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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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(2011.03.27)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章17〜4章1節

17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

1.私に倣う者となれ
(1)パウロは相当の自信家だったのか

 今日も続けてパウロの記したフィリピの信徒への手紙から学びたいと思います。今日の箇所の冒頭でパウロは「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(17節)とフィリピの信徒に勧めています。このパウロの言葉を読むとき私達は少し抵抗感を感じるかもしれません。なぜなら、私達のほとんどは自分の子供に対してでさえ「わたしに倣う者となりなさい」などと言う言葉を語ることはあまりないからです。こんな言葉はたとえ自分の肉親であっても、ましてや他人に対して言うような自信は自分にはないと私達は考えているからです。そうなるとこの言葉を語るパウロは私達とは違って相当の自信屋であったと推測する人も多いはずです。しかし果たしてパウロは、ここで自分の持っている様々な長所を取り上げて「こんなに優れたものを持っている自分のようになりなさい」と人々に勧めているのでしょうか。それともこの「わたしに倣う者になりなさい」という言葉はもっと別な意味を私達に教えているのでしょうか。今日はそのことを考えながらこの箇所のパウロの言葉を学んでいきたいと思うのです。

(2)未だ未完成なパウロの信仰生活

 パウロはここで自分だけではなく「あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(17節)とも言っています。「わたしたちを模範として」と語っているのですから、この場合はパウロだけではなく他の人もその模範の対象に数えられていることが分かります。それではここで模範とされるパウロを始めとする他の人々が共通に持っていたものは何なのでしょうか。いったい、パウロは私達に自分たちのどんなことを模範にすべきであると教えているのでしょうか。
 まず、「わたしたち」と言う言葉を考える場合に一番にふさわしいと考えられるのはパウロとその仲間たちです。つまりこの手紙にも時々登場しているテモテをなどのパウロの同労者たちであると考えることができるのです。そうなると私達はパウロや彼の同労者たちが熱心にキリストの福音を伝道し、時には自分の生死を顧みずにキリストに仕えた姿を連想するはずです。彼らのように生きなければならない、私達をより熱心な信仰生活に招くためにパウロはこの言葉を語っていると考えることができるのです。つまり、パウロは「あなたたちはキリスト者としてはまだ未熟で不完全だから、より成熟して、完璧な信仰を持っている私達を見習って、熱心に信仰生活に励みなさい」とパウロが教えているように考えるのです。しかし、そう考えるとこの言葉はパウロがここまで語っている言葉と矛盾するような表現になってしまいます。なぜならばパウロはこの部分の直前のところで自分についてこう語っているからです。
 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(12節)と、また彼は次のようにも続けて語っています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13〜14節)。
 この部分を読むとパウロは自らの信仰生活がまだ未完成であって、だからゴールに向かって一生懸命になって走り続けていると言っているように考えられます。つまり、パウロはここで自分を「成熟した、完成した信仰者」とは言っているのではないのです。むしろ「自分はまだまだです」と言っていることになるのです。

(3)自分を完成者と考える者の誤り

 しかし、皆さんはこの直前の箇所でパウロが「わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」(18節)と「完全な者」と言う言葉を語っていたことを思い出して、パウロはやはり自分を完成者と言っているのではないかと考える方もおられるかもしれません。ここのところ実は読むのに注意が必要であると言われています。なぜならパウロがここであえて「完成者」と言う言葉を使ったことには特別な理由があると考えられているからです。聖書学者たちの解説によればパウロがこの3章の部分で取り上げている「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(2節)と言われている人々が自分たちは「完成者」であると主張していたと言うのです。
 前回も学んだようにここでパウロが非難の対象として取り上げている人々は自分が旧約聖書の律法の定めに従って「割礼」を受けていること、またその他の律法を熱心に守っていることを誇りとしていました。そして自分たちが救われる根拠はそれらの自分がなしえたもの、自分が持っているものにあると考えていたのです。そのため彼らは律法を守らない人々に対して、自分たちは「完成者」と誇っていたと言うのです。
 そこでパウロの先程の言葉は彼らの主張をむしろ皮肉って、「本当に完成者であるならば、そんなことで満足するのではなく、もっとキリストを追い求めるはずだ」と言っていると言うのです。つまり、パウロがここで重要視するのは、自分の今もっているものに満足してそこでとどまってしまう信仰生活ではなく、どこまでもキリストを求める信仰生活が大切であると言うことです。そしてパウロはむしろその後者の生き方を選んでおり、この手紙の読者たちにも同じような生き方をするようにと勧めていると言うのです。

2.キリストに敵対する者の関心と末路
(1)キリストの十字架に敵対する者たち

 パウロは先に非難した人たちをここで改めて「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(18節)と呼んでいます。それでは「キリストの十字架に敵対する」とはいったいどういうことなのでしょうか。キリストの十字架は私達の罪を贖い、私達を救いへと導くものです。つまり、この十字架に敵対すると言うことは、この十字架の救いに敵対すること、そして十字架の救いを必要性を認めないことを言っているのです。なぜなら、パウロの反対者たちは割礼を守ることや、律法への従順が自分たちを救いへと導くと考え、主張していたからです。ですから彼らは自分の罪を自分で処理し、神様の前に立つことができると考えていたのです。そのように考える人々がどうして自分にはキリストの十字架が必要であると認めることができるでしょうか。できないはずです。だから彼らにはキリストの十字架の贖いによる罪の赦しは必要なかったのです。
 しかし、彼らが自分たちの持っているものにいくら頼ろうとしても、それらのものには彼らを救う力はありません。なぜなら、私達人間を救うことができるのはキリストの十字架のみだからです。だからパウロは続けてこのように語っているのです。「彼らの行き着くところは滅びです」(19節)。

(2)「悔い改め」の本当の意味

 自分の持っているものに満足してしまい、キリストに救いを求めない者について、以前にも私が説教で何度も紹介した中世の説教家のたとえ話を思い出すといいかもしれません。
 森の中を猫とネズミが歩いています。大きな袋を重そうに背負って歩むネズミの姿を見て、猫は興味深げに尋ねました。「ネズミ君、君の持っているその大きな袋には何が入っているんだい」。するとネズミは得意げにこう説明しまたのです。「猫君、よく聞いてくれた。ぼくの持っているこの袋にはこの世のありとあらゆる知恵が詰まっているのさ。だから何か困ったことがあっても、この袋の中身がいざというときぼくを助けてくれるはずなんだ」。そう語ったネズミは、今度は猫に尋ね返しました。「ところで猫君は何を持っているの。君は何ができるの」。ネズミと違って何も持っていないは猫はしばらく考えたあと、こう答えました。「ぼくは何も持っていない。でも、僕は木に登ることだけは上手だよ」。
 こんな会話を交わす猫とネズミの前に突然、凶暴なオオカミが現われ二匹に襲いかかります。猫はすばやく近くの木に登り、難を逃れます。ところがネズミは持っていた荷物が重いせいか、逃げ遅れてオオカミに捕まってしまうのです。猫は木の上からネズミに叫びます。「ネズミ君、今が君の持っている袋が役に立つときじゃないかい」。するとネズミは「こんな袋よりも、君が持っている知恵の方が大切なことが今わかった」。しかし、今更そのことに気づいてもネズミにとってそれは後の祭りに過ぎません。そして中世の説教家はこのたとえ話を語って、この世のどんな知恵よりも、キリストの十字架に逃れることを知ることが大切であることを力説しました。同じように自分の持っているものを誇り、それに頼ろうとする者の最後は「滅び」でしかないとパウロはここで語っているのです。
 私達は聖書の語る「悔い改め」と言う言葉を誤解しないように注意すべきです。一般的に悔い改めとは「過去の過ちを悔い、心がけや行いを変える」と言う意味で考えられています。「犯罪者が悔い改めて善良な市民になるように努力する」と言うように、そこでの関心はあくまでも自分自身に向けられています。しかし、聖書の語る「悔い改め」はそれとは全く違います。むしろ、この「悔い改め」とは今まで自分自身に向けられていた目を、救い主イエス・キリストに向けることなのです。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(19節)と言うように、ここでパウロが非難している人々は自らを「完成者」と誇りながら、その関心を神様に向けることができない、悔い改めることのできない人々だったのです。

 本当の悔い改めとは私達の目をいつもキリストに向けることを意味しています。自分の不完全さが示されたとき、自分の罪を痛感したとき、私達はすぐにその目を自分から救い主イエス・キリストの方向に変えるのです。そして自分のために救い主イエス・キリストが必要であることを認めるのです。このようにキリストを求め続けることこそが聖書の教える真の「悔い改め」の道なのです。自分に満足する者はキリストを求めることは決してできません。ですから、真の信仰者は自分に満足してはいないとも言えるのです。だからパウロのようにどこまでもキリストを追い求める者とならざるを得ないのです。そしてパウロが「わたしに倣う者となりなさい」と言ったのは、自分に満足することなく、どこまでもキリストを追い求める者となりなさいと言う意味があると言えるのです。

3.私達の本国は天国にある
(1)キリストに捕えられている

 さて、自分に満足することなくどこまでもキリストを追い求める者たち、どうして私達はそのような生き方ができるのでしょうか。私達は前回のパウロの言葉をここでさらに思い出す必要があります。「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節)。本当だったら、「人間なんてこんなものさ」と考えて適当なところで諦めてしまうのが普通の人間の姿です。しかし私達がそのことに諦めることなくどこまでもキリストの救いを求めることができるのは、「キリスト・イエスに捕えられているからです」とパウロは説明しているのです。
 私達は信仰生活の中でたびたび自分の弱さや様々な罪の姿を示されて「どうして自分はこうなのかな」と悩むことがあります。もちろん、それで私達は諦めてしまってはいけません。むしろ、だから私達には救い主イエス・キリストの救いが必要であること、そしてそのキリストの救いは私達を完全に救うことができることを信じる必要があるのです。完全なのは私ではなく、私に対するキリストの救いであることを私達は信じています。私達が聖書の語る福音の真理に「アーメン」と言えるのは、キリストが私達一人一人を既に捕えてくださっているからです。キリストが私達に聖霊を遣わしてくださり、そのキリストへの信仰を与えてくださったからなのです。パウロはそのことを指して「自分は捕えられた」と語ったのです。自分は既にキリストに捕まってしまっているのだと説明しているのです。

(2)私達に責任を果たされるキリスト

 私達はキリストに既に捕えられて、そのキリストによって私達に遣わされた聖霊の働きによって信仰を持つようにされました。このようにキリストだけを望みとする信仰は神様から与えられた賜物なのです。そして、この信仰こそが私達が天国の国民であることの証しとなるのです。パウロは語ります。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(20節)。

 日本で重大な原発事故が起こり、たくさんの外国人が成田空港からそれぞれの国に待避したニュースが私達に伝えられました。このことで「日本はそんなに危ない状態なのだろうか。もし、そうなら私達はいったいどこに逃げればよいのか」と不安を感じている人も多いと言います。このような対策の是非はともかくとして、それぞれの国の政府は海外にいる自国の国民の身の安全を守る責任を持っています。おそらく、日本政府も海外にいる邦人がその国に滞在することが危険であると判断したら、それらの人々に帰国を促すはずです。
 パウロが「わたしたちの本国は天にあります」と語る場合、いまだ地上にとどまり、そこで信仰の戦いを続けている信仰者の安全を守るのは、天国の政府、つまりキリストであると言っていることになります。キリストが私達の身の安全を守り、場合によっては私達が天国に帰ることをキリストは求められるのです。それはキリストが私達一人一人の命を何よりも大切に考えておられるからです。そして、いざとなったらキリストは私達のためにこの地上に来てくださるとも語られているのです。さらにパウロは続けて語ります。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(21節)。

 「卑しい身体から、ご自分の栄光ある身体と同じに」私達を変えてくださることをパウロは待ち望んでいると言うのです。それは「死すべき身体から、キリストと同じ復活の命をもつ身体に変えられる」と言う望みです。私達に対してキリストはそこまで責任を持つと約束してくださっているのです。だからこそ私達の関心は、このキリストにいつも向けられているのです。なぜならこのキリストの救いを知る私達を満足させるものはこの地上には何も見いだすことができないからです。そしてパウロは「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」を知っている自分に倣う者になりなさいと私達に教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
「わたしたちの本国は天にある」と語り、自らの持っているものに満足することなく、あなたの完全な救いを追い求め、そこに希望を置いたパウロのように、私達もキリストを求め続けることができるようにしてください。キリストは私達の救いに責任を持ち、私達を必ずキリストと同じ復活の命に甦らせてくださることに私達の希望を置くことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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