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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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へりくだる

(2011.02.27)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1〜11節

1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

1.キリストの謙遜と教会の一致
(1)孤独を生み出す利己心や虚栄心

 今日もパウロが記したフィリピの信徒への手紙から続けて学びます。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をしなさい」(1章27節)とフィリピの信徒たちに向かって語ったパウロは今日の箇所でも彼らに対する具体的なアドバイスを続けて語っています。
 ここでパウロは彼らに対して「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにし(なさい)」と教会のすべての者たちが足並みをそろえて一つとなり、信仰生活を送るようにと勧めています。そしてそのために「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」(3〜4節)と教えているのです。つまり、自分のことばかりを考えていてはだめで、共に生きる者への思いやりの心を持たなければならないとパウロは言っているのです。聖書のこの部分だけを取り出せばこの世界のどんな共同体で適用できる教えが語られているようにも見えます。
 現代社会に生きる私達が抱えている深刻な問題の一つに「孤独」があります。人々を「孤独」とさせている原因は嘗て人と人をつなげていた家族やその他の共同体が破壊されてしまったからだと言われています。しかし、それらの共同体は自然に破壊されていったのではありません。むしろ、私達の「誰にも縛られないで自由に生きたい。自分の思い通りに生きてみたい」と言う思いが、それらの共同体を過去の無用な遺物として葬って行ったことが原因なのです。つまり「自分だけがよければいい」と考える「利己心や虚栄心」が現代を生きる人間に深刻な問題を生み出しているのです。
 今日の箇所でパウロによってこの「利己心や虚栄心」が戒められているところを見ると、人間の抱える問題はそれぞれの時代でその現れ方が違っていても、その根本原因では全く変っていないことように思えるのです。

(2)キリストのへりくだり

 ところでパウロはこのような勧めをフィリピの信徒に語りながら、そのアドバイスに彼らが従うために「キリストを見なさい」とここで勧めています。なぜなら、イエス・キリストの生き方こそその最もすばらしい模範となっているからです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(6〜7節)。

 この6節から11節に記録されている言葉について、聖書学者たちはこれはパウロの書いたオリジナルな文章ではなく、当時のキリスト教会の人々が歌っていた最も古い讃美歌の一節ではないかと考えています。つまりパウロはここでフィリピ教会の人々も知っている讃美歌を引用しながら、キリストの生涯の意味について教えているのです。
 「キリストのへりくだり」と呼ばれる出来事をこの讃美歌は歌っています。神の御子、神と等しい身分である方がその身分を捨てて私達と同じ人間となられたことを通して「キリストのへりくだり」の姿が示されているとこの歌は歌っているのです。しかも、その方は人となられただけではなく、十字架の死をも甘んじて受けることで地上の生涯を全うされたと言うのです。つまりキリストはご自身の持っていたものすべてのものを進んで自ら放棄されたのです。そしてそれは、罪人である私達を救い出すためであったからです。
 この最後のところで「すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて」と言われています。すべてのものを私達のために捨ててくださったイエス・キリストの愛を知るとき、私達はこの方こそ「私達の主である」と告白せざるを得なくされるのです。地上の支配者は力を持って民を支配します。そして自分から何かが奪われてしまうことを恐れて生きています。しかし、私達の主イエスは私達のためにすべてのものを捨て、その愛を全うしてくださったのです。だから私達はこの方を「主」と呼ぶことができるのです。私達は無理強いされてではなく、心からの喜びを持ってこの方を「私の主」と呼ぶことができるようにされたのです。
 この讃美歌はこのような福音の喜びを歌っているものなのです。

2.自分を誇ると悔いること
(1)自分を誇るファリサイ派の人

 ところで「いくらここに善い模範がある」と教えられても、それがイエス・キリストでは私達にとって本当によい例となるのでしょうか。「イエス・キリストが私達の模範であるなどと言うのは無理」そんな思いが私達の心に生まれるかも知れません。確かに私達の模範となる人は私達と同じでなければなりません。その人物が現実の私達とあまりにもかけ離れた存在であったとしたら、私達はその模範に従うことはできないのです。
 このような疑問を抱く私達にイエスは「利己心や虚栄心」がどんなに私達の信仰生活に障害となるかについて次のようなたとえ話を語っています。それはルカによる福音書18章9〜14節に記されている「フィリサイ派の人と徴税人のたとえ」と言うお話です。
 このお話の最初は次のような文章で始まっています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」(9節)。つまりイエスはこの話を「自分の正しさを人々に示したい」と考える「虚栄心」に支配されている人々に向かって語ったと言うのです。ですからこの話に登場するファリサイ派の人は彼ら「虚栄心」に支配された人々の象徴的な存在と言えるのです。そのファリサイ派の人は次のように祈ったと言うのです。

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(11〜12節)。

(2)徴税人の叫び

 彼は自分で誇れるものを沢山持っています。そして彼の関心は終始自分自身にだけ向けられています。そして、彼は自分の視線の中に入った「徴税人」と言う存在さえ、自分の誇りを引き立たせるためにだけ利用しているのです。一方、徴税人はこの虚栄心に支配された人とは対局の存在として登場しています。徴税人は次のように祈りました。

「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)。

 徴税人は神様の前に誇るものは何一つ持ち合わせていませんでした。そればかりか、自分の存在は神様の名誉を傷つけるマイナスの存在でしかないと考えています。だから、彼は神様に赦しを請うことしかできなかったのです。しかし、イエスは神様との深い関係を結ぶことができたのはファリサイ派の人ではなく、この徴税人であったと教えているのです(14節)。なぜでしょうか。虚栄心に支配さえたファリサイ派の人は自分に満足しているため、神様を求めることができないのです。しかし、徴税人は自らに絶望しているからこそ、自分ではなく神様に救いを求め、その神様の赦しを受けることができたのです。
 利己心や虚栄心が私達にもたらす最も大きな災いは、私達と神様との関係を危うくしてしまうことにあります。それにくらべて、自分の弱さや罪を自覚し、その自分には神様の助けが必要であると思える人は、神様を心から求めることができるのです。そのような意味でパウロがここで語る「へりくだる」とはこの徴税人のような心を持ちなさい、そして自分にではなく、神様にのみ希望を置きなさいと言うことを教えているのかもしれません。

3.どうして「へりくだれるのか」
(1)わかっちゃいるけどやめられない

 ところでイエス・キリストを模範とすると言うことが私たちにとって不可能のように考えられるとしても、なぜ、あえてパウロはここでフィリピの教会の信徒たちに「イエス・キリストを見なさい」と語ったのでしょうか。どうしてパウロがここでイエス・キリストの「へりくだり」の姿をわざわざ彼らに示したのでしょうか。
 確かに私達は「利己心や虚栄心」から離れて、「へりくだる」こと、共に生きる相手を思いやって生きることが大切であることをこのパウロの言葉から学ぶことができます。しかし、私達のほとんどはあえてパウロのこの言葉を聞かなくても、これらのことが私達にとってとても大切なことを既に知っているのではないでしょうか。しかし、困ったことに私達はそれらのことを知っていても、それを実行することができないところに大きな悩みを持っているのではないでしょうか。
 心配事を抱えて苦しんでいる人に「心配しちゃだめよ」といくらアドバイスして、その人は心配ごとから解放されることはできません。むしろ、安易なアドバイスや励ましの言葉はその人の心配を更に増やし、またひょっとしたらその人を窮地に追い詰めてしまうかもしれないのです。
 何度も言いますが。「利己心や虚栄心」と言うことは自分のことだけに関心をもつことであると言えます。言葉を更に換えていえば、いつも自分ことばかりが心配で他人のことなど配慮する余裕がないと言う人間の姿もそれに該当するのです。「利己心や虚栄心」と言う言葉では分かりませんが、「自分のことだけが心配」と言い換えればこの問題は私達に身近なものとなってきます。それを考えるとき、私達もまた「利己心や虚栄心」によって支配され、生きている者の一人であると言えるのです。
 「そんな人生ではあってはいけない」と私達は思っています。しかし、やはり私達の関心は自分にいつも向けれ、またそのことのために心配を深めるばかりなのです。「わかっちゃいるけどやめられない」と言わざるを得ないのです。

(2)私達のために命を捨てたキリスト

 パウロが「イエス・キリストを見なさい」とフィリピの信徒の人々に言ったのは、「キリストが模範である」と言うより、私達が自分自身への関心、心配ごとから解放されることができる秘訣を教えるためです。
 なぜなら、イエスは私達を救うために神の御子としての身分を捨てて、私達と同じ人間となられ、私達の罪を贖うために十字架で命を捨てられたのです。イエスがこれらのものを捨てたのは、私達を滅ぼそうとするすべての力、私達を死へと誘おうとするすべての悪から私達を解放されるためであったのです。パウロはそのキリストの御業をここで示すことで、私達の心配ごとのすべてが既にこの方によって解決されていることを私達に教えようとしたのです。
 この箇所のパウロのアドバイスの始めに戻って読み返してみると次のような言葉が記されています。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」(1節)。
 この言葉を読み返してみて、皆さんはこれと似た聖書の言葉を何度も聞いていることに気づくかもしれません。それは日曜日の礼拝の最後に牧師が出席者一同のために献げる祈りの言葉、「祝祷」と呼ばれる聖書の言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(コリントの信徒への手紙二13章13節)。
 聖書の解説書を読むとこの祝祷の言葉が今日の箇所で「キリストによる励まし」、「愛の慰め」と少しずつ変えられているのは、この手紙の受信者たちに特に励ましと愛が必要であるとパウロが考えていたからだと説明されています。彼らには「キリストによる励まし」、「愛の慰め」がどうしても必要だったのです。
 祝祷と言うのは礼拝に参加した人に神様から送られるプレゼントを意味しています。これからそれぞれの場所でイエス・キリストを信じながら信仰生活を送る人々に、神様は「キリストによる恵み、神様の愛、聖霊の豊かな交わり」をプレゼントして助けてくださるのです。
 パウロは今日の箇所で私達が自分にだけ向けられている関心から解放され、目の前に生きる人々と共に生きる道が大切であることを教えています。しかし、それが本当に可能となるのは、この神様の与えてくださるプレゼントを私達が受け取ることができるからです。そして、そのすべての恵みが私達に与えられる根拠となっているのが、イエス・キリストの十字架の救いなのです。私達に与えられる恵みのすべてはイエス・キリストが勝ち取ってくださったものだからです。
 パウロが「それはキリスト・イエスにもみられるものです」。だから「イエス・キリストに目を向けなさい」と私達に教えているのは、キリストがすべてを捨てて、私達のために恵みを与えてくださるからだと言うことを示すためだったのです。
6.どうして「イエス・キリストは主である」とすべての人々が告白することができるのですか。あなたが「イエス・キリストは私の主である」と告白できるようになった理由を思い出してみましょう。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私達のために神の子であるイエスは、その尊い身分を捨てて私達と同じ人間となってくださいました。そればかりではなく、そのイエスは十字架の上で私達のために命をも捨ててくださいました。このイエス・キリストのへりくだりによって、私達を救ってくださった御業を感謝いたします。この豊かな救いを示されながらも、目の前の出来事に心奪われ、自分のための心配に支配されてしまう私達です。どうかキリストによる励まし、愛の慰め、聖霊の豊かな交わりを通して私達を助け導いてください。
主イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン。

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