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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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生きるべきか、死ぬべきか

(2011.01.30)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章20〜26節

20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。
26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

1.パウロの喜びの正体

 パウロの記したフィリピの信徒への手紙を続いて学んでいます。聖書を読めば分かるのですが、この手紙の著者パウロの生涯は決して平坦な、問題のないものではありませんでした。むしろ、聖書に記されている彼の言葉や、彼の生涯の一部を紹介する文章を読んでも私達には考えもつかない出来事が彼の人生の上に起こっていたことがわかります。このような生涯の中でもパウロが喜びを失うことがなく生き続けることができたのはどうしてなのか。そのことについて先週も学びました。
 私達の通常考える喜びは、私達の周りの環境や条件によって変化したり、また消滅してしまうものが大半です。ですから私達は自分の人生に自分が思ってもいないような変化が訪れることを恐れているのです。しかし、この手紙を書いたパウロは自分を取り囲む環境や条件の変化にきわめて柔軟に対処していることが分かります。パウロは自分の思ってもいなかった状況に追い込まれたとしても、「もはや自分には何もできない」と考える人ではありませんでした。むしろ、その状況の中で自分にできることは何かを考えたと言うことを学んだのです。
 パウロにとっての「喜び」とはどんな状況の中にあっても自分がイエス・キリストのために生きることができていると言う喜びでした。そしてパウロがそのような喜びを抱いて生きることができたのは、彼の人生を導いてくださっている方がイエス・キリストであって、自分の人生に起こる出来事のすべてがこのイエス・キリストの関与の中で起こっていることを確信していたからです。
 キリストのために生きることができることの喜び、それがパウロがこの手紙で語る「喜び」の正体であると言っていいのかもしれません。そしてその正体を知っているならば今日の箇所のパウロの言葉の意味も自然と理解することができると言えるのです。

2.キリストが公然とあがめられるために
(1)パウロにとっての生と死の意味

「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(20節)。

 ここでパウロは自分が何を願い、希望しているかを語っています。それはパウロが「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」と言うことだと言うのです。何度も語りますように、パウロはこの手紙をローマの獄中で書いています。この時、パウロは自分がこの獄中から解放されるのか、それともそこで処刑されて命を奪われてしまうのか、分からないような状況に置かれていました。先の見えない状況の中でしかし、彼はここでも「キリストが公然とあがめられる」と言う自分の人生の目的を果たすために何ができるのかを考えています。そしてその目的が果たされるためにはたとえ自分が処刑されて死んだとしても、またその反対に釈放されて自由の身になったとしてもどちらでもかまわないと語るのです。彼の生き方の柔軟性ははっきりとした自分の人生の目的をいつも持っていたところから来ているのです。そのような彼だからこそ次のように語ります。

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)。

 パウロは自分が生きることも死ぬことも、キリストがあがめられるために用いられるならば自分にとって利益であると語っているのです。つまり、キリストのために生き、また死のうと考えるパウロにとっては生きることも喜びにつながり、また死ぬことも喜びであると言っているのです

(2)恥をかかない生き方

 ここでパウロは「どんなことにも恥をかかず」と言う言葉を使っています。この「恥じ」と言う言葉を私たちは誤解しないよう注意すべきです。なぜなら、このパウロの語る「恥じ」は単に自分のプライドが傷つけられたと言うようなときの「恥をかいた」と言う意味の言葉ではないからです。むしろ、パウロに取っての「恥じ」とは自分が神様に救われているかどうかと言うところで現われてくるものなのです。つまり、パウロにとって自分が「恥じをかかず」と言う言葉は、自分が完全に救われるという意味と同じものなのです。
 今日の礼拝の最初に読んだ詩編では、その詩編の著者はあることについて思い巡らすことで心を騒がせていると語っています。それは神様を信じない者がこの世で問題もなく、返って栄え、繁栄している姿を見せられたためです。彼らの姿を見ていると神様を信じ、仕えて生きることには本当に意味があるのかと著者は疑ってしまうのです。ところが、詩編記者は神様によって不信仰者の最後がどのようになるのかを示されています。彼らは結局神の救いにあずかることができずに「恥じ」を見ることになるのです。一方、この世では「信仰などと言う無意味なものを持ってどうなるのか」と非難され、恥を被っていた人々は最後のときにすべての完全な救いにあずかり、その「恥じ」が取り去られるのです。そしてパウロにとっての「恥じ」も、この救いの出来事に関係するものであると言えます。パウロにとっては自分がたとえこの世でどのような境遇に立たされたとしても、最後の日に神に救いわれると言うことが「恥をかかない」唯一の道なのです。そしてパウロはその救いが自分の人生に実現することを待ち望みつつ生きているのです

3.現世逃避主義でも、個人主義でもない信仰生活
(1)自分の人生を通して実現する神の恵み

 ここでパウロは神様の救いがどのように自分に実現するのかについて、どう考えていたのかについて少し考えて見たいのです。なぜなら私達はパウロの語った「恵みによる救い」について十分な理解が必要だからです。ご存知の通り、パウロはイエスと同じように律法主義者たちの「自己義認」の道を厳しく批判しました。律法主義とは人間が神様に認められ、「よし」とされるのは自分たちの律法への努力にかかっていると言う考え方です。つまり、神の御旨にかなった善いことをする者だけが救われ、それができない者は裁かれ滅ぼされてしまうと言うのがその考え方の結論です。一方、パウロは人が救われるの「100%神様の恵みによるもの」でと語りました。私達が救われるために神様は1%でも私達の側に要求されるものは無いと言うのが「恵みによる救い」を教えたパウロの教えの特長です。ところでこの考え方に対して、たびたび様々な人々から疑問が投げかけられました。「人間が自分の救いのために何もしなくてもいいのなら、人は怠け者になって、何の善い業もなそうとしなくなる」と言うものです。しかし、この疑問が間違いなのは、パウロの生涯を見ても明らかです。なぜならパウロは誰よりも熱心にキリストのために働いた使徒だったからです。
 このパウロの働きが生まれる根拠はどこにあるのでしゅうか。そこで大切になるのはパウロが自分の上に神様の恵みによる救いがどのように実現するのかを考えていたかと言うことです。確かにパウロに対して与えられる神の救いは100%無償の神の恵みによるものです。しかし、パウロはこの恵みを神様はどこか別の場所で自分に与えてくれるのではなくて、自分の人生を通して与えてくださると考えていたところに大きな特徴があるのです。
 誰かが作ったご馳走を私達は簡単に食べることができます。しかし、神の恵みによる救いが私達に与えられる方法はそのようなものではありません。私達はお店に行って材料を買い集め、家に帰って包丁とまな板を使って下ごしらえをし、調理して、お皿にそれを盛り合わせる、そしてそのご馳走を食べる。パウロは神様の恵みは自分のそのような働きを通して自分に与えられると考えたのです。
 それではその教えは律法主義とどこが違うのでしょうか、それは全く違います。律法主義の根拠は自分が自分の力でしたことが神様の評価の対象となります。しかし、パウロにとって自分がこの世でなしえたことすべてはキリストが自分の人生を通してなしてくださったものに他なりません。だから、その働きで自分が評価されることはないのです。パウロにとって生きることも、死ぬこともキリストが自分のために恵みを与えてくださることにつながるのです。だから彼はこの地上の生涯を大切に、また懸命に生きたのです。それはキリストの恵みにあずかると言う彼にとっての利益につながっているからです。
 神様は私達の人生を通して恵みによる救いを私達に与えてくださるのです。だから私達は自分の人生に無関心であってはいけないし、むしろ神の御旨に従って生きようとするのです。そしてそれは私達個人の問題だけではなく、この世界の救いにも同じことが適用されるのです。私達の目には矛盾に満ちたような世界の現実が確かにあります。しかし、神様はこの世界の出来事すべてを用いて私達の住むこの世界に神の国を実現されようとされるのです。だからここでも私達信仰者はこの世の出来事に無関心となってはならず、誠実にこの世の出来事と関わって行くことが求められていると言うことが分かるのです。神の恵みは、私達の人生を通して、またこの世界を通して私達に与えられるからです。

3.キリストのために兄弟と共に生きる
(1)信仰生活への批判

 「信仰など持っていると天国のことばかり考えて、この世の出来事に無関心になってしまうのでないか」と言う非難が向けられることがあります。確かに、教会に来られる人の中にはときどき、自分は神様のことだけを考えるために教会に来ている。だから煩わしい人間関係には関わりたくない」と言われる方もいるのです。
 しかし、パウロの教えに従えば、信仰者こそが自分の人生に対して、またこの世との関わりについて真剣な態度が求められていると言うことが分かるのです。なぜなら、神様は私達の救いのためにこの世界を与え、また教会を与え、そこに信仰による兄弟姉妹たちを集めてくださるからです。
 パウロはここで自分がどう生きるべきかを考える際に、この兄弟姉妹との関係が大切であることを語っています。

「この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」(23〜24節)。

 パウロにとって一番の希望は「いつもキリストと共にいたい」と言う願いでした。しかし、彼はその願いが実現する以上に大切なことがあると言うことをここで語っています。それはそのキリストが今の自分に何を望んでいるか、自分がどう生きるべきかを望んでおられるかと言うことです。そしてキリストの御旨に従うパウロが導き出した結論は、自分が地上とどまり、教会の兄弟姉妹の救いのために働くことに求められていると言うことだったのです。自分が今、たとえローマの獄中にあっても生きることができているのは、自分が生きて働くことを神様が望まれていると彼は考えているのです。そしてこのパウロにとっての地上の死は、この地上での働きを果たし終えたときにはじめて自分に訪れるものであると言えるのです。ですから残された人生を無意味に浪費してしまうのではなく、キリストのために生きようと決心し、パウロはそのキリストのために兄弟姉妹と生きることをここで願っているのです。

(2)キリストのために今、何ができるか

「こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」(25〜26節)。

 ローマの獄中にあるパウロは、その獄中で今の自分ができることが何かを考えました。それはフィリピの教会の人々のためにこの手紙を書き送り、彼らの信仰を励まし、彼らもパウロと同じ喜びにあずかることができるようにと指導することです。パウロはそれこそキリストが自分の人生に望んでおられることであり、その人生を通してキリストは自分に豊かに恵みを与えてくださることを信じたのです。
 私達も今置かれておる状況の中でキリストのために何ができるのかを考え行動したいと思います。そうすればキリストは私達のために準備してくださった恵みを私達の人生を通して豊かに与えてくださるのです。キリストのために生きること、それこそがパウロが示した喜びの正体であると言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神さま。
 生きるにしても、死ぬしても自分にとってそのどちらもが利益とパウロは考え、自分の人生を通して主イエス・キリストの恵みの御業が実現することを信じたパウロのように、私達もあなたのために生きることができるようにしてください。私達がその使命を実現するために、あなたは私達に今日も命の日々を与えてくださいます。そして私達がその命の日々を大切生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。

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