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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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喜びながらの神頼み

(2011.01.09)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章1〜6節

1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。
2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

1.パウロの手紙
(1)パウロとフィリピ教会の人々との関係

 今日からしばらくパウロの書いたフィリピの信徒への手紙をこの礼拝で学びたいと考えています。その理由は同じように第二週の礼拝後に行っているグループ別聖書研究会で今日からテキストにこのフィリピの信徒への手紙を学ぶことになったからです。残念ながら礼拝の聖書箇所は必ずしもその日の聖書研究会で取り上げられる聖書箇所とは一致しないと思います。それでも、この手紙を礼拝でも学びまた、聖書研究会でも学ぶことは私たちの聖書に対する理解を深めるきっかけになると思っているのです。
 「フィリピの信徒への手紙」この書物の題名にあるとおり、これは使徒パウロがフィリピという場所にあった教会に集まる信徒に送った手紙です。近頃は携帯電話やパソコンのメールなどが発達して、私たちの意志を伝える手段は大きく様変わりしています。しかし、そういうものは人類の歴史の中でつい最近現れた変化であって、それまでたいがいの場合、人は手紙という通信手段を通して自分の意志を相手に伝えて来たのです。
 「手紙」、それは多くの場合特定の人物が特定の相手に送り届けるために書かれた文章です。そしてこの手紙を記したパウロは、この手紙の相手であるフィリピの教会の人々と深いつながりを持っていたことが分かっています。さらにその彼らのつながりはこの教会ができたときからのものであったことが初代教会の歴史を記した使徒言行録の16章に説明されています。この使徒言行録の記事を読むとフィリピの町の最初の回心者であったリディアという婦人とその家族、さらには特別な出来事を通して洗礼を受けることになったフィリピの町の牢獄で働いていた看守とその一家を知ることができます。
 パウロがこの手紙をフィリピに送ったのはこのフィリピ教会の開拓伝道の出来事よりずっと後、彼がローマの町の獄中にあったときと考えられています。しかし年月は流れても、この当時も使徒言行録に登場するリディアやフィリピの町の看守の一家もこの教会の有力なメンバーとして働いていたと想像することもできます。そのような意味でパウロにとってこの教会のメンバーは特別に思い入れがある特別な人々であったと考えることができます。

(2)同じキリストとの関係を持つ私たち

 私たちは自分以外の誰か他人に宛てて書かれた手紙をわざわざ読むということはあまりありません。そんなことをしてしまったらむしろプライバシーの侵害と言われてしまうかもしれません。それではどうしてこの手紙のようにパウロがフィリピの人々のために記した手紙を私たちが読むことに意味があると言えるのでしょうか。私たちはまずそのことを考えて見たいと思うのです。
 第二次大戦中にドイツのナチスは組織的に多くのユダヤ人たちを虐殺したことで有名です。ナチスはヨーロッパ中のユダヤ人を抹殺するため、彼らを捕らえ、列車に乗せ、恐ろしい強制収容所へと送り込んだのです。ユダヤ人が強制収容所のあるところに到着し、列車から降りたときにドイツ兵が必ずしたのは、ユダヤ人たちの持ち物を検査することだったそうです。突然逮捕されて列車に乗り込まされた彼らはたくさんの持ち物を持っている訳ではありません。しかし、彼らは自分の身から絶対に手放したくないと思っているわずかなものを肌身離さずそこまでもってきていたのです。しかし収容所に入る前にドイツ兵はその持ち物を彼らから容赦なく奪い取りました。そしてその品物を正確に選別して、価値のあるものを見つけ出し、そのほかの者は焼却処分にしたのです。
 彼らによって現金、貴金属、衣類すべてのものが整然と選別されて残されます。しかし、「これはどうにも使い道がない」と考えられて焼却の対象にされるものも数多くありました。それらのほとんどはその持ち主が大切に記していた日記帳であったり、家族の写真であったり、さらには愛する人々から受け取った手紙であったというのです。たとえ履き古した衣類や靴であっても、誰かがそれを使うことは可能であったかもしれません。しかし、日記や写真、そして手紙の類は他の人には何の使い道もない、価値なきものと判断されたのです。それはどうしてでしょうか、それらの品物の背後には特定の人間関係があって、その人間関係の中にいる者にしか、それらの品物の価値は認められないからです。
 パウロの手紙も確かにそのような意味を持っています。この手紙は誰にでも意味があるというものではありません。しかし、この手紙がその人にとって価値をなすと言う大切な理由があります。それはこの手紙を記したパウロも、そして手紙の受け取ったフィリピの教会の人々も皆、イエス・キリストによって救われ、そのイエス・キリストとの深い命の関係を持ちながら生き続けていた人たちだということです。そしてこの手紙はそのイエス・キリストのとの関係を持っている人にだけ価値があると言えるのです。
 2000年以上も前に書かれた手紙が今の私たちが読んでも意味がある理由は、時を経ても、同じで関係を私たちが持っていると言うことなのです。つまり私たちもイエス・キリストによって救われた者、またイエスとの命の関係を持って生き続けている者であるからこそ、この手紙は私たちに大切な価値があると言えるのです。ですからパウロがフィリピの教会の人々のために書き送った手紙を、私たち自身に送られた手紙として読んでいいと言えるのです。

2.キリストの奴隷
(1)パウロの自己紹介

 そのような意味で私たちがこの手紙を読むためにいつも大切なことは、パウロやフィリピの教会の人々の背後にある彼らとイエス・キリストとの関係であると言えるのです。そのような意味でこの手紙の冒頭に記されているパウロの自己紹介の部分は特徴的なのです。

「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」(1節)。

 30年近く前に、韓国旅行をしたときに一人の牧師からもらった名刺が私の記憶に今でも残っています。そこにはその本人の名前の上に、たくさんの肩書きが記されていて、表だけでは書ききれず、名刺の裏側にもびっしりとたくさんの肩書きが記されていたのです。自分がどれだけ大切な人物であるかということを第三者に示す場合、その人が社会で得ているいろいろな立場、つまり肩書きを示すことが大切になってきます。それを示せば相手も丁重に自分を取り扱ってくれるし、また自分の話を真剣に聞いてくれると可能性が生まれるからです。
 パウロの記した他の手紙の場合、彼は相手に自分の伝える福音の内容が大切であることを示すために「使徒」という肩書きを示すことがありました。しかし、この手紙でパウロは自分を簡単に「イエス・キリストの僕」とだけ紹介しているのです。先ほども言いましたように、このフィリピ教会の人々とパウロは親密な関係を持っていました。だから、あえていえばパウロは彼らに対して自己紹介などする必要がなかったのです。しかし、そのパウロがここであえて自分を「イエス・キリストの僕」と紹介するのには特別な意味があったと考えることができます。しかも、ここでパウロは自分の名前だけではなくテモテという一人の同労者の名前まで挙げて自分を紹介しているのです。
 「イエス・キリストの僕」、「イエス・キリストの奴隷」。パウロはフィリピの人々に自分のことを理解してもらうためにこの言葉を第一に覚えておいてほしいと願ったのです。

(2)イエス・キリストとの関係を通して理解する

 キリスト教会には様々な人が集っています。共に神様を礼拝を献げ、祈りあうクリスチャンの集いは、教会の外で知っている人間関係とはいろいろと違うところがあります。最初はそのようなところに興味を引かれ教会に通い続ける人がいます。しかし、歳月が流れるとその教会にも、自分が今まで知っていたような人間関係の複雑なトラブルがあることに気づき、がっかりして教会を去る人もいるのです。また、他のある人は「自分にとってもっとふさわしい教会があるかもしれない」と、教会から教会へとさまよい歩くことになります。しかし、そのような人は多くの場合、どこの教会に行ってもまた同じような問題に出会い、がっかりするという体験を繰り返します。
 このようなトラブルに見舞われる場合に私たちが一番見落とし易いことがあります。それは教会に起こる問題を見つけ出し、それに失望したり、苦しんでいる自分自身は本当に正しい認識を持っているのだろうかと言うことです。教会や他の人に失望している自分ははたして本当に正しい判断ができているのでしょうか。教会に新しい人間関係を求めてやってきた自分自身が全く何も変わることがないからこそ、またそこで同じトラブルを拾い出すことになるのではないでしょうか。ですから、この場合、一番大切なのは他人や環境ではなく、私自身が変われるかどうかにあるのです。
 パウロはそのような意味で根本的に自分がイエス・キリストによって変えられてしまったことを理解していました。自分は今や「イエス・キリストの僕」、「イエス・キリストの奴隷」とされていると彼は言うのです。それは言葉を換えれば「イエス・キリストのものとされた自分」ということです。
 この手紙の中でたくさん登場するのは「イエス・キリスト」という言葉です。パウロはこの手紙の中でイエス・キリストのものとされた自分を考え、さらにはイエス・キリストの教会を、イエス・キリストの者とされている兄弟姉妹を理解しようと心がけているのです。つまり、パウロは直接に自分や、他人、教会を理解するのではなく、いつもそれらを理解するときにイエス・キリストの人格とそしてその御業を通して理解しようとしているのです。パウロはそのような意味でフィリピの教会の人々に向かって自分をイエス・キリストを通して理解してほしい、受け入れてほしいと願っています。そしてパウロはそれを自分だけではなく、この手紙の受取人であるフィリピの教会の人々にも適用しているのです。

3.フィリピの人々に関する確信
(1)聖なる者たちの集い

 私たちが以前、聖書研究で学んだコリント教会の信徒への手紙の中では、その教会に起こっていた数々の混乱と問題が記されていました。このフィリピの信徒への手紙はコリント教会の信徒への手紙とは違い、教会に起こった具体的な問題が数多く取り上げられているわけではありません。しかし、この手紙を読むとやはりこのフィリピの教会にも教会員同士が深刻に対立していたことが伺えるところがあります。ところがパウロはそんな問題を持っている教会の人々に向かって「聖なる人々」と呼びかけているのです(2節)。そして実は忘れてはならないのはパウロはあのコリント教会の人々に対しても同様に「聖なる者」(コリント第一1章2節)という言葉を使って呼びかけていたのです。
 「教会は聖人たちの集まりではありません」という言葉を聞くことがあります。しかし、パウロは教会を確かに「聖なる人々、聖なる者」の集まりであると言っているのです。これはどういう意味なのでしょうか。確かに「聖なる者」という言葉の意味を私たちが誤解するなら、実際の教会の集まりに私たちは絶望してしまう可能性があるでしょう。しかし、この「聖なる者」も実は私たちがキリストの者とされたこと、この地上に生きる者でありながらも、同時に神様の者とされていることを表している言葉なのです。ですからこの言葉はその人に備わった徳目や才能などを表す言葉ではなく、私たちがもっているイエス・キリストとの関係を語っているのです。

(2)キリストに信頼する者の喜び

 だからこそ、パウロはこのフィリピの教会の人々について次のように理解し、また確信を持っていると説明してるのです。

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(3〜6節)。

 ここでパウロの感謝は彼らが福音によってすでにイエス・キリストの者とされているところに向けられています。そして、彼の確信は、彼らを福音によってご自分の者とされたイエスが彼らの救いを最後まで導いてくださるというとこにあったのです。
 親が子供にいろいろなよいアドバイスをしても、その肝心の親が子供に対して不安を抱いているなら、その子供には親が口先で語ったアドバイスではなく不安だけが伝わってしまうと教育書が書いているのを読んだことがあります。この手紙でもパウロは数々のアドバイスをフィリピの教会に送っています。しかし、彼はそのアドバイスをフィリピ教会の人々の前途を不安に思いながら語っているのではありません。むしろ彼らを導いてくださるイエス・キリストがおられることを信じ、その方がいる限り大丈夫という確信を持って彼はこの手紙を書いているのです。
 この手紙を記したパウロは当時ローマの獄中にあります。ですから彼の身体的自由は大幅に制限されていたのです。しかし、彼はそれでもこの手紙の中で「喜び」を語っています。その喜びの根底にはこのイエス・キリストの存在があったのです。自分の将来も、また自分が導きいてきた教会の人々の将来も彼の自由になるものではありません。しかし、パウロはこのすべての人々がキリストの者とされていることを知っていたのです。そして、その方がもっともよい方法で、すべてを導いてくださることを確信していたのです。
 自分をどう理解するのか、他人をどう理解するのか、教会をどう理解するのか。それは私たちにとって非常に難しい問題です。今まで私たちはその認識について数々の失敗を重ねて来たのです。しかし、パウロはそんな私たちに自分で直接それを知るのではなく、イエス・キリストを通して知ることをここで教えているのです。なぜなら私たちを喜びに導く正しい認識はそこにあるからです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちを福音によって救いだし、イエス・キリストの者としてくださった恵みに感謝します。この地上では私たちはまだ不完全なものですが、あなたの御業を仰ぎ、あなたの御業が私たちの上に完全に実現する日を待ち望みながら生きることのできる幸いを感謝します。どうか私たちがこの希望を持ってお互いを受け入れ、また励まし合っていくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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