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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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キリストのための苦しみ

(2011.02.20)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章27〜30節

27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

1.パウロの生涯を用いる神

 フィリピの信徒への手紙を続けて学びます。獄中に囚われの身となっていたパウロは、自分の生涯を通してキリストがあがめられるようになることを切に望んでいました。そしてそのためにパウロは今自分に何をできるかを考えました。パウロのその結果、自分のためにではなく、フィリピの教会の人々のために残された命を用いることが大切であると言う結論に至ったのです。そしてパウロのその使命を果たすためにこの手紙をフィリピの教会の人々のために記したのです。
 パウロの願いは一刻も早くこの獄中から解放されて自由の身になり、フィリピの人々との再会を果たすことでした。そうすればパウロは彼らのためになお一層働くことが可能となるからです。しかし、パウロはその日が実現することをじっと獄中で待つと言うことはしていません。彼らに今は会えなくても、手紙の中で自分の意思を伝え、また福音を伝えることで彼らの魂を導こうと考えたのです。
 確かにこの時パウロの心の中に浮かんでいるのは、たぶん旧知の仲であった一人一人のフィリピの教会の人々の顔です。そして彼らのために働きたいと願うパウロの言葉がこの手紙の中には散りばめられているのです。しかし、この手紙をパウロに書き記させた神様の願いは、このパウロの思いを遙かに超えたものであったと言えます。なぜなら神様はこのパウロの手紙を新約聖書の中に残し、すべての時代の信仰者が読むことができるようにされたからです。そして神様はこのパウロの手紙を通して、今、この手紙を読んでいる私達を導こうとされているのです。ですから、私達もまた、この手紙を私のために神様が与えてくださった手紙として読むことができるのです。神様はパウロの生涯を用いて私達を導いてくださるからです。

2.苦しむことが恵み
(1)因果応報

 今日の箇所のパウロの言葉の中で皆さんの心に残るものは何でしょうか。この手紙に記されたパウロの言葉一つ一つには深い意味があり、その意味を学ぶとき、私達の信仰生活に大きな励ましを与えることができます。今日のパウロの言葉の中で特に私達が心に留めたいものは「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(29節)と言うものです。
 この言葉には「苦しみ」と「恵み」と言う言葉が同時に登場しています。パウロはここで私達の信仰は神様からいただいた「恵み」であるとまず語りながら、それと共に「苦しむこと」も神様から私達に与えられる「恵み」だと語っているのです。私達はこのパウロの言葉のように「苦しみ」を神様からの恵みであると理解しているでしょうか。むしろそうではなく、もし私達が「苦しみ」に出会うなら、まず考えることは「自分の何が悪かったのか」、「何の罰でこのような苦しみに遭うのだろうか」と考えてしますのではないでしょうか。私達は「苦しみ」を恵みではなく、神様から与えられる罰と考えてしまうことがあるのです。
 旧約聖書の中の一つにヨブ記と言う書物があります。大変熱心な信仰者であったヨブと言う人物が登場します。彼の人生にあるときを境に大変な苦しみが訪れます。そしてヨブは「どうして自分はこのように苦しまなければならないのか」を問い続ける、そのようなお話です。
 このヨブを助けようとして何人かの彼の友人が訪れて、彼の人生を襲った苦しみの意味を説き明かすのです。ところが、その解き明かしのほとんどは「因果応報」と言う言葉で表現されるようなものでした。つまり、苦しみの原因は自分が犯した過ちにあって、神様がそれを罰しているからだと説明するのです。だから、彼らはヨブが自分の犯した誤りを正すなら、その苦しみから解放されることができると教えたのです。もちろん、この友人たちの考えはヨブ記の中で誤った考えだと神様に指摘されています。しかし、私達はヨブの友人たちほど理論的ではないにしても、普通、自分が受けた苦しみの原因は自分の犯した過ちにあると考えているのではないでしょうか。ところがパウロはここで「苦しむことも神様が与えてくださる恵みだ」と語ることで、苦しみの原因は100%神様の側にあると語っているのです。それでは神様が与えてくださる「苦しみ」にはどんな意味があると言うのでしょうか。

(2)「恵み」が意味するものは

 「恵み」とは神様から与えられる贈り物と言うことです。それでは「贈り物」には言ったどのような意味があるのでしょうか。バレンタインデーであった先週の月曜日を前にたくさんのチョコレートが日本中で売り出されました。チョコレートを食べたいだけなら、自分でお店にいけばよいわけです。しかし、バレンタインデーのチョコレートにはそれを贈る人が、受け取る人に送るメッセージが隠されています。だから、チョコレート自体は、おいしくて甘いお菓子に過ぎないのですが、バレンタインデーのチョコレートにはそれに添えた愛のメッセージが付け加えられているのです。
 神様の「恵み」にも同じ意味があります。神様はその恵みを私達に与えることで、ご自身の私達に対する愛を示してくださるのです。そうすると「苦しむこと」も「恵み」と言うことはどういうことになるでしょうか。私達は問題がなく、順境のときは神様に祝福され愛されていると感じます。そしてその反対に問題が起こって自分に苦しみが襲ってくるときに、「自分は神様から愛されていないのではないか」という思いを抱いてしますのです。しかし、パウロはここで「苦しむことを」通しても神様は私達に対する愛を伝えてくださり、神様の愛を知ることができると言っているのです。それなら私達は順境のときも逆境のときも神様の私達に対する愛を確信することができます。
 ただ私達がここで見逃してはならない言葉があります。それはこの「苦しむこと」と言う言葉の前に「キリストのために」と言う言葉がつけられているからです。パウロの論理はいつもこのキリストを中心に動いています。ですからここでも彼の語る「苦しみ」とキリストとは切っても切り離すことのできない関係があると言えるのです。

3.福音にふさわしい生活
(1)パウロの願い

 ところでパウロはどうしてここで「キリストのために苦しむこと」と言う言葉を使っているのでしょうか。それはパウロがフィリピの教会の人々に対して抱いた願いに基づくものでした。パウロはここで次のようにフィリピの人々に語っています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27節)。「ひたすら」と言う言葉がまず語られています。「一心に」とか、「他のことはとこかくとして、このことだけは忘れず努めなさい」と言った意味の言葉です。ですから「キリストの福音にふさわしい生活を送る」ことが最も大切なことだとパウロはここで語っているのです。
 それではキリストの福音にふさわしい生活とはいったいどのような生活のことを言うのでしょうか。パウロはここでその生活がフィリピの教会の人々の上に実現したのなら、次のようなことが起こるはずだと語っています。

 「そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」(27〜28節)。
 ここには教会の人々が一つとなって信仰の戦いを戦い抜き、反対者たちの脅しにもたじろぐことなく、教会生活を守り続けるべきことが教えられています。この言葉からフィリピの人々の前に信仰に敵対する反対者が立ちはだかって、彼らを脅していると言う現実があると言うことがわかります。そしてその反対者の脅しにも屈することなく、信仰の戦いを戦い抜くことをパウロは「キリストのために苦しむこと」と言っているのです。つまり、信仰者が自分の信仰を守り抜いて生きようとするときに、起こる戦いの中で味わう「苦しみ」こそがパウロの言う神様からの恵みであって、私達はその苦しみの中で私達に対する神様の愛を確認することができると言っているのです。

(2)戦いのための武器は何か

 フィリピの人々には自分たちの信仰を守り抜くと言う戦いが求められています。そしてそれは決して安楽なものではなく、彼らに「苦しみ」を与えるものだったと言えるのです。ところで私達がその信仰の戦いを戦い抜くために勝利の鍵となるものはいったい何なのでしょうか。それがパウロが「ひたすら」にと語る「キリストの福音にふさわしい生活」だと言えるのです。
 「キリストの福音にふさわしい生活」と言う言葉は、「キリストによって実現した福音」つまり、「キリストによって実現した救いの出来事」に対してふさわしい生活をすると言うことです。律法主義は「救いが実現するために」する生活を私達に要求し、様々な掟をこの地上の生活で守ることが大切だと教えます。しかし、パウロの求める生活はこの律法主義とは全く異なっています。パウロは既にキリストによって実現した救いの事実に基づいて、それに従った相応しい生活をすることをここで勧めているからです。
 それではキリストによって実現した救いにふさわしく生きる生活は他の生活とどこが違うのでしょうか。まず、私達の罪はキリストの十字架のゆえに既に赦されています。ですから私達は神様の人間の罪に対する厳しい裁きを恐れて生きる必要なくなるのです。そしてその人間の罪が原因となるさまざまな災いからも私達は解放されているのです。私達が「因果応報」を信じる必要がない理由はここにあります。なぜなら災いを引き起こす原因となるはずの私達の罪はキリストによって既に解決してしまっているからです。
 そして最も違ってくるのは、私達の死の問題です。キリストは三日目に墓から甦られることにより、私達の死の問題が解決されたことを私達に教えてくださいました。だから私達は死に向かって生きているのではなく、永遠の命に向かって生きているのです。そしてこの希望こそが、私達がこの地上で信仰の戦いを戦い抜くための有力な武器となり得るとパウロはここで語っているのです。

4.キリストのために苦しむ
(1)この世の価値観とは違った生き方

 「キリストの福音」、このキリストが実現してくださった救いを前提にして私達はこの地上の生活を送ることが望まれています。そしてこの生活こそ私達に新しい希望と力を与えるものなのです。しかし、同時にこの福音こそが私達にキリストのために苦しむことを与えます。なぜならこの福音を信じない世の人々にとって、また福音を拒否し続けるこの世界にとって、キリストの福音にふさわしく生きようとする人々の生き方は全く特殊なものとなるからです。私達にとっては希望に満ちたこの生活が、彼らには愚かな生活と考えられてしまうのです。
 信仰の戦いはそれ故に引き起こされるのです。福音を拒む世界や人々と全く違った人生観、価値観を持って生きることは、日常の生活の中で様々な軋轢を生み出すからです。
 パウロはしかし、その苦しみこそ神様からの恵みであり、神様に愛されている証拠なのだと私達に教えているのです。

(2)約束の言葉に導かれる

 ここで語られる敵対者は具体的に名前の挙げられる特定の人物とは限らないとある説教者は語っています。なぜなら私達の心の内側にもまだ、キリストの福音とは異なる考え方が残されているからです。そのような意味で信仰者の戦いは外との戦いであると共に、自分自身との戦いであると言えるのです。
 私は以前、読んだ天路歴程と言う書物の最後の部分の物語を思い出します。これまで困難な信仰の戦いを戦い抜いた主人公の信仰者は、目の前に横たわる最後の難関である「死の川」を渡り始めます。信仰者はその川の中で何度も足場を見失い、水の中に引き込まれようとします。パニックに陥ってしまった彼は、そこまで彼を導いてくださった神様の恵みをも忘れてしまって思い出すことができません。しかし、彼はこの水の中でかすかに彼に語りかける神様の約束の言葉を頼りに進むのです。そして信仰者は最後の勝利へと導かれるのです。
 神様は私達の信仰生活には困難なことは起こらないとか、いつも平静に生きることができるなどと言うことを約束してはいません。むしろ、どんな苦しみに私達が出会ったとしてもそれに打ち勝つ武器を私達に与えてくださっているのです。それがキリストの福音であり、神様の私達への約束の言葉です。パウロは語ります。「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」(30節)。パウロが示した戦いとは獄中にあっても希望を失うことなく、キリストの勝利を信じ歩み続ける、キリストの福音にふさわしく生きる姿です。パウロはその同じ戦いに参加する資格をキリストの福音を信じる私達は皆与えられていると教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私達のためにキリストによって実現した確かな救いの出来事をパウロはいつも見つめながら生きました。そしてパウロはその確かな恵みを私達も神様から受けることができると教えています。地上の事柄に目を注ぎ、そこによりどころを求めて、そこには私達を命へと導く希望はありません。私達がただひたすらキリストの福音の事実を信じ、その福音に基づいて毎日の生活を送ることができるように、私達を助けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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