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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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終わりの日への備え

(2011.01.16)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章7〜11節

7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。
8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

1.イエス・キリストを通して見る

 前回から使徒パウロの記したフィリピの信徒への手紙を学び始めています。パウロがローマの獄中の中で記したこの手紙には、彼が常に持っていた喜びの秘密が記されています。皆さんも先週の使徒言行録の学びの中でパウロとシラスがフィリピの獄中に捕らわれながらも、そこで神を讃美したと言う出来事を読んだと思います。普通の人だったら、たぶんパニックに陥ってしまうような状況で彼らはどうして神を讃美することができたのでしょうか。その秘密を私達はこのフィリピの信徒への手紙のパウロの言葉から学ぶことができると思うのです。
 私達は先週の礼拝の中で、パウロが人間関係をどのように認識し、またその中でどのような確信を抱いたのかを学びました。パウロの人間認識の特徴は自分に対しても、また他人に対してもイエス・キリストを通して見るというところにありました。彼は直接に自分や、他人を見て勝手な期待や判断を下すことをしなかったのです。そしていつも、イエス・キリストを通してすべての人間を見ようとしたのです。なぜならイエスを信じ、教会に集められている者すべてはすでにイエス・キリストのものとされているからです。そしてそのイエスはご自身のものとしてくださった私達すべてを最後の日まで導き、必ず完成にまで至らしてくださるのです。パウロはいつもイエス・キリストにのみ確信と希望を置いて生きていました。そしてそれが彼の抱いた喜びの秘密を解く鍵はここにもあったのです。
 私達が続けて学ぶ今日の箇所では、パウロがフィリピ教会の人々について抱いていた愛の思いの表明と、そのフィリピの教会の人々に対して彼が抱いた願いが書き記されています。私達がここでも注目すべきことは、パウロは自分の抱く愛を「キリスト・イエスの愛の心」と言っていること、また終末の時を「キリストの日」と呼んでいること、それにフィリピ教会の人々に与えられるものを「イエス・キリストによって与えられる義の実」と言っているところです。パウロはここでもそれらの事柄のすべてをイエス・キリストを通して見ること、認識することを求めているのです。ですから何よりもイエス・キリストを信じ、受け入れていなければ、それらの事柄の本当の意味を誰も理解することができないことをパウロは示しているのです。

2.私の恵み
(1)私の恵みにあずかる者たち

まず、パウロはこの箇所の最初に自分とフィリピ教会の人々のつながりについて述べています。

「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」(7節)。

 聖書解釈者の解説によればここで日本語聖書が訳している「共に恵みにあずかる者」と言う場合の「恵み」は厳密にギリシャ語から訳すなら「私の恵み」と言う言葉になると言います。そしてその言葉はパウロがここで言わんとする恵みの意味を教えていると言うのです。なぜなら、パウロが普通「恵み」と言う場合には、キリストから無償で与えられる賜物のすべてを言いますが、「私の恵み」と言うように「私」がつけられた恵みには限定された意味があり、パウロが担っていた使徒としての働きを指すと考えられるからです。
 パウロは使徒としてキリストの福音を伝えるためにその一生を献げました。彼はその自分の人生を「恵み」であると認識しているのです。なぜなら彼の人生を意味あるものとしたのは、このイエス・キリストだったからです。何よりもイエス・キリストのために生きることこそ、私達の人生を意味あるものとさせるのです。そしてパウロはその恵みをフィリピ教会の人々が共に担っていると言うところに、深い思いを抱いていたのです。
 この手紙を読むとフィリピ教会の人々が使徒パウロの働きをいつも覚えて、彼を支援し続けていたことが分かります。なぜならフィリピ教会の人々もパウロと同じようにキリストのために生きようとしたからです。そしてそのキリストのために熱心に働くパウロを支援し続けることで彼の使徒としての働きをフィリピ教会の人々は支え続けたのです。パウロはその事実を指して「私の恵みにあずかる者」と呼んだのです。

(2)福音を証しする人生

 ところでパウロがこのように自分の人生をイエス・キリストからいただいた恵みと考えたことは、彼の生き方をいつも支え続ける原動力となっていたことが分かります。たとえばここでパウロは「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも」と自分の置かれている状況を説明している言葉があります。これを読むと私達はパウロが使徒としての勤めを立派に果たしていたときともあったが、現在は残念ながら獄中に監禁されていてそれができなくなっている状態だと考えてしまうところがあります。しかし、実際にはパウロは獄中にあってこそ「福音を弁明し立証する」ことに力を注いでいたことがわかります。パウロは獄中にあって実際に手紙を通して、多くの人に福音を伝えました。このフィリピの信徒への手紙もその『獄中書簡』一つであったわけです。また、かつてパウロがフィリピの獄中に捕らわれたときには、不思議な神様の御業を通して、その獄中で働く牢番が福音を信じると言う出来事も起こりました。つまり、パウロは自分のたとえ人生にどのようなことが起こっても、それは神様が自分が使徒としての使命を果たすために与えてくださったものだと考えていたのです。
 私達は「自分の人生がこうなってしまったらもはや何もすることはできない、人生は終わりだ」と落胆してしまうことがないでしょうか。あるいはそうなったら大変と、不安や恐怖を抱きながら生きていることはないでしょうか。自分の人生をキリストから与えられた恵みだと考えていたパウロは、そんな不安を抱く私達よりも柔軟性があります。そしてある意味、楽天的でもあったと言えるのです。
 以前にもお話しましたが、あるテレビドラマの主人公が末期のガンに冒されて、自分の人生について次のように後悔するシーンがありました。「自分は今まで自分の子供たちのために親としての義務を果たすことができなかった。自分がこうなってしまってそれをとても後悔している。もうこんな自分では彼らのために何もしてやることができない」。病床の苦しみの中で、その苦しみよりもさらに彼の心を苦しめたのは残していく子供たちへの後悔の思いだったのです。ところが、その主人公に、年老いた彼の父親がこう語りかけます。「お前にもまだできることがある。お前が死んで行く姿を、彼らに見せてやることだ」と。
 クリスチャンは死に臨んでも立派な態度を示して、周りの人々に福音を証しして生きなさいと言うようなことを私はここで勧めているのではありません。むしろ、私達がどんな状況になったとしても、神様が私達の人生を用いてくださることを私達は覚えるべきなのです。キリストは私達の生涯を用いて福音を証しするものとしてくださるのです。このことをパウロの言葉から理解したいと思うのです。

3.フィリピ教会の人々のために祈る
(1)イエス・キリストに期待する願い

 さて、次に私達が目を向けたいのはパウロがフィリピ教会の人々に抱いた願いについてです。ところがここでも注目すべきことは、パウロはその願いの実現をフィリピ教会の人々自身の努力
 能力に期待するのではなく、イエス・キリストに期待したことです。だからこの文章、フィリピの人々に彼の願いを伝えたり、命令する形ではなく、神様に対してのパウロの願い、そしてその願いを神様に祈っているという文章で記している点です。
 パウロはフィリピ教会の人々に対して抱いている自分も愛を「キリスト・イエスの愛の心」と呼んでいます。これはおそらく自分の愛の根拠がイエス・キリストの愛から生まれていること、つまり、イエス・キリストがフィリピ教会の人々に抱いている愛が、パウロを通しても実現していると言っているのだと思います。だからこそ、パウロが抱くフィリピ教会の人々に対する願いはこのイエス・キリストを離れることがありません。そして、そのことをパウロはここでフィリピの信徒にも忘れないでほしいとを願っているのです。

(2)重要なことを見分ける

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(9〜10節)。

 私達が普段の生活の中でいろいろと混乱してしまうのは、本当に重要なことが分からないために、目先で起こる変化に驚いたり、悩んでしまうからではないでしょうか。ですから本当に重要なことを見分けることができることは、私達が身の回りで起こる様々な状況に対処することができる鍵であると言えるのです。
 パウロはその重要なことを見分けるために、「知る力と見抜く力とを身に着け」ることと、「あなたがたの愛がますます豊かにな」ることを求めています。聖書の中で「知る力と見抜く力とを身に着け」るとは具体的にどのようなことを意味するのでしょうか。それは神様の御心を知ると言うことです。そしてその神様の御心を豊かに示すために私達の主イエスはこの地上に来てくださったのです。私達が自分の価値判断の基準をこのイエス・キリストに求めること、それは私達の信仰生活において最も大切なことです。そして、そのイエス・キリストによって示された神様の御心は、まさに私達に対する神様の豊かな愛であることが分かります。ですから、私達がキリストを知れば、同時に私達の愛も豊かになるのです。キリストを知ること、それは私達の愛を豊かにさせるのです。また私達の人生に起こる出来事の中で何が重要であるかを分からせるものとなるのです。

4.キリストに結ばれた者にとっての最後のときとは
(1)キリストの日

「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(10〜11節)。

 パウロはこの祈りの後半では「キリストの日」と言うところに焦点になっています。その日のためにフィリピ教会の人々がこうなってほしいとパウロは願うのです。もちろん、これらのことを実際に実現するのはフィリピの人々自身ではなく、神様であるからです。パウロはこのことについて神様に祈りを献げているのです。
 私達は今は不完全ですが、必ず神様が私達を完全にしてくださる、その救いの完成のときがやってきます。聖書はその日こそ、終わりの時、終末の日であると私達に紹介するのです。
 最近、アメリカのマヤ文明の暦が2012年の世界の滅亡を予言していると言う話を聞きました。私の高校生時代には「ノストラダムスの大予言」と言うものがとても流行ったことを思い出します。誰もが世界はこのまま永遠に続くとは思ってはいないからこそ、このような予言のたぐいが度々世の中を騒がせるのかもしれません。そしてそのような関心を持つ人は聖書もまた、世界の滅亡を予言する書物だと考え、そのように宣伝しているのです。
 しかし、私達はこの世界の最後のときについても正しい知識を持って理解しなければなりません。そして、その理解を助けるのはパウロが言うようにこの日は「キリストの日」と考えることです。つまり私達を愛し十字架につけられた方、私達のために復活してくださった方が再び来られる日がその日なのです。
 もし、私達がその最後の日をキリストなしに理解しようとするなら、その日と私達のとの関係は全く分からなくなってしまいます。そうなるとその日は私達に恐怖と混乱を与えるときとしてしか理解できなくなってしまうのです。世の多くの人の終わりの日についての理解はこのキリストとの関係が抜け落ちていますから、人類滅亡のメッセージだけになってしまうのです。しかし、イエス・キリストを信じ、その方との生ける命の関係に入れられた私達はこの日を「キリストの日」、つまり、私達の救いを完成してくださるためにキリストが来てくださる日と理解することができるのです。

(2)神の守りとしてのキリスト者の死

 この後、ハイデルベルク信仰問答の学び会をしますが、今日はそのテキストの中で「キリスト者の死」ついて「ご自身の御元へと召してくださる神の愛のしるし」であると言う解説が出てくるところがあります。つまり、キリスト者の死は私達を地上の災いから遠ざけ、守ってくださるために、神様が私達を御元に引き上げてくださるために起こると言っているのです。まさに私達が死をキリストを通して理解するなら、そこからも神の恵みを感じることができるのです。
 私達の人生には様々な事が起こります。私たちはその一つ一つの出来事を正しく理解することができないために、悩んだり、思い煩ったりするのです。しかし、そのすべての出来事をイエス・キリストを通して見るなら、そこには新しい意味が与えられます。そして、私達はどの出来事を通しても私達に対する神の愛を発見することができるのです。ですから私達が信仰生活において、この正しい判断をくだし、神様に感謝を献げることができるように、私達もまたキリストをさらに知ることを神様に祈り求めて行きたいと思うのです。

【祈祷】
天の父なる神さま。
 獄中にあっても自分の人生の意味を見失うことなく、与えられた使命を果たすことができたパウロの姿を聖書を通して示してくださり、その秘訣がイエス・キリストにあったことを教えてくださり感謝します。私達も私達の人生に起こることをイエス・キリストを通して理解することができますように導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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