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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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愛を身につけなさい

(2010.12.26)

コロサイの信徒への手紙3章12〜21節

12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。

1.聖家族の日

 クリスマスの礼拝の次の週を教会暦は「聖家族の日」と呼んでいます。この日の教会暦の聖書箇所に従えばイエスの養父であったヨセフが家族を引き連れてエジプトに逃れた物語の箇所が選ばれています。イエスの家族の物語の中で養父ヨセフが登場するのはイエスの誕生から少年時代までの限られた期間です。おそらくヨセフはこの後、家族を残して早く世を去ってしまったと考えられています。教会暦はこのヨセフのリーダーシップの元に神様に従ったイエスの家族を描く箇所を取り上げているのです。そして教会暦はこの箇所と共にコロサイの信徒の手紙の部分も私達に読むようにと指示しています。ここでは信仰者の家族の姿が次のように語られています。

 「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(18〜21節)。

家族がお互いを思いやり、助け合って暮らしていくと言うことはどんな宗教でも、また道徳で大切だと教えられています。ただ、これらの教えと聖書の教えの根本的な違いはその原理、つまりそのような生き方が可能となるのはなぜかと言うところにあると言えるのです。今日のコロサイの信徒への手紙はその原理を私たちに教えているのです。

2.新しい人
(1)古い人と新しい人

 コロサイの信徒への手紙が私たちに教えることは私たちが神様によって「新しい人」とされていると言う事実です。新聞にはよくお店の「新装開店」を知らせるチラシが折り込まれています。よく見ていると同じような店が「閉店セール」と「新装開店セール」を繰り返して行っているのがわかります。これらのお店はお客を呼び集める手段として「新しくなった」と言うことをアピールしているのです。しかし、この場合「新しくなった」のはお店の商品陳列とか外装といったわずかなものにすぎません。ところが聖書が私たちに「新しくなった」と言う場合はこれと大きくことなり、私たちの外側だけではなく内面、つまり生き方の原理が変わったと言うことを語っているのです。つまり、今までは神様に敵対して歩んできた私たちが、今は神様に従う者とされたと言うことを言っているのです。そしてその変化はイエス・キリストの救いによって私たちの上に実現したのです。
 イエスを信じる者とそうでない者は外面においては変わることがありませんが、その内面においては全く違った原理が動いています。そして今日の箇所では「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(12節)と言った徳目が語られていますが、これは同じ3章の8節で語られている「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」と言う古い人の生き方の特徴に対比されるものなのです。

(2)神様が隠された賜物

 ところでこの新しい人の特徴である「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」は、キリストを信じた者に自然に現われてくるものなのでしょうか。もしそうならば、パウロがここで改めて「これらのものを身につけなさい」と勧める必要はなかったと思います。パウロはここで私たちは進んでそれらの新しい人の性格が自分たちの生活に豊かに表れるように努める必要があると教えているのです。
 ただ私たちが忘れてはならないことは、パウロは私たちがこれらのことに努力を傾ければ、「もしかしたらあなたたちもこのような人になれる」と教えているのではないと言うことです。むしろパウロはキリストが私たちのために救いを成し遂げ私たちを「新しい人」としてくださったのだから、これらのものが私たちの生活の中に必ず実現すると教えているのです。
 子供の時、冒険小説を読んで昔か海賊が隠した宝物を残された地図を頼りに捜し出すと言う物語を興味深く読んだことがあります。物語の主人公たちは宝物を手にするためには危険を顧みず、その地図に従って宝探しをする必要があります。いくら宝の地図を手に入れても、それだけではその宝を手にすることはできません。しかし、彼らが必ず最後には宝を手に入れることができのは、海賊がすでに宝を隠していると言う事実があるからです。
 新しい人の性格もこの宝と同じです。聖書はこれらの宝を確かに神様は私達に与えてくださったと言っているのです。そして、その宝をあなたたちも探し出すことが大切だと教えているのです。つまり、キリストを信じて、新しい者とされたものは必ず、これらの賜物を手に入れることができると聖書は私達に約束していると言ってよいのです。

3.命令を可能とするものは
(1)イエスに赦されている

 確かに私たちが実際に「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」と言う聖書の勧めを生活の上で実行することは難しいところがあります。宗教改革者のカルヴァンはそのことを語りながら、だからこそパウロはここで私たちの目をイエスに向けて、励ましを与えようとしていると言っています。

「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)。

 私たちはこの地上の生活の中で人を赦すことの困難さを覚えます。しかし、そこで「自分は新しい人として失格者なのではないか」と不安になる必要はありません。なぜならキリストは私たちを既に赦してくださっているからです。私達はキリストによって新しくされているのです。だから私たちはその点において揺り動かされることはないのです。
 私たちは自分の小さな失敗に目を奪われて、「どうして自分はこうなのだろう」と自己嫌悪に襲われることがあります。しかし、私たちが自分をどのように認識したとしても、私達が神様によって新しくされたと言う事実は変らないのです。私たちはそれ以上自分について心配する必要はありません。だから失敗しても、またやり直しをすることができるのです。確かに私たちの信仰生活はこの地上にで完成することはありません。しかし、聖書のみ言葉に従って絶望せず歩む者は必ず、神様からの賜物をこの地上の生活でも受けることができるのです。だから私達は決して立ち止まってはいけないのです。

(2)神との平和

 パウロはこのことを別の言葉でこう語ります。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」(15節)。この「キリストの平和」は「キリストが与えてくださる平和」、あるいは「キリストが実現してくださった平和」と理解していいものです。それではキリストは私たちのためにどのような平和を実現し、また私たちに与えてくださったのでしょうか。このコロサイの信徒への手紙の中にはこのような言葉が収録されています。

 「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(1章22節)。
またパウロの記したローマの信徒への手紙の中では、次のような言葉が語られています。

「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば…」(5章10節)。

 ここで登場する「和解」と言う言葉は「平和」と同じ意味を持っています。つまり、キリストの平和とは私たちと神様との間で実現した平和です。それは神様と私達との関係が回復された状態を言っているのです。今までは、私達は神に敵対して歩んできた者でしたから、神様を恐れなければなりませんでした。先日学んだ、アダムとエバが神様の足音を聞いて物陰に隠れたのはそのような人間の状態を象徴的に表わす出来事でした(創世記3章)。しかし、今や私たちはイエスによって神様との平和が実現したのです。だから私達は神様の前で隠れる必要はありません。むしろ、私達は心配せずにこの神様との関係を頼りに生きていくことができるのです。そしてどんなことがあっても神様が私達を助けてくださると言う確信を持って生きることができるのです。その確信が私達の心を支配するとき実現するのが「キリストの平和」の正体です。ですからこの平和が私達の心を支配するようにしなさいとパウロは勧めているのです。そうすれば私達の新しい人としての性格も私達の実際の生活の上に実現していくのです。

4.キリストの平和が私達を支配するために
(1)イエスのみ言葉が宿るように

 それでは私達の心がこのキリストの平和によって支配されるためにはどのようにしたらよいのでしょうか。パウロは次のように続けて私達に教えています。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(16節)。

 ここで「キリストの言葉があたながたの内に豊かに宿るようにしなさい」とパウロは言っています。私達の信仰生活の中に主の言葉が宿っている、とどまり続けていることが大切だと教えているのです。

 聖書を心に宿すために、私達はまず聖書を読む必要があります。しかも、ここで「宿す」と言うわれていますから、続けて継続して読み続ける必要があることを教えているのです。ところが「聖書を読むことは、また、教会の礼拝に出席して神様のみ言葉に耳を傾けることは生活に余裕のある人がすることだ」と考える人があります。しかし、これは全くの誤解と言えるのではないでしょうか。もし、私達が聖書の読まずに一日を出発したら、また礼拝をせずに一週間を始めたとしたら、私達の心は世の思い煩いに支配されて、余裕のないまま追われてしまいます。つまり私達の生活に余裕を与え、また平和を与えるのは神様のみ言葉なのです。だから私達は神様のみ言葉が、イエスの言葉が私達の内に宿るように心がける必要があるのです。そうすればイエスのみ言葉が私達の生活に平和と余裕を必ず与えてくださるのです。そして新しい人の性格もまた私達の生活の上に実現していくと言えるのです。

(2)神様に感謝する

 また、パウロはここでさらに神様に感謝を献げることを私達に教えています。自分の生活には神様に感謝を献げるようなことは何も起こってはいないと語る人があるかもしれません。しかし、そう語る人はまず神様のみ言葉に耳を傾ける必要があります。なぜなら、そこには神様が私達のためにしてくださっていること、つまり私達が神様に感謝を献げなければならない理由が教えられているからです。
 一年の最後の礼拝において、私達はどんな感想を今持っているでしょうか。「ことしは悪いことが重なった」とか「今年は苦労することばかりだった」と言う言葉を耳にすることがあります。しかし、本当にそうなのでしょうか。むしろ私達は悪いことや苦労したことだけを思い出して、良かったこと、感謝すべきこを忘れてしまったり、気づいていないのではないでしょうか。聖書のみ言葉は自分の人生の中から悪いことばかりを思い出そうとする私達に、それとは全く違った私達の現実を教えてくれるのです。そして、私達が神様に感謝を献げることができるようにさせてくれるのです。

(3)キリストを目的とする

「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(17節)。

 パウロがここで言う「すべてのを主の名によって行う」とは、すべての行為の目的をイエスのために行いなさいと勧めていると言うことができます。昔、一晩家に泊めていただいたあるとてもまじめな教会役員の方から、私にこんなことなつぶやきを聞いたことがあります。「私はまだまだ、未熟なクリスチャンなんです。それで「休みたい」とか「楽しみたい」なんて言う余計な思いが起こってしまうのです」。私はこのときクリスチャンは「休んだり」、「楽しんだり」してはいけないのだろうかと疑問に感じたことがありました。
 キリストのために行う、私達が自分の健康を大切にするのはキリストのために生きることためです。私達が休むことも楽しむこともそのために必要になることがあります。またそれらのことを通して神様に感謝できたならそれもまたキリストのための生き方となるのではないでしょうか。ですから、ここで言っているのは、個別の行為の問題ではなく、私達が人生の目的をキリストに置いて歩むことだと言うことになるのです。そしてその目的のために生きる人に、神様が新しい人に与えられた性格が豊かに実現すると言うのです。
 イエスの養父ヨセフ、そしてマリアと幼子イエスの一家はこの目的の故にエジプトに脱出し、またイスラエルに帰ってきたのです。だから彼らの上にも神の平和と新しい人に与えられた賜物が豊かにあったと言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神さま
 主イエス・キリストの救いによって私達を新しい人にしてくださった恵みに感謝いたします。あなたはこの地上に生きる私達に新しい人に可能となる生き方を追い求めるようにと求めておられます。そしてその生き方が可能となるようにあらゆる助けを与えてくださいます。どうかイエスを生かした同じ御霊を私達に送ってくださり、私達がイエスに倣う者としてください。そのためにも私達がいつもイエスを信仰の目を持って見続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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