1.キリスト教会はどうしてクリスマスをお祝いするのか
(1)神様の約束通りに救い主がお生まれになられた
今日はイエス・キリストの降誕を記念するクリスマスの礼拝を献げています。クリスマスにちなむこんなコントがあります。
一人の若者が片手に聖書を抱えて道を急いでいます。すると、その前に紙でできた三角帽子をかぶって、千鳥足で歩いている酔っぱらいがいます。若者はその酔っぱらいを追い抜いて先に急ごうとするのですが、その若者に酔っぱらいが声をかけます。「おい、そこの青年、そんなに急いでどこに行くんだい?」。すると若者は「はい、これから教会に行くのです」と答えます。すると酔っぱらいは怪訝そうにこう語ります。「おいおい、今日が何の日か知っているのか。楽しいクリスマスだぞ。そんな日に限ってどうしておもしろくもない教会になんかに行くのかね?」。
今や日本中のほとんどの人がクリスマスを知っています。しかし、その中のどれだけの人がクリスマスに教会の礼拝に行こうとするのでしょうか。おそらく大半の人はこの酔っぱらいと同じようにクリスマスと教会との関係さえ理解していないかもしれません。そして、その責任の一端は私たちキリスト教会にあると考えることもできるのです。なぜなら教会はこのクリスマスを喜ぶ沢山の人々にクリスマスの出来事の意味を教え、本当の喜びを伝える使命を負っているからです。それではこのクリスマスの出来事は私たちにどのような喜びを伝えるのでしょうか。クリスマスを記念して特別に礼拝を献げる意味はどこにあるのでしょうか。
その理由の第一はこのクリスマスの日に神様が私たち人間のために救い主をこの地上に送ってくださったからです。神様が救い主を私たちのために遣わしてくださるろ言うことは、旧約聖書に数々の預言が記されています。この礼拝の最初に呼んだイザヤ書の言葉もその一つです(イザヤ7章14節)。今日の聖書箇所のマタイによる福音書2章の直前にはこのイザヤ書の預言がクリスマスの日に誕生したイエスについての預言であることが明確に語られています(1章24節)。また、神様が救い主を遣わしてくださると言う約束は歴史を遙かに遡り、最初の人間アダムとエバにも語られています(創世記3章16節)。このように旧約聖書に預言されていた私たち人間に救い主を遣わしてくださると言う神様の約束がイエスの誕生を通して実現しました。ですからその実現を待ち望んでいたものには大きな喜びを与えるものなのです。
(2)神様ご自身が私たちを救うために来てくださった
クリスマスが提供する喜びの秘密はこれだけではありません。なぜなら、このクリスマスの日に誕生された方が誰であるかを知る者はさらなる深い喜びに満たされることができるからです。クリスマスの日に誕生したイエスについて、聖書はその母がマリアであったことを伝えています。しかし、その父親はマリアの夫であったヨセフではありません。ヨセフはイエスの育ての親、つまり養父でしかなかったのです。聖書はイエスの誕生の秘密について次のように証言します。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1章20節)。またルカによる福音書ではマリアに語られた次のような天使の言葉が紹介されています。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1章35節)。
イエスの誕生は聖霊の働きによって可能となった超自然的な出来事、奇跡であると言うことがここには語られています。なぜなら、イエスは「神の子」つまり、神ご自身がマリアを通して人間の身体を取られた上、この地上に生まれてくださったからです。聖書はこのように私たちに救い主を遣わすと約束された神様ご自身がこの地上に来てくださったという驚くべき知らせを伝えています。私たちを救い出すために神の子イエス、つまり神ご自身が私たち人間の姿を取られてこの地上に来てくださったのです。そしてクリスマスはこの奇跡を思い起こし、喜びに満たされるときであると言えるのです。
(3)神様の私たちに対する愛が豊かに示された
さてクリスマスが私たちに提供する喜びは、イエスが神の子であり、神ご自身であることと深く関係して私たちに次のことを教えます。どうして神様は私たち人間を救うために誰か他の人間、あるいは天使ではなく、神の子であるイエスを遣わされたのでしょうか。その最大の理由は私たち人間を救うことがおできになる方はこのイエス以外にはおられないからです。人間の抱える深刻な問題を根本的に、そして完全に解決する力を持っておられるのはこのイエス以外にはおられないのです。
そして神様はそのことを知って御子イエスをこの地上に送ってくださいました。それではこの人間を救おうとする神様の姿勢は私たちに何を示しているのでしょうか。ヨハネによる福音書はそのことを次のように語っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。
神様がこの世を愛してくださっていること、そして私たちが滅びることなく、永遠の命を受けて神様と共に生きて行くことを望んでおられるのです。だから神様はイエスをこの地上にお遣わしになられたのです。つまり、私たちはこのクリスマスの出来事を通して神様が私たちをどんなに愛してくださっているかを知ることができるのです。クリスマスの喜びは、私たちが神様に愛されていると言うことを知った喜びであると言えるのです。
2.キリストの誕生を喜ばない人々
(1)星に導かれた占星術の学者たち、エルサレムで星を見失う?
クリスマスの喜びを伝えるメッセージを教会は語り続けてきました。宗教改革者で知られるマルチン・ルターもその喜びを伝えた一人と言えます。彼のクリスマスに関するメッセージを集めて編集されている『クリスマス・ブック』と言う本があります。この本は日本語にも翻訳されているので私たちも簡単に読むことができます。ルターは聖書のみ言葉からこのクリスマスの出来事を瞑想し、豊かなメッセージを私たちに伝えています。
ルターは今日の聖書箇所に登場する人々についてもいろいろなことを語っています。その本を読み返しながら興味深かったのは、次のようなルターの疑問です。「どうして占星術の学者たちをキリストに導いた星は、彼らをまっすぐベツレヘムの家畜小屋に導くことがなかったのだろうか」と言うものです。確かに星が彼らをまっすぐイエスの元に導いていたなら、彼らはエルサレムの町に立ち寄ることがなかったと思うのです。どうして、彼らはエルサレムの町に立ち寄ることになったのか、そしてヘロデ王と会うことになったのか、その理由は聖書には明確に語られていません。しかし、ルターはこれも神様の深い計画であったと説明しながら、次のように語るのです。「それは神さまがわたしたちに、自分自身のあさはかな考えに頼らず、ただみことばに従うべきことを教えたいと思われたからでした」と。
(2)王の誕生に関心を示さない人々
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(2章1節)を訪ねて占星術の学者たちは旅を続けてこのエルサレムにやってきました。おそらく彼らは、「外国人である自分たちもこんなに関心を持っているのだから、ユダヤ人たちはなおさらであるだろう、彼らはきっと喜びにあふれてこの出来事をお祝いしているに違いない」と思ってはずです。ところ、彼らが到着したエルサレムの町は普段と変わりない風景を示しています。誰にたずねても、そのことを知っている人はいません。そこで彼らは誕生したのは「ユダヤ人の王」なのだから、その方は王宮にいるに違いないと考えてヘロデの住む王宮を訪ねたのではないでしょうか。
しかし、そこにも彼らの期待する風景は何もありません。どうしてこんなにエルサレムの町の人々はユダヤ人の王の誕生に無関心なのでしょうか。彼らはこの出来事を知らされていなかったのでしょうか。決してそうではありません。なぜならヘロデが祭司長や律法学者たちにこのことを尋ねると、彼らはたちどころに預言者の言葉を引用して、幼子の誕生の場所まで言い当てているからです(4〜6節)。彼らは調べればすぐに分かるのに、それを知ろうとしなかったのです。責任は神様ではなく、人間の側にあります。聖書に明確に記されているメッセージを誰も関心を持って読んでいなかったことがこの出来事を通して明らかにされています。そしてエルサレムのほとんどの人々はこの出来事に関心を持っていなかったのです。
(3)ユダヤ人の王に敵意を抱くヘロデ王
おそらくこの「ユダヤ人の王誕生」と言うニュースに最も関心を持ったのはヘロデ王であったと思えます。ヘロデはエドム人と言ってユダヤ人から見れば外国の人間です。そのヘロデはたいへんな苦労をして「ユダヤの王」と言う地位を自分のものにすることができたのです。ヘロデは自分が手に入れたこの地位を保つためにありとあらゆる手段を使ったと言われています。彼は政敵を容赦なく殺害するという残忍な一面を持ちながらも、もう一方ではエルサレムの神殿を改築するというユダヤ人たちの関心を集めることも忘れませんでした。そしてクリスマスの出来事に関しては彼の残忍な一面が更に明らかにされるのです。なぜならヘロデはイエスを殺害するためにベツレヘムの周辺で生まれた二歳以下の子供をすべて虐殺させたからです(16節)。
彼は苦労の末に念願の支配者と言う地位を得ながらも、返って自分が得た地位によって心配と不安を覚えることとなり、それが彼の行動を縛っていったと言うことができます。それは自由を得ようとして行動しながらも、さらに心配事と不安を増やしてしまう人間の姿の象徴と言えるでしょう。
(2)不安を抱きながらも関心を示さない人々
エルサレムの人々もこのヘロデと同様に「ユダヤ人の王誕生」のニュースを聞いたときに不安を抱いたと記されています(2節)。エルサレムの人々の不安はローマ帝国の植民地とされ、さらには外国人ヘロデを王とする自分たちの複雑な立場を踏まえたものなのでしょう。今年の年末も近づいて私たちを騒がせたニュースは私たちの国の平和をも脅かしかねないものでした。小さな出来事が国と国との間の関係を緊張させました。また隣国では戦争の危機さえ感じられるような出来事が起こっています。考えて見ると私たちの平和を脅かすできごとは数多くあるのです。エルサレムの住民は自分たちの平和が乱されてしまうと言うことを恐れ、不安を覚えたのかも知れません。しかし、クリスマスのニュースこそ私たちの上にまことの平和を実現する神様が、その救いの計画を実現してくださったことを知らせているのです。もし彼らが、占星術の学者たちとともに救い主誕生の出来事を受け入れることができていたなら、彼らもまたイエスが与えてくださる平和を受けることができたはずです。しかし、彼らの関心は身近な変化にだけむけられて、肝心の出来事には向けられていなかったのです。
3.どうしたらクリスマスの喜びを手に入れることができるのか
(1)星に従いベツレヘムに導かれた学者たち
占星術の学者たちが幼子のいる家にたどり着くことができたのはヘロデの助けでも、祭司長や律法学者たちの知恵を頼りにしたのでもありません。彼らの上に再び彼らを東の方の国から導いた星が輝きだし、ベツレヘムの家畜小屋へと導いたのです。これは何を意味するのでしょうか。私たちを救い主へと導くのは神ご自身であることを教えているのです。
人間の知恵や力に頼っても私たちは救い主イエスに出会うことができません。それでは私たちにとっての夜空で輝く導く星とは何なのでしょうか。それはルターが語るように神様が私たちに与えてくださった聖書のみ言葉です。このみ言葉に従うものは必ず救い主イエスと出会うことができ、その喜びを味わうことができるのです。
(2)御子に自分の人生をゆだねた人々
占星術の学者たちは幼子に「黄金、乳香、没薬」を献げました(11節)。それは彼らが考えたユダヤ人の王への最上の献げ物であったに違いありません。贈り物を献げる、最も高価な献げ物を献げると言うことは彼らの献身の思いが示されているのです。
身近でも私たちは自分の人生に深い関わりを持つ人々にその気持ちを表わすために贈り物を献げます。占星術の学者たちはこの献げ物を単なる幼子の誕生祝いとして献げたのではありません。この幼子に自分たちの人生を献げる証しとして差し出したと考えることができるのです。
愚かな自分の知恵や力で私たちが自分の人生を生きようとするとき、私たちはヘロデと同じように、またエルサレムの人々と同じように恐れと不安に捕らわれます。しかし、私たちの人生を救い主イエスに委ねるならば、私たちは神様が与えてくださる平和の中で人生を送ることができるのです。
占星術の学者たちは救い主に出会い、その方に自分も人生を委ねるという決意を示すためにここで大切な献げ物をしたのです。それは彼らの人生を180度変える決断でした。そしてクリスマスのメッセージに耳を傾ける人々に神様は、この占星術の学者と同じような決断を迫っています。クリスマスの知らせはすべての人々に向かって示されています。しかし、そのクリスマスが提供する喜びに私たちがあずかるためには、神様のみ言葉に従い、イエスに自分の人生を委ねた占星術の学者たちと同じような姿勢が求められているのです。
【祈祷】
天の父なる神様。
今年もこのクリスマスの礼拝に私たちを導いてくださり感謝します。神様の約束に従ってお生まれになったイエスを通して、私たちを救おうとするあなたの豊かな愛を知ることができます。あなたの導きに従い幼子を礼拝し、彼に自分の人生を委ねた占星術の学者たちのように、私たちもみ言葉によってイエスに導かれ、そのイエスに自分の人生を委ねて生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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