1.忍耐のかけた私たち
(1)忍耐を持って待つ
待降節の第二主日の礼拝を迎えました。教会暦がこの時期の私たちに求めていることは「待つ」と言うことです。やがて訪れよとするクリスマスの祝福、それはイエス・キリストを通して実現された神の素晴らしい救いの計画を物語るものです。その祝福を私たち一人一人が共に喜び、また神様に感謝を献げるためには準備の時が必要です。また、何度も語りますようにこのイエス・キリストによって実現した神様の救いの計画は、もう一方でその完成のときを待っています。イエス・キリストの再臨、終わりの日の出来事こそがその完成のときです。ですから待降節は同時に、この救いの完成のときを待つ私たちの信仰を確認するときであると言えるのです。
しかし、私たちはどれだけ日常生活において「待つ」ことに力を注いでいるでしょう。願ったものをすぐに手に入れることが常識のように考えられている現代社会で、私たちは「待つ」と言うことに関心を払うことなく、また力を注ぐこともなくなっているようです。今日の聖書の箇所では何度か「忍耐」と言う言葉が登場します。「こらえること」、「耐え忍ぶ」ことが私たちの信仰生活にとって大切であることここに教えられているのです。もちろんここで言われている「忍耐」は私たちが普通に用いているような単なる「がまん」を語っているのではありません、この「忍耐」は私たちの信仰と深く結びついたもの、また信仰の重要な要素であるとも言えるものです。今日はこの「忍耐」と言う信仰の要素を通して、神様の救いの計画の完全な完成の時を待つことについて考えてみたいのです。
(2)少しでも待つことができない
教会にはよく、「相談したいことがある」と言った電話が不特定の方々からかかってきます。悩みや問題を抱えて、電話をしてこられる方々です。私は普通、このような電話をいただいた場合必ず「今は十分な時間がありませんが、後ほど時間を取って、そのお話を聞かせていただきたいと思います。できれば何日の何時頃にもう一度電話をしていただけませんか」と答えるようにしています。どうしてそう答えることにしているかと言えば、相談の内容次第では長時間にわたる可能性があるため、予めこちらの事情を整えておいた上でその相談を聞く必要があるからです。なぜなら仕事中とか多忙なときに、このような相談を受けた場合には「早く終わらせない」と言うこちらの事情が生じて、相手の話に真剣に耳を傾けることができない場合があるからです。
ところが、そうお話しするとほとんどの人は「それじゃ、結構です」と電話を切ってしまうのです。中には返事もせずにいきなりガチャリと電話を切ってしまう方がいて、後味の悪い思いをすることがあります。本当に深刻な問題なら短時間で解決することはほとんど不可能です。しかし、少しでも待つことができないのです。もちろん、これは他人事ではありません。私たちもまた同じような失敗を繰り返します。長い時間をかけてこじれにこじれた問題を、わずかな時間で解決できる手段はないかと安易な方法を求めてさまよい、結局は無駄な時間を過ごしてしまうのです。
(2)旧約聖書に記された救いの歴史
しかし、私たち人間を支配している罪と死の呪いは、簡単な方法では解決することができません。ですから最初の人アダムから始まったこの問題を、神様は解決されるために長い時間をかけられたのです。そしてその救いの時間、救いの歴史が記されているのが私たちの手にしている旧約聖書の物語です。今日の箇所でパウロは次のように語っています。
「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(4節)。
旧約聖書の創世記3章では最初の人間アダムとエバが神様の言いつけに背き、最初の罪を犯したと言う物語が記されています。実はこの3章の中に神様がエバを誘惑したへびに対して語られた不思議な言葉が記されているのです。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」(創世記3章15節)。
キリスト教会ではこの言葉は人類に最初に語られたキリスト預言の言葉と考えてきました。女の子孫マリアの子として生まれたイエス・キリストが、十字架にかかり、ご自分の命を捧げることを通して悪魔とすべての力に勝利すると言う福音の出来事がこの言葉を通して人類に約束されたのです。パウロは救いを待ち望む私たちにとって旧約聖書に書かれている事柄はすべて有益なのだと教えているのです。そしてそれだけではなく、聖書を通して私たちは「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」と語るのです。
なぜなら、私たちはこの旧約聖書に書かれている物語を通しても神様がご自身で約束されたことがらに最後まで責任を持ち、かならず実現してくださると言うことを知ることができるからです。そして旧約聖書に登場する信仰者たちは皆この神様に信頼し、忍耐と慰めを学ぶことで神様からの豊かな祝福を受けることができたのです。
2.心を合わせて声をそろえて
(1)違った考えの人々を受け入れる
ところでパウロがこのローマの信徒への手紙の中でこの「忍耐」と言う言葉を強調するのには一つの大きな原因があると考えられています。この直前のローマの信徒へ手紙14章を読んでみると当時のローマ教会には実は信仰生活についての考えた方が食い違った二つのグループが存在していたことが分かります。一方のグループは旧約聖書の時代からの戒めに従い、信仰者には食べていけないものと、食べて良いものがあると考えていました。また信仰者が大切にすべき特別な日があると考えていたと言うのです。しかし、もう一方のグループの人々は今や信仰者はキリストの救いによって、旧約聖書の細かな戒めから自由にされていると考えたのです。
以前、毎週金曜日の晩に一人で教会を訪ねて来て、熱心に祈りを捧げていかれる男性がおられました。私はその方に「日曜日の礼拝に出席されませんか」と薦めたのですが、彼はきっぱりと「安息日は旧約聖書の時代から変らず土曜日です。だからこそ私は一人でも安息日に礼拝を献げているのです」と言われたのです。ユダヤの暦の数え方は新しい一日は日没のときから始まると言われています。その方が毎週、金曜日の夜に教会を訪れたのは、この土曜日の安息日を守る意味があったのです。ご存知のように私たちキリスト教会は、今は礼拝を毎週日曜日に守っています。その根拠はこの日曜日の朝、イエス・キリストが墓から甦り、復活されたからです。日曜日の礼拝はイエス・キリストが復活された喜びを私たちが思い起こすために献げられているのです。それでは旧約聖書の安息日はどうなったのでしまったのでしょうか。キリスト教会はイエス・キリストの御業を持って旧約聖書の戒めがすべて成就されたと考えています。ですから、私たちにとって特別な日はなく、一週間すべてが安息日だと考えているのです。パウロもまたこの手紙の中で私たちが旧約の数々の戒めからキリストによって自由にされたことを教えているのです。
しかし、その上でパウロは違う考えを持ったグループの人々を「躓かせてはならない」、信仰の友として受け入れるべきであると言っているのです。もちろんパウロも無節操に誰でも受け入れない際と言っているのではありません。違った信仰の考え方を持ちながらも、この二つのグループの人々は共に主のために生き、主のために死のうとしている人々だからです。そして主イエスはこれらのすべての人々のために十字架にかかり死なれと考えることができるからです(14章6〜9節)。
パウロはすべての人々が「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方を(たたえるように)」と言う願いを持って、心を合わせて礼拝を献げるためにはお互いに忍耐が必要であると言っているのです。
(2)神様から「忍耐」をいただく秘訣
ところで私たちは忍耐と言うと普通、人間に備わっている徳目や才能の一つのように考えます。しかし、この聖書を読むと分かってくるのは、ここで語られている「忍耐」は私たちが元から持っているものではなく、神様から与えられる賜物の一つであると言うことです。ですから私たちは「忍耐と慰めの源である神」からこの忍耐をいただく必要があるのです。
それではどうすれば私たちは神様からこの「忍耐」と言う賜物をいただくことができるのでしょうか。パウロは語ります。「キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」(5節)、またさらに「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7節)と言うのです。私たちが神様から「忍耐」の賜物をいただくためには、私たちの心を主イエスに向けること、そして主イエスに倣うことが大切なのです。主イエスはこの私たちを救うためにどれだけ忍耐されたのでしょうか。そしてその主は今の私たちに何を望んでおられるのでしょうか。争いの中でさまざまなところに向けられている私たちの関心を、もう一度、主イエスのところに向けるとき、神様は豊かにご自身が持っておられる「愛」と「忍耐」の賜物を私たち一人一人に与えてくださるのです。
大切なのは私たちが人間同士の我慢比べから早く手を引いて、恵みの主イエスに私たちの心を向けることなのです。人間同士の我慢比べには、必ず限界がやってきます。しかし、私たちの主イエスがくださる「忍耐」は、私たちに信仰にある希望を豊かに与えてくださるのです。
3.異邦人の救い
(1)天国にはたくさんの人が招かれている
アメリカ人のクリスチャンに教えてもらったジョークの中にこんな話があります。ある人が天国の門番であるペトロに天国の中を案内してもらうことになりました。ところがペトロはある小部屋の小さな扉の前に立ったとき、「この扉の前では静かにしてください」と注意を促したのです。ペトロはその理由をこう語りました。「この部屋の中にはバプテスト教会の人たちが集まっています。彼らは自分たちだけが天国にいると思っていますから、彼らを驚かせないように静かにしてもらえますか」と…。もっとも、このジョークには色々なバージョンがあって、「正当長老教会」とか他のキリスト教の教派の名前で置き換えられるものが存在します。
イエスが活動された時代のユダヤ人は神様の救いは自分たちユダヤ人だけに与えられるものだと勘違いしていました。しかし、イエス・キリストを通して示された神様の救いの計画の中にはユダヤ人を始めとする世界のすべての民族が含まれていたのです。ですからパウロはこう語っています。
「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです」(8〜9節)。
「異邦人」とは当時のユダヤ人、つまり「割礼ある者」とは違う他の民族や国々の人々の呼び方です。神様の計画は何時も、私たちの思いを超えて大いなるものなのです。天国には私たちの予想とは違って、数え切れない世界の人々が招かれているのです。そして、神様は天国に招くはずの人々が一人も残らずその祝福にあずかれるようにと、救いの歴史を導かれているのです。ですからこの計画が遅れることは決してありません。しかし、この計画が実現するまでにはまだ時間が必要なのです。神様は忍耐深く、その計画が完全に実現されることを待っておらえるのです。だからこそ私たちも、この計画が実現することを忍耐して待つ必要があるのです。
(2)神のみ言葉と恵みの光の中で待つ
ときどき私たちの住む町でも少し高いところに上ると建設中の東京スカイツリーの姿を見ることができるようになりました。完成すれば634メートルになると言う巨大なタワーの姿をテレビは毎日のように映し出し、最近では「500メートルまで達した」と言っています。でも、このタワーの完成は2012年春とされていますから、まだまだ時間はかかるようです。
神様の救いの計画にも必要とされる時間が必要です。その計画は全世界の人々を救い出すだけではなく、私たち一人一人の救いの計画も完璧な形で織り込まれているのです。あるとき自分の信仰生活が少しも向上しないと考え、気を落として嘆いていた一人の若い信仰者に先輩のクリスチャンが次のようにアドバイスしました。
君はせっかく鉢植えに木を植えたのに、それを何度も引き抜いては「まだ育たない」と言って嘆いている。それではせっかく植えた木も少しも成長しないはずだ。肝心なのはその木に毎日水をやり、日が当たるようにしながら、その成長を待つことだと…。
私たちに求められる信仰の忍耐は暗いところに閉じ籠もって我慢することではありません。毎日、神様が与えてくださる聖書の言葉を私たちの心に注ぎ、神様の恵みの光の中に私たち自身を置くことが私たちの取るべき忍耐の姿勢です。そして忍耐を持って待つ私たちのために神様は必ず救いの計画を実現してくださるのです。
[祈祷]
天の父なる神さま イエス・キリストの降誕を祝い、私たち人類の救いのために立てられたあなたの計画のすばらしさを覚え、感謝いたします。どうか私たちが聖書をから慰めと忍耐を学ぶことができるようにしてください。私たちがそれぞれの生活の中でキリストに従い、キリストに倣う者となるようにしてください。そしてあなたから抱いた忍耐によって、希望を持って救いの完成の時を待ち望むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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