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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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イエスを見つめる

(2011.02.06)

聖書箇所:ヘブライ人への手紙12章1〜2節

自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

1.眺める、見つめる
(1)月の光を眺める

 今朝はこの午後に行われる会員総会のために今年の教会の年間聖句と年間標語から礼拝のお話をしたいと思います。今年の年間聖句はヘブライ人への手紙12章1〜2節の「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と言うみ言葉です。また年間標語はこの聖句の中にも登場する「イエスを見つめる」と言うものになっています。
 以前にも少し触れましたが私は昨年、親類の葬儀に出席したときに一つの日本の歌に出会いました。「月かげのいたらぬ里はなけれども、眺むる人の心にぞすむ」。この歌は浄土宗の開祖と言われる法然の作ったものだと言われていて浄土宗の「宗歌」になっています。仏式で営まれた葬儀で、そこで読まれるお経の言葉は難解で到底理解することができなかったのですが、その式の中で何度も読まれたこの歌の意味はうっすらと理解でき、それだけに自分の脳裏に残りました。早速、家に帰ってインターネットで調べて見るとこの歌の意味は「月の光はすべての人を照らすが、その美しさはその月を見つめる人の心にだけ宿る」と言ったものです。
 夜空に光る月の美しさを眺める余裕が現代人にはあまりないかもしれません。地上にはそれにもましてたくさんの光が夜でもまたたいていて、月の光に驚くことはあまりありません。しかし、この歌が作られた平安時代の末期にはきっと月の光はもっと美しかったのだろうなと私は思うのです。ところがそんな平安時代であってもやはりその月の美しさは、その月をじっくり眺める人にのみ理解できるのだとこの歌は言っているのです。そしてその月の光を心を込めて眺める人の心に、その月の光の美しさ宿っていくのです。やがてその美しさはそれを眺めた者の心まで美しいものに変えていくと言うのです。

(2)イエスを見つめることの大切さ

 浄土宗のことや法然のことは私には分かりませんが、この歌について考えながら聖書の聖句を私は思い出しました。それがこのヘブライ人の手紙の聖句だったのです。この聖句には夜空の月ではなく、私たちの主イエスを見つめることが薦められています。私たちが主イエスを見つめるとき、私自身に、そして私たちの教会にその豊かな恵みが宿り、私たちが変えられることがこの聖句には語られていると言えるのです。
 信仰生活の中で私たちがいつもイエスを見つめていることが大切であることを、聖書に記された一つの物語は私たちに教えています。マタイによる福音書14章22〜33節にはイエスがガリラヤ湖の水の上を歩いて、同じくこのガリラヤ湖の上に浮かんでいた一艘の船に乗っていた弟子たちに近づいて来たと言う物語が記されています。
 弟子たちは始め湖上を歩くイエスの姿を見て「幽霊だ」と驚き慌てています。しかしやがて、それがイエスであると判明したとたん、弟子の一人ペトロはイエスに「自分も同じように水の上を歩いてそちらに行かせてほしい」と願い出たのです。イエスに許可を与えられて湖の上に足を下ろしたペトロは不思議なことに自分の両足で水の上を歩くことができたのです。ところが物語はこれでめでたしめでたしと終わるのではありません。ペトロは途中で湖の上に吹く強い風に気がつくと、恐怖に囚われ、それと同時に湖の中に沈んで行ってしまうのです。
 この部分を新改訳聖書も口語訳聖書も共にペトロが「風を見て」と訳しています。どうしてペトロはここで風を見たとたん恐怖に囚われ、湖に沈んで行ったのでしょうか。おそらく、彼はそれまで「来なさい」と自分を招いてくださったイエスの方をじっと見つめていたのだと思うのです。だからペトロはイエスを見つめ続ける間は安心して、無事に湖の上を歩くことができたのです。ところが、その目を一瞬別のところに向けたときに彼の上に悲劇が起こりました。彼を取り巻く嵐が彼を一斉に襲いはじめ、彼はパニックに陥って湖の中に沈んで行ってしまったのです。
 この物語は私たちの信仰生活を象徴づけるような物語であると言えます。私たちも信仰の目をイエスに向けているとき、私たちの信仰生活には自分の力で不可能と思われるようなさまざまな恵みが与えられ、平安を受けることができるのです。ところがその目をイエスとは違うところに向けるとき、私たちの心は恐れ囚われ、問題の中に沈んで行ってしまうのです。
 ですから私たちが主の恵みの内に信仰生活を送るために、私たちの信仰の目を絶えずイエスに向け続けるということは大切です。そしてイエスはその目をご自分に向ける者たちに、聖霊を送り、恵みを豊かに与えてくださるのです。

2.共に目標を見つめる
(1)正しいコースを見分ける

 ところでこのヘブライ人の手紙の著者が「イエスを見つめる」と言うとき、それがなぜ私たちにとって大切なのかと言えば、イエスが私たちの信仰生活のゴール、目標であるからです。
 新春に行われた大学対抗の駅伝のテレビ中継で、ゴールに突入する直前で走者が目の前を走っているテレビ中継車の後をついて行ってしまい、一瞬コースを離脱しはぐって大騒ぎになった映像が何度も流されていました。その走者は自分の目の前を走っている中継車も当然ゴールまで行くものだと思っていたのでしょうか。とにかく、自分が目印としているものが誤ったものならば、ゴールに到達することはできなくなってしまいます。それではこれまで一生懸命駆け抜けて来た走者の努力は水の泡になってしまいます。
 ヘブライ人への手紙の著者は私たちの信仰生活が本当に意味のあるものとなるために、私たちの目をいつもイエスに向けておく必要があり、その後についていくことが大切であると教えているのです。私たちがイエスを見つめているならば、もし誤った道に入り込むようなことが起こったとしても、すぐにその誤りを悟り、軌道を修正することができます。ところが、この目標を私たちが見失ってしまったら、私たちが歩んでいる道が間違っていることも分かりませんし、元に戻る道さえも分からなくなってしまうのです。

(2)一つになるために

 私たちが「イエスを見つめる」と言うことが大切なもう一つの理由は、教会に集う私たちが皆、同じ目標を目指して進むからこそ、その教会の一致が生まれてくると言えるのからです。先日読んだ、フィリピの信徒への手紙を解説する韓国語で書かれた説教集の中にこんな話が記されていました。
 韓国国民はみんなで一緒にすると言うことがなかなか苦手なようです。ところがあることではその国民が一致して見事な力を見せることがあると説教者は語るのです。それはスポーツで韓国選手や韓国のチームが日本の選手やチームと競技すると言うことになった場合です。韓国民は対日本戦になると国民がすべて一致して、猛烈な力で応援し、選手もその応援に支えられてすばらしい力を発揮することができると言うのです。
 ふだんは分散されている力が一つになるとき、何十倍、何百倍の力が発揮されることがあります。教会でもこれは同じです、そこに集まっている人がいくら賜物を豊かに神様からいただいていても、そこに集う者たちがばらばらに行動していては有効な力を発揮することができません。しかし皆が同じ目標を目指して、歩み出すときその力も一つとなり、教会は新たな力を発揮することができるのです。そのためにも私たちは同じイエスを信仰の目標として歩み出す必要があると言えます。
 毎月の教会の小会では会議の後に、その月の第二日曜日に行われる聖書研究会の準備のために学び会をしています。ここで事前に聖書研究会の司会者となる者たちがテキストを学んでいます。このような役員の皆さんの献身によって第二週の聖書研究会は支えられているのです。もちろん、教会に集う者たちの心をイエスに向けるために毎日曜日に礼拝が守られていることも確かです。しかしこの第二週の聖書研究会はさらに教会の一致のために有効な働きをすることができると考えています。なぜなら、聖書研究会を通して私たちは共に同じ聖句を元にして話し合い、各の信仰生活を分かち合い、共にイエスを見つけることができるからです。

3.共にキリストの恵みに与る
(1)忍耐の力はどこから与えられるか

 さてこのヘブライ人への手紙の著者がこの手紙の中で「イエスを見つめる」ことが大切であると言うことを教えるとき、そこには特別に「イエスを見つめる」必要のあった人々がいたことが想定されています。この年間聖句の前後を含めてもう一度この箇所を読み返して見ましょう。

 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(1〜12節)。

 この文章を読んでみると信仰生活に疲れ果てて、そこから離脱したいと願っている人々に著者は忍耐を求めて、最後まで「走り抜こう」と呼びかけているのが分かります。しかも、信仰生活に疲れ果ててしまう原因は、走るのに邪魔な余計なものが絡みついてきて離れないから、それを捨てる決心をしようと著者は勧めているのです。

 「忍耐する」、「我慢しなければならない」。重要なことを最後まで成し遂げるために誰もが教えることはこのことではないでしょうか。もちろん、取り組み方の方法が間違っていたら期待する結果を得ることはできません。しかし、いくらいい方法があったとしても、忍耐がなければ、どうにもなりません。ところが、この「忍耐」こそ、私たちにとって一番のくせ者です。なぜなら私たちはこの忍耐ができないことでいつも悩み苦しんでいるからです。
 その答えがとして著者が語るのは私たちが「イエスを見つめる」ことであると言うのです。この信仰の競争を走り抜ける力はこのイエスから私たちに与えられるのです。なぜなら、イエスは私たちに代わって、この競争を走り抜け、十字架で勝利されたからです。そしてイエスは今、勝利者として神の玉座の右に座り、そこから私たち信仰者のために豊かな恵みを与続けてくださるのです。そして私たちはこのイエスが勝利してくださったからこそ、自分の信仰生活の歩みが無駄には終わらず、最後には完成することができると言うことを確信することができるのです。そしてこのイエスの勝利こそが私たちの信仰生活に必要な忍耐を成り立たせるものと言えるのです。
 もし「がんばればなんとかなるかもしれない」となるなら、私たちはいつも「本当に大丈夫だろうか」と言う不安を抱きながらびくびくして信仰生活を送らなければなりません。しかし、「確かに、あなたの忍耐には意味がある。その忍耐は必ず実を結ぶことができる」と言うならば、私たちから心配は取り除かれ、力も一つのところに集中させることができるのではないでしょうか。ヘブライ人への手紙の著者は「イエスを見つめる」ことの大切さを旧約聖書の信仰者の姿を通して紹介しています(11章)。彼らが地上の生涯の中で忍耐して信仰生活を歩むことができたのは、聖書に記された約束を通してこのキリストの勝利を知っていたからなのです

(2)忍耐を必要とする祈り

 水曜日の午前中の祈祷会で先日、O・ハレスビーの「祈りの世界」を最後まで読み終えました。その最後の部分では祈りの遺産について語られていたことが印象に残りました。私たちが今、神様に献げた祈りの答えを私たちの子や孫たちが受け取ることができると著者は教えるのです。この著者が言うように私たちが残す地上の財産は私たちの家族を本当に幸せにできるかどうか分からない不確かなものです。しかし、私たちの献げる祈りを通してイエスが与えてくださる答えは彼らの人生を本当に祝福に導くことができるのです。著者は実際に、自分や自分の家族が祝福された毎日を送ることができているのは、今は世を去って天に帰った祖父や祖母の祈りがあったからだと言っています。
 今祈った祈りが、すぐに聞かれないと「どうしてなのか」と考えてしまう私たちです。そんな私たちが何十年も先にかなえられるための祈りを献げるためには、それこそ信仰の忍耐が必要とされるのではないでしょうか。しかし、それを可能とするのは、私たちの祈りに必ず答えを与えてくださるイエスを私たちが見続けるところにあるのです。
 私はここで今年の年間聖句と年間標語についてお話しているのですが、私たちの信仰生活は今年一年のためだけにあるのではありません。同時に私たちは長い自分の信仰生活の歩みを、さらには教会の歩みを視野に入れながら今年の活動を続けていきます。そしてこのような活動を可能とするのはいつも私たちがこの信仰生活のゴール、目標であるイエスを見つめることにあると言うことを心に覚えたいのです。そして新しい今年一年の歩みを共に始めたいと思うのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私達をこの教会に集め、共に主イエスを見つめる信仰生活を送る者として召してくださった幸いを感謝します。私達の前にも様々な問題があります。また私達自身がさまさまな重荷を持って苦しんでいます。どうか私達が主イエスを見つめることで、あなたから来る恵みと平安を受け、力を尽くしてあなたに仕えることができるようにしてください。共に集う私達が信仰のゴールであるイエスを見つめながら励まし助け合っていくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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