚えて、大切な今のときを希望を持って生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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