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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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すべては私の救いのために

(2011.01.23)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章12〜19節

12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、
14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。

1.状況に左右されない生き方
(1)「喜び」への確信

 パウロの記したフィリピの信徒への手紙から今日も学びます。今まで学んで来たことですが、パウロはこの手紙をローマの獄中で記したと考えられています。パウロはその獄中からかつて自分もその伝道に関わったフィリピの教会の人々に手紙を送りました。不便な獄中から手紙を送るわけですから、普通なら「自分は今、こんな困難な中にあるので、ここから解放されるために祈ってほしい」とか、「これこれのものが必要なので是非送ってほしい」と言った願いを書いてもいいはずです。ところがこのパウロの手紙の内容はそうではありません。むしろ、獄中からフィリピの教会の人々を励まし、しかもパウロが獄中で抱いている「喜び」を彼らも共にしてほしいと言う願いを持ってこの手紙を書いたのです。
 私たちはこれまでパウロの抱くことができた「喜び」の秘訣を学んできました。今日の箇所でも「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)と言うパウロの言葉が記されています。パウロはここで「喜ぶ」と言う言葉を繰り返して使うおもしろい表現方法をとっています。これはパウロが今、どのような状況にあったとしても誰も彼からそれを奪うことができない「喜び」を持っていること、そしてその喜びはこれからも絶対に自分から失われることがないと言うパウロの確信が語られている言葉です。どうしてパウロは自分が抱いている「喜び」についてこんな強い確信を持つことができたのでしょうか。そのことについて今日は少し考えて見たいと思うのです。

(2)変わることのない「喜び」

 ところで、私たちが普段抱いている「喜び」と言うものは自分を取り囲んでいる環境や状況に大きく左右されているのではないでしょうか。そして自分を取り囲む環境や状況は必ず変わりうるものです。だから、その「喜び」はいつかは必ず自分の手から奪われていくものであると言えるのです。
 仏教の開祖、お釈迦様は人間がもつ執着と言う心の傾向に目を向けたと言われています。「いつも、喜んでいたい、自分が持っているこの喜びは決して奪われたくない」。しかし、すべてのものは変わってしまうものです。だからその願望を実現することは不可能なのです。そしてその不可能なことを追い求める私たちの心、執着する心に問題があるとお釈迦様は教えたのです。確かにお釈迦様の言うことは間違っていないような気がします。なぜならギリシャ哲学のストア派の学者たちも同じようなことを語り、環境や世界を変えることではなく、自分の心を守ることを勧めたからです。
 しかし、私たちの読んでいるこのフィリピの信徒への手紙を書いたパウロは「決してなくなることがない喜び」があることを語っています。そしてその喜びを私たちが持つことができる道を教えるのです。パウロは全くお釈迦様やギリシャ哲学者たち異なった立場に立つことを鮮明にしているのです。
 パウロを取り囲む環境や状況はいつも神様に守られていたから、全く変わらないものだったから、彼はこのようなことが言えたのでしょうか。それもそうではないようです。何度も語るようにパウロはローマの獄中で肉体的にも精神的にもさまざまな制限を加えられた不自由な生活を送っていました。もちろん彼がいるところは囚人の入れられた監獄ですから、決していい環境にあったとは言えません。むしろ彼は劣悪な環境に置かれていたと考えることができるのです。教会の伝承によれば、パウロはこの獄中から解放されることなく、処刑されて殺されたと言われています。このように八方ふさがりのような状況の中に置かれていたパウロでしたが、この手紙を読むと彼がそこで抱いていた「喜び」は私たちが普段考えている喜びとは大きく違っていたことが分かるのです。

2.福音の前進に役立つ
(1)捕らえられることによって起こった福音も前進

 パウロが獄中で持つことができた「喜び」について理解するために、彼はこの手紙の読者たちに次のことを知ってほしいと言っています。

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)。

 まず、このパウロの言葉から分かるのは彼が抱いた喜びはキリストの「福音の前進」にあると言うことです。しかもその「福音の前進」のために獄中に繋がれている自分の存在が役立っていることを知ったことにあると言うのです。そしてパウロはそのことをフィリピにいる兄弟たちにも知ってほしいと願っているのです。おそらく、フィリピの人々は「福音のためにあんなに努力しているパウロが、どうしてローマの獄中に捕らえられているのか」と疑問を抱いていたのかもしれません。「どうして神様はいつまでもパウロにそんなことを許されているのか」と疑問を抱く人々に、パウロは「自分に起こったことは決して悲劇ではなく、私たち全員に喜びをもたらすよいニュースなのだ」と言うことを教えているのです。なぜなら、この出来事を通してキリストの福音が前進しているからです。
 それでは福音の前進のために彼の存在は、しかも彼がローマの獄中に捕らわれていると言う事実はどのように役に立っていると言うのでしょうか。パウロはここで二つの側面から自分の存在が「福音が前進」に役立っていると確信しています。
 一つはパウロが獄中に捕らわれたと言う事実を知った人々が、獄中に捕らわれているパウロに変わってキリストの福音を告げ知らせていると言う知らせが彼の耳に届けられたからです。

「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(14節)。

 彼らが御言葉を語るようになったのは、パウロが獄中に捕らわれていると言う事実を知ったからです。つまり、パウロが獄中に捕らわれなかったら彼らがこんなにも福音を大胆に証しすることはなかっただろと言うのです。パウロの逮捕が返って、福音の前進のために役にたったのです。まさにマイナスをプラスへと変えてくださる神様の御業がここに示さています。

(2)違った動機で福音を証しする人々

しかし、もっと不思議なことが起こっていることをパウロは次に記しています。

「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15〜17節)。

 これを読むとパウロの投獄の知らせを聞いて愛の動機からではなく、別の動機からキリストの福音を宣べ伝える人が現れたと言っているのです。彼らは「自分の利益を求めて」、あるいは「獄中のパウロを苦しめてやろう」と言う動機を持って熱心に伝道していたのです。。
 「事なかれ主義者」は問題が起こることを恐れて、いつも何もしないことを選びます。しかし、パウロは福音のために何でもするような人物でした。ですから彼の周りには敵も多かったようなのです。そしてユダヤ人たちはパウロの命を狙うまで彼を憎みました。しかし、ここで現れているのは同じキリストの福音を宣べ伝える人々です。同じキリスト者、しかも教会に仕える伝道者たちであったと考えることができるのです。彼らはパウロの熱心な働きを決して快くは思っていません。だから、彼らはパウロが獄中に囚われの身となったと言うニュースを聞いて、「今がチャンス」と考えのかもしれません。「パウロが獄中で何もできない間に、自分たちが働けば、自分たちに有利な立場が築ける。邪魔者のいない間に」。
 しかし、獄中のパウロは彼らのそのような動機に基づく行為を非難するのではなく、評価しているのです。なぜなら、彼らを通して「キリストが告げ知らされている」と言う事実が確認されていたからです。しかも、彼らがそのような活動をするきっかけになったのはやはり自分の投獄と言う出来事を通してであったと言うのです。自分がこうならなければ、このようなすばらしいことは起こることがなかった、だから自分は「それを喜んでいる」とパウロは語っているのです。
 ここから私たちが分かることはパウロが自分の周りで起こった出来事を判断する基準として、やはりここでも「キリストに基準をおいて」、それらのことを評価しようとしているところです。パウロはこの出来事はいったいイエス・キリストのために、彼の福音が前進するためにどのように役に立っているのかを考えたのです。そしてどのような形であってもそれが実現していることを評価することができたのです。彼それらの事実のゆえに獄中で喜ぶことができたのです。
 イエス・キリストはその喜びに私たちを共に与らせるためにあらゆる種類の人々を用いられるのです。パウロもその一人であり、また彼の周りで働く人々もその一人一人でした。パウロはこのイエスの御業の中で見事に自分が用いられていることを知り、それを喜んだのです。

3.わたしの救いとなる
(1)とりなしの祈りへの感謝

 パウロの喜びを考える際に私たちが今日覚えたいもう一つのことは、彼自身が困難の中でも自分の人生の目的を決して見失うことなく、それが実現することを願い続けたことです。また獄中にあってもそのために働くことができたと言うことです。

 「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」(19節)。

 パウロはここで自分がこれらの出来事の意味を正しく判断することができ、喜びを抱くことができるようになったのは「あなたがたの祈り」と「イエス・キリストの霊の助け」によると言っています。そしてフィリピの教会の人々がパウロのために祈ったとりなしの祈りに感謝を表明しているのです。まさに獄中にあって、パウロが福音の前進していることを確信できたのは彼らの祈りによってパウロに与えられた「イエス・キリストの霊の助け」によるものだったのです。パウロだけが特別な能力者であったと言うのではありません。神様が働いてくださるなら、私たちもまたパウロと同じような判断力を身につけ、また喜ぶことができるのです。
 ところで、ここで興味深いのはパウロがここで「このことがわたしの救いになると知っているからです」と言っていることです。福音が前進しているということが「わたしの救いになる」とパウロは確信しているのと言うのです。そしてパウロがこう考えたことは彼の抱く「喜び」にとってとても大切なことだったのです。なぜなら、人は困難にぶつかるとき、自分の生きる目的を見失い、混乱してしまうことがあるからです。しかし、パウロはそうではありませんでした。だから獄中にあっても「自分が獄中に捕らえられたことから起こったすべての出来事はわたしの救いとなっている」と確信を持つことができたのです。
 もし、パウロが獄中から解放されて自由の身になることが自分の救いだと考えていたとしたら、彼は獄中の中でこんな喜びを抱くことはできなかっただろうと思うのです。なぜなら彼の人生の目的は自分が自由の身になることではなく、福音が前進することにあったからです。だから彼は獄中にあっても福音が前進していることを知り、それが自分の救いになると言えたのです。

(2)今の自分にできること、今の自分がしていること

 私たちが行っている祈祷会のための祈祷課題の中で、もっとも多いものは「病気が癒されること」、あるいは「健康が回復する」と言うものではないでしょうか。もちろん、これらの課題は私たちの人生や生活にとってとても重要なことですし、わたしもそのことについて皆さんに祈ってもらうことがたびたびあります。しかし、忘れてはならないことは私たちは何もために病気から癒されて、健康になる必要があるのかと言うことを知っているかと言うことです。つまり病気から癒されることは人生の目的ではなく、その目的を達成させるために必要な一つの条件に過ぎないのです。ところが、私たちはそれを勘違いしてしまい、いつのまにか病気が治ることが、健康が回復されることが人生の目的になってしまうのです。そうなるとそれが実現されない限り、私たちの人生の目的は絶対に達成されないことになってしまいます。
 パウロもおそらく獄中で「自分がここから解放されて自由の身になることができるように」と祈ったはずです。しかし、その祈りが答えられないからと言って彼が絶望することも、自暴自棄になることもなく、返って獄中の中で「喜ぶ」ことができたのは自分の人生の目的が別のところにあることをはっきりと知っていたからです。彼は使徒としてイエス・キリストに選ばれた者でした。ですからその人生の目的は福音の前進のためにあると言えるのです。そして、パウロは自分が獄中に囚われの身でありながらも、その福音が前進すると言う自分の人生の目的が達成されていることを知り、喜ぶことができたのです。しかも、その福音の前進にはパウロの投獄という出来事が重要な要因となっていたのです。
 祈祷会で学んでいる 「祈りの世界」と言う本の中に世界を動かし、また人々を励まし助け続けたとりなしの祈りの働き人たちの話が紹介されていました。不思議なことに、そこに紹介されている人々は生まれつき身体が不自由であったり、病を得て病床で寝返りも打てないような状況に追い込まれた人々でした。しかし彼らはそのような困難な人生の中で祈りの霊に導かれてとりなしの祈りを献げる祈り手として育てあげられたと著者は語っているのです。
 「自分が重要な仕事をするためにはこれこれの条件をクリアする必要がある」と私たちは考えてしまうことがあります。そしてその条件がクリアできないことを嘆き続けながら人生の大切な時間を無駄に使ってしまうのです。しかし、その条件を決してクリアしていなくても今の私たちがしなければならない大切なことが、今のわたしでなければできないことがないと言えるでしょうか。パウロはそれを知っていました。なぜならパウロは自分の人生の目的を見失しなすことなく、それを見据えて今の状況を考えることができたからです。私たちにも今の自分にしかできないことが、そして今の自分だからできていることが必ずあるはずです。イエスの霊が私たちにそのことを教えてくださるよう祈りたいと思います。

祈祷】
天の父なる神さま
 獄中のパウロが福音の前進のために自分に起こった出来事がどのように役だっているかを確信できたように、私達もまた自分の今置かれている状況が、あなたの栄光をあらわすためにどのように役だっているのかを知らせてください。自分に与えられた人生の目的を意識し、今の自分ができること、今の自分にしかできないことを悟り、与えられた命を使うことができるように私達を導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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