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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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主にあって喜びなさい

(2011.03.20)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章1〜16節

1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

1.キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない
(1)主において喜びなさい

 今日の聖書箇所の冒頭で「主において喜びなさい」(1節)とパウロはフィリピの教会の人々に勧めています。そしてそのことが「あなたがたにとって安全なことなのです」と語っているのです。大きな災害を経験し、これからどのようになって行くのかさえ分からない私達の日本の国の状況を見るとき、私達が自分の安全をどこに求めるのかはとても重要なことであることが分かります。今私達は今まで頼りとしてきた自分たちの「安全だ」の根拠の多くを失い、不安を覚えながら毎日の生活を送っています。そんな私達にパウロは「主において喜びなさい」と勧めるのです。つまり言葉を換えて言えば「主イエス・キリストにあなたがたの安全の根拠をおきなさい」とパウロは語っているのです。
 今日の部分は今まで学んだフィリピの信徒への手紙の流れと語調が違う内容のお話が展開されています。ここでパウロは「あの犬どもに注意しなさい」(2節)と語りながら、明らかにここでは特定の人々の活動、またその影響を警戒するようにとフィリピの教会の人々に呼びかけているのです。そしてパウロは彼らが警戒しなければならない危険人物の考えや行動がいかに重大な誤りを犯しているかを語り、その上で「主に安全の根拠を置く者」がどのように生きるべきかと言う指針を語っているのです。

(2)ユダヤ主義的クリスチャン

 それではパウロがここで「あの犬どもに注意しなさい」と語っている人々はいったいどのような人々であり、どんな主張をしていたのでしょうか。パウロは彼らについて次のように語っています。

「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(2〜3節)。

 パウロの言葉から分かることは、彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われているところです。ここで取り上げられている「割礼」はユダヤ人が律法の定めに従って守ってきた儀式の一つです。ですからユダヤ人たちは「割礼」を受けている者こそ神に選ばれた選民であり、割礼はその人が神に選ばれた民の一員である証拠だと主張したのです。このような意味で「割礼」はユダヤ人とって自分が神様に救われていると言う根拠となる大切な証しであったと言えるのです。
 パウロの言葉からここで取り上げられている人々のすべてが分かる訳ではありません。しかし、このパウロの言葉から推測できるのは、彼らが「割礼」をはじめてしてユダヤ人が大切にしてきた律法に自分たちも従うことが人が救われる条件であり、またそこに自分たちが確かに救われていると言う安全の根拠を置くことができると言っているのです。しかも、この文章から理解できるのは、ここに語られている人々は律法学者やファリサイ派の人々と言うような明らかにキリスト教会の外側にいて、教会を弾圧しようとした人々ではなく、むしろ同じようにキリストを信じ、教会に集まっている人々の中にこのような主張を語り、フィリピの教会の人々に影響力を広めようとするグループがあったと言うことです。

パウロはガラテヤの信徒への手紙の中ではこれと同じような主張に立つ人々を取り上げ、彼らの主張を非難しています。つまり、生まれて間もないキリスト教会の中に、聖書が語る福音とは違った教えを語る人々が現われ、教会の人々を混乱させていたのです。初代教会を悩ました「異端」と呼ばれるグループや思想は他にもあったのですが、ここで取り上げられている人々はキリストを信じるだけではなく、ユダヤの習慣や伝統を守ることを強調した「ユダヤ主義的クリスチャン」と呼ばれている人々だったと考えることができます。
 明治以降、日本にキリスト教を広め、教会を作るために熱心に働いたのはアメリカからやって来た宣教師たちです。このため日本の教会は彼らアメリカ人宣教師の影響を強く受けて形成されていったと考えることができます。神学生のときにある求道者の家を訪問したとき、その家の方が「クリスチャンの人たちはコーヒーしか飲まないのかと思っていました」と意外なことを語られていたことを思い出します。つまり、教会の人々は皆アメリカ人のような習慣や生活をしていると勘違いしておられたのです。これが誤解でとどまればよいのですが、案外、日本の教会は宣教師が伝えたアメリカ式の教会生活だけがキリスト者の生活スタイルと勘違いしているところがあります。たとえば、私達の守っている礼拝の順序やスタイルは100年前にアメリカの教会でポピュラーであったスタイルがそのまま使われていると言われています。100年前のアメリカ流行を一番聖書的なものだと勘違いしているのです。他にも「禁酒、禁煙」と言った習慣がキリスト教と結びつくのやはりアメリカで生まれた伝統です。それ以前に生まれたヨーロッパ大陸にあるキリスト教会にはそのような習慣がありません。
 ですから真の福音とそれ以外のものを見分けることが困難なのはフィリピやガラテヤの信徒だけに限られた問題ではなく、私達の問題でもあると言えるのです。

2.他の一切を損失とみています
(1)肉を頼みとする

 それではパウロが取り上げている人々の主張はどうして誤りであり、危険であると言えるのでしょうか。パウロはそのことについてひと言、彼らは「肉をたよりとしている」(3節)と語っています。そして彼らは「キリスト・イエスを誇り」としていないと言うのです。言葉を換えれば「キリストに自分の安全の根拠を置くのではなく、自分の肉にその根拠を置こうとしている」とパウロは彼らについて語っていると考えることができます。
 この「肉」と言う言葉はこの直前に「神の霊によって礼拝し」とパウロは自分たちが彼らとは全く違う礼拝を献げていると説明しています。このところから、「肉」とは「神の霊による」ものではなく「自分がもっている」ものに頼っている人たちのことであると考えることができます。
 神様の救いは100%私達ではなく、神様から与えられるものです。だからパウロはその救いを「恵み」と語っているのです。しかし、ここで取り上げられている人々は自分が「割礼」や他の律法を守ることによって救いは自分の上に実現すると考えていますから、その救いはあくまでも自分たちの内側から生まれてくるものと言えます。そういう意味では彼らにとって自分が救われるかどうかは自分の自由に任されているのであり、自分が勝手にそれを使ったり処分できるような「救い」は自分の持ち物の一つになってしまっています。どんなに頼りになるように見えてもそれが自分の持ち物の一つであれば、それらのものは自分が倒れてしまうときに、私達と一緒に倒れてしまうような頼りにならないものではないでしょうか。パウロはだからフィリピの教会の人々に、「このような人々の教えに警戒しなさい」と大変なことになってしまうと教えているのです。

(2)キリストを知ることのすばらしさ

 このようにキリストにではなく肉に頼る生き方はがどんなに空しく、あるいは危険なことであるか、そのことについてパウロは単なる理論ではなく、自分の信仰について基づいてフィリピの教会の人々に教えようとしています。

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(5〜6節)。

 パウロは「生まれて八日目に割礼を受け」、「イスラエルの民に属し」、「ベニヤミン族の出身」、つまり「ヘブライ人の中のヘブライ人で」あると自己紹介しています。彼の出身はここでパウロが指摘しているユダヤ主義的クリスチャンたちさえうらやむようなものであったのです。しかも彼は「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」と語っています。つまり律法を守ることに関しては誰よりも熱心な者であったと言っているのです。しかし、彼はこのことについて次に語ります。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(7〜8節)。

 人々がうらやむような数々の履歴を持っていながらパウロは今はそれらのものを「損失と見なす」と言っています。さらにはそれらは「塵あくた」だと思っていると言っているのです。「塵あくた」つまり、それはゴミと同じだというのです。誰でもゴミと一緒に生活していれば、自分の健康が害されてしまいます。だから、パウロはそれらを失ったことを「むしろ幸いだ」と思っていると言っているのです。
 それではパウロはどうして自分が今まで誇ってきたものを「塵あくた」と考えるようになったのでしょうか。その転換点こそ「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(8節)と語っているのです。ここでパウロが語る「主キリスト・イエスを知る」と言う場合の「知る」と言う言葉は、私達が本やインターネットで「知った」と言うような客観的な知識を言っているのではありません。たとえば私はテレビや新聞の報道を通して日本国の総理大臣が毎日どのような行動し、発言をしているかを知っています。ところがそれは「菅直人」と言う人物の家族や友人が彼と一緒に生活をして知っている知識とは全く違ったものなのです。パウロが語る「知る」と言う意味はこの後者の意味での「知る」と言うことを言っています。パウロは実際にイエス・キリストに出会い、その方の救いをいただき、その方と共に生きて「知った」ことがあります。そこでパウロが知ったイエス・キリストのすばらしさを前に彼はそれ以外の一切のものは損失であると思えるようになったと語っているのです。
 つまり、イエス・キリストによる救いの出来事を知っているなら、私達は自分の救いについて他のことは一切必要ではないと分かるのです。ですからイエスと共に生きる生活のために私達は何も持って行く必要はないのです。なぜならすべてのものはキリストにあって私達に準備されており、またいずれは私達に与えられることが決まっているとパウロここで言っているのです。

3.目標を目指してひたすら走る

 このようにキリストによって救われた私達の信仰生活についてパウロは、次にこのようなことを続けて語っています。

「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13〜14節)。

 パウロは自分の信仰生活について、ゴールに向かって走っている運動競技の選手のように目標を目指してひたすら走り続けていると語っています。この直前に「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10〜11節)とも語られています。
 この言葉からパウロがここで取り上げているユダヤ主義クリスチャンが「復活」について否定的な見解を持っていたと言うことが推測されます。「死者の復活」はないと考える人々の信仰がどのようなものか定かではないのですが、彼らの信仰とはこの世に於ける繁栄を求める「現世利益」中心のものであったと考えることができるのです。
 しかし、パウロはキリストの救いによって私達の人生に実現する祝福はそのような小さなものではないとここで語っているのです。パウロはキリストを知ることによって、そのキリストが私達のために今後どのようなことをしてくるのかをも知り、それを大いに希望したのです。そしてその祝福が実現する日を目指して、その日に向かって歩み続けていると語っているのです。
 私達の人生に今まで起こった出来事、今も私達を取り囲む出来事、私達の心を支配して離れない不安や思い煩いが私達の内には依然として残されています。しかし、だからこそ、私達はキリストの救いが完全に私達の上に実現する日を待ち望み、その日のために歩み続けるのです。私自身が持っているものは決して私達の安全の根拠にはなりません。また私達自身もその安全の根拠を作ることはできないのです。しかし、イエス・キリストにはそれが可能です。彼は私達に完全な救いを与えるために十字架にかかり命を捧げてくださったのです。
 山登りをする人は、山に登ったときの感動が忘れられないようです。だからまた山に登ろうと考え、さらに困難な山に挑戦しようと考えるのです。キリストの恵みを知った者の生き方もそれと同じではないでしょうか。キリストをもっと知りたい、その恵みを十分に味わいたいと考えるのです。そしてその恵みを味わうために私達は「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」ようにとパウロはここで勧めているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 「あなたの信仰は本物ではない」と言われるとその言葉に心を乱されてしまう私達です。しかし、どんなに私達の内側に安心の根拠を見いだそうとしても、それは全く不可能です。私達にキリストを知るすばらしさを聖霊を通して教えてください。確かな救いはあなただけがキリストを通して私達に与えることができるものです。そしてあなたはそれを必ず私達の上に完全に実現してくださいます。どうかキリスト・イエスの日に向かって私達も前に向かってひたすら歩む者としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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