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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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主において常に喜びなさい

(2011.04.03)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章17〜4章1節

2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

1.私達の広い心はどこから生まれるのか
(1)手紙のもつ特殊事情

 今日もパウロが書いたフィリピの信徒への手紙から学びます。この文書はパウロがフィリピの信徒たちに送った手紙です。手紙は一般の論文のような文章と違い、誰にでも読んでもらうために書かれたものではありません。ですから、この文章にはこの手紙を受け取った人たちでしか分からない内容が記されています。今日の部分でもまず最初に「エボディア」と「シンティケ」と言う二人の婦人の名前が登場しています。しかし、この人たちがいったい誰であるかはこの手紙以外の資料が残っていないので、私達はよくわかりません。おもしろいのは3節の「真実の協力者」と言う言葉です。この言葉で呼ばれている人がいったい誰なのか、やはりよく分かりません。おそらくフィリピの教会のために働いていた世話役の一人のような存在であったと想像することができます。ある聖書学者は「真実の協力者」と言う言葉自身が特定の人物を言い表す固有名詞であると考えます。つまり、この言葉のギリシャ語「シュジュコス」と言う言葉自身が人の名前だったのではないかと主張しているのです。これらのことはいくら考えを巡らしても私達には結論のつけられない事柄であると思います。
 また、今日の箇所はこの手紙の文章のつながりから切り離されていて、その上でこの箇所自身も2〜3節、4〜7節、8〜9節と三つの異なった文章が後になって編集されているのではないかと考える人がいます。なぜならこれらの言葉は内容的にも文章のつながりにおいても一つにするには不自然なところがたくさんあると考えられているからです。しかし、このことについては私達が手紙を書くときにもそうですが、著者はおそらく思い出すままに、心に浮かぶままに筆を進めていくのです。ですから順序や内容の違いがあってもおかしくはないとも考えることもできるのです。いずれにしても、私達は今日の聖書の箇所から、私達が教えられる点について少し考えてみたいと思います。

(2)二人の婦人の間にある問題

 まず最初に「エボディア」と「シンティケ」と言うパウロがここで名前を挙げている人物のことです。パウロは彼女たちに「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めています。そしてパウロは「真実の協力者」と呼ばれている人に対してこの「二人の婦人を支えてあげてください」と願っています。ローマの獄中にいるパウロがわざわざその手紙に記すわけですから、この二人の存在はフィリピの教会にとって重要な存在であったことが分かります。そしてこの勧めの内容からこの二人の婦人が何らかの事情で仲違いをし、教会の多くの人々の心を痛めるような出来事になっていたと言うことが想像できます。しかも、そのことが遠く離れたローマにいるパウロにまで伝わり、そのパウロがわざわざ手紙に書かなければならなかったほどにこの問題は深刻であったのです。
 この二人の婦人についてパウロは「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」(3節)と説明しています。つまり、彼女たちは教会のために働いていた伝道者たちと共に力を合わせて伝道のため、教会建設のために重要な働きを担ってきたのです。その二人が今は教会の人々を巻き込むような争いごとを起こしていたと言うことになります。
 パウロはすべての人に対して寛容であるわけではありませんでした。それはこの少し前でパウロが「あの犬どもに注意しなさい」(3章2節)と言う言葉を使って、ある人々を非難していることからも分かります。彼らの教えや行動は、パウロが宣べ伝えた福音、つまり「キリストの十字架」による救いを蔑ろにするようなものでした。ですからパウロは彼らを容赦なく批判したのです。このようにパウロはキリストの福音に対して、そして聖書が教えるところに対しては厳格に対処し、一切の誤りを赦すことができませんでした。
 しかし、この二人の婦人に対しては違います。パウロは彼女たちが自らを反省して、同じ思いをもつようになってほしいと考え、他の人々にもそのために強力してほしいと願っているのです。このことから彼女たちの仲違いの理由は決して、教会を揺るがすような教理上の問題ではなく、むしろ一般的な人間関係にまつわるトラブルであったことが分かります。ですから、彼女たちもパウロの協力者たちと同じように「命の書に名を記された」、天国に国籍をもつ真の信仰者たちであったと言えるのです。
 つまり、真の信仰者であってもこの地上の生活に置いては決して完璧な存在ではなく、トラブルに巻き込まれたり、また自分がそのトラブルを作ることがあると言うことがここからも分かるのです。特に人間関係に置いてよくあるのは、相手を自分の期待を通して見ようとするときに起こる問題です。「どうしてあの人はああなのだろう」と私達が考え、相手を批判しようとします。そのとき私達は必ずその相手に「このような人物」になってほしいと言う期待を持っているのです。そしてその期待と現実の相手の姿にギャップが生じると、それをなかなか受け入れることができないで、相手を批判したりするのです。私達が道を歩いている他人に対しては何の反感も、感情も持たないのに、教会や様々な場所で共に生活する人々に様々な感情を抱くのは、私達の内にその相手に対する期待が形成されているからです。「主において同じ思いを抱け」と言うパウロの勧めは、この彼女たちが教会のメンバーと足並みをそろえて神様に仕えるようにしてほしいと言う願いを語っているのです。

2.神の平和に守られるために
(1)主にあって喜べ

 それでは私達が相手を自分の持っている期待から判断するのではなく、「主において同じ思いを抱く」ためにはどうしたらよいのでしょうか。最も大切なことは共に私達の目を私達の主イエス・キリストに向けることです。なぜなら相手が自分の期待通りに変ることを待っていたら、それは一生不可能であるかもしれないからです。むしろ、私達は共にイエスに目を向け、そのイエスに私達自身を変えていただくことが大切なのです。そして問題の解決はそのイエスの御業によると言えるのです。
 だからパウロはここでこの二人の婦人を始めとする教会の人々に勧めています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」(4〜5節)。パウロは何度も「喜べ」と言っています。なぜなら私達がその目を主イエス・キリストに向けるとき、私達は「常に喜ぶ」べき根拠をそこで見いだすことができるからです。それは私達がすでにイエス・キリストの十字架によって救われていると言う事実です。死と滅びに定められた私達が、キリストによって無償の恵みを持って救われたこと私達はキリストを通して知ることができるのです。そして私達はそのことを喜び、信仰生活を送っているのです。私達が「広い心」を持ち得ないのは、私達自身の内側に解決のできない問題がまだ残っているからです。私達は心配ごとが心を占領されているとき、余裕を持って物事を判断したり、相手のことを考えることができません。しかし、イエスの十字架の救いは私達の抱えている根本的な問題をすでに解決してくださっているのです。ですから私達がこの救いの出来事に目を向け、神様に感謝を献げ、また喜ぶのです。そのとき私達の心はこのキリストによって変えられるのです。

(2)神の平和が守ってくださる

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(6〜7節)。

 仏教の始祖と呼ばれる釈迦は高貴な王族の出身者で、幼少の時から何不自由のない生活を送っていました。しかし、あるとき彼は人間が逃れることのできない定めを持って生きていることを知ります。そこで「生病老死」と言うこの四つの苦しみから逃れる道を求めて釈迦は王宮を離れ修行と旅に出発したのです。命をかけるような激しい修行の末に釈迦が理解したのは、人間を苦しめているのは「生病老死」と言う出来事それ自身ではなく、その出来事を受け止める人間の心にあると言うことでした。釈迦はそのような意味で、周りの出来事を変えるのではなく、人間は自分の持っている心を変えることが大切であると人々に教えたのです。
 確かに釈迦が人間の心の内に問題があると言うところに目を向けたことは正しと思います。なぜならパウロもまた、私達の心の中に平和の根拠があると考えていたからです。しかし、パウロはその平和は決して私達自身が作り出したり、悟り得るものではなく、神様が与えてくださるものであるとここで言っているのです。
 「思い煩い」とは私達が神様の領域を侵して、自分たちにはどうにもならないところまで立ち入って自分で何とかしようとするときに起こる事柄です。ですから、思い煩いを止めるとは、そのことを本来の責任者である神様に委ねることを言っているのです。私達が「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」るとは、まさに私達が私達では解決のつかない出来事を神様に委ねることを意味しています。そしてパウロは「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と教えているのです。
 普通、私達の心の平和は私達が作り、私達が守るべきものと考えられています。だから、その心の平和を壊すような出来事が自分に襲ってくることをいつも私達は恐れて生きているのです。しかし、ここで語られている平和は「神様の平和」です。そしてこの平和は、私達が守るべきものではなく、むしろ私達を守ってくださるものだとパウロは教えているのです。

3.受けたことを実行せよ

 それではこの神の平和が私達の心を守ってくださるように、私達が最も心がけるべきことは何でしょうか。この点についてパウロは次のように語ります。

「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」(8〜9節)。

 8節で語られている事柄はパウロの時代に教会だけではなく、一般の人々も重んじていた徳目の数々が並べられていると言われています。その限りでパウロは一般の人々が大切であると言っているようなものの価値も認めているのです。しかし、パウロがあえてこれらの徳目をここで語っているのは、これらの徳目が本当にその本領を発揮することができるのは、人がキリストを信じ、神の平和によって守られているときだと言っているのです。キリスト教信仰はそのような意味でこれらの徳目に本当の命を吹き入れる役目を果たしていると言えるのです。
 そしてそのためにも、私達はこのキリストへの信仰にとどまり、神の平和によって心が何時も守られている必要があるのです。そしてそのためにパウロは最後に重ねて勧めています。

 「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」(8〜9節)。

 キリスト教信仰は「悟り」を求める信仰ではありません。悟りの信仰は教えられたものを自分なりに考えて自分にぴったりくるものに変えることができます。つまり、自分が満足できればなんでもいいのです。しかし、キリスト教信仰は教えられたものをそのまま受け入れる必要があることをここでパウロは強調しているのです。それは道案内の立て札と同じ役目を持っています。私達は道案内の立て札に忠実に従うならば目的の地に着くことができます。しかし、もしその案内に勝手な解釈をつけたり、その指図に従わないならば決して私達は目的地に着くことができません。私達のプロテスタント教会を生み出した宗教改革者たちは新しいキリスト教を作ったのではありません。むしろ聖書に基づいて、イエス・キリストそしてパウロや使徒たちが教えた教えを再発見して、そこに戻ることで教会を再生させたのです。
 そのような意味で私達が神の平和に守られるために、私達はいつも聖書の教えを正しく受け入れ、それを信じることが大切であることをパウロは強調しているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私達が一つ思いとなり神様と教会に仕えることがえできるようにしてください。そのために自分や他人に向けられている私達の目をあなたに向けることができるようにしてください。あなたの救いに感謝し、それを喜ぶことができるように聖霊を持って私達を導いてください。そして私達の心に神の平和を与えてくださり、私達をあらゆる問題から守ってください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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