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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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わたしを強めてくれるお方

(2011.04.10)

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章10〜23節

10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
16 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
17 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
18 わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
20 わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
21 キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
22 すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

1.パウロは何を喜んでいるのか
(1)パウロを思うフィリピ教会の人々

 パウロの記したフィリピの信徒への手紙の最後の部分を今日は学びたいと思います。私達はこの手紙を書いたパウロと、受け取り人であるフィリピの教会の人々の間にあった特別な関係について既に学んでいます。使徒言行録によればパウロはこのフィリピ教会の設立に深く関わり、フィリピの教会を支えた中心的なメンバーたちとも知り合いであったようです(使徒16章参照)。
 先にエパフロディトと言う人物について語られている部分(2章19〜30節)でも触れたことですが、フィリピの教会の人々は獄中に捕えられたパウロを心配して、たくさんの贈り物を彼の元に届けました。そしてその贈り物を託されてパウロの元にやって来たのがエパフロディトと言う人だったのです。パウロはこの手紙を書き終えようとするときに、もう一度このフィリピの教会人々の行為について触れています。

「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」(10節)。

 フィリピの教会の人々のパウロに対する思いは突然生まれたものではありませんでした。おそらく彼らとパウロが出会ったときからその思いは始まっていたのだと思います。今、そのフィリピの教会の人々の気持ちがこの贈り物としてはっきりと表わされたことにパウロは関心を持っています。つまり、パウロがここで取り上げているのは彼の元にエパフロディトの手を通して届けられた贈り物の品々がどのようにパウロに役に立ったのかと言うことではなく、その贈り物をパウロの元に届けようとしたフィリピの教会の人々の思い、その心遣いにありました。そしてその彼らの贈り物に示された心がいったいどのような価値を持っているのかについてパウロはここで語ろうとしているのです。

(2)主にあって喜ぶ

「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(11節)。

 もしこの手紙がフィリピの教会の人々からの贈り物に対する感謝を示すために書かれていたとしたら、パウロの文章は不自然であり、また礼儀を欠いたものと言えるかもしれません。なぜなら、彼はフィリピの教会の人々からの贈り物について触れながら、その後でその贈り物がどうしても自分に必要であったわけではないと語っているからです。パウロはむしろそんなものがなくても自分は十分生きることができるとまで言っているのです。皆さんが誰かから送られてきた礼状にもし、こんな文章が書かれていたとしたらどんな気持ちになるでしょうか。もしかした、自分の示した好意は無駄であったのではないかとまで考えてしまうかもしれません。しかし、パウロのこの言葉はそこで犯しやすい私たちの過ちを指摘しています。つまり、私たちのなした行為の本当の価値を決めるのは誰かという問題です。

私達は自分の行為が正しかったか、そうでないか、またその行為に意味があったかないかをどこで判断しているのでしょうか。おそらく、その一番の判断基準はその行為の対象者、つまり相手がどう反応したかで判断していると思われます。確かに、相手が自分のした行為にどう答えるかを見ながら、行動することは大切かもしれません。相手の反応を無視して、自分の思いだけを一方的に優先すれば独断的で、自己中心的な行動を繰り返すことにもなりかねないからです。しかし、私達が自分の行動の正しさやその価値を判断するときにもっと大切なことがあることをパウロはここでフィリピの教会の人々に教えようとしているのです。
 先程のパウロの10節の言葉に「わたしは主において非常に喜びました」と言う言葉が記されています。ここでパウロは単に「わたしは非常に喜びました」とは書かずに、わざわざ「主において」と言う言葉を書き足しているのです。いったいこの言葉にはどんな意味があるのでしょうか。パウロは彼に贈り物を贈ってくれたフィリピの教会の人々の思いを何よりも喜んでいたに違いありません。しかし、彼らのこの行為を本当に価値あるものとするのは、パウロの感謝のことばではありません。
 パウロはここでもっと素晴らしい方が彼らの行為を喜んでいると言っているのです。つまり何よりも彼らの心を喜んでいるのは主イエス・キリストなのです。だからパウロは「主にあって」と言う言葉を付け加えたのです。この言葉を言い換えれば、「わたしは主に代わって喜んでいる」とか、「主と共に喜んでいる」と読むことができるのです。つまり、パウロが彼らに教えようとしたのは主イエス・キリストが彼らを評価してくださっていると言うことだったのです。
 人の思いを私達の判断の中心に据えるとき、私達の思いは乱れます。なぜならば私達の行動に対して下される人々の評価は、その人によって異なり、また時間の経過と共に変るからです。パウロはだからこそ、フィリピの人々が人の評価ではなく主の評価に目を向けることを促しているのです。

2.パウロは何を習い覚えたのか
(1)あらゆる環境に対処する秘訣

 ところで、ここでパウロは自分が習い覚えた「秘訣」について語っています。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(11〜12節)。

 自分が置かれている境遇を嘆き、「だから自分は不幸なのだ」と考える人はたくさんいます。たとえば「自分の生まれた家が貧しかった」とか、「生まれつき病弱であった」とかと言う理由があげられます。また自分が人生のある時期に招いてしまった失敗をあげて、「あのとき自分が犯した取り返しのつかない失敗のせいでこうなってしまった」と考える人もいるのです。しかし論理療法と言う心理療法の立場から言えば、それらの条件は私達が不幸であるという理由にはならないと教えられます。もし、そうなら同じ条件を持っている人はすべて同じように不幸になっているはずなのに、必ずしも現実はそうではないからです。家が貧しかったからこそ、がんばって沢山の富を築きあげた人はいます。病弱であってもすばらしい事業を行うことできた人もいます。大きな失敗を犯しても、むしろその失敗から学んで有意義な人生を送ることができた人はたくさんいるのです。つまり、人を不幸にするのはその人を取り巻く環境でなはないのです。問題はその環境が自分を不幸にさせていると考える自分にあるのです。ですから私たちが不幸から解放されるには環境を変えるのではなく、自分自身を変えることが大切だと論理療法は教えています。
 実はこの論理療法のルーツはとても古く、古代にも遡り、ギリシャの有力な哲学者のグループであるストア派の考え方に基づいていると言われています。そしてパウロが語っている「わたしは、自分の置かれた境遇に満足すること」と言うテーマはこのストア派が最も大切にしたテーマでもあったのです。聖書学者たちはパウロがここで当時の人々がよく知っていたストア派の言葉を引用していると考えています。なぜならばストア派の人々はパウロが語るように「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣」(12節)を追い求め、その生き方を自分のものとしようと努力していたからです。

(2)その秘訣は神様から授かったもの

 しかし、パウロとストア派の哲学者との主張は同じように見えても、その結論で大きく違っていることが分かります。なぜならストア派の哲学者たちはその秘訣を自分の力で得たいと考えていたのに対して、パウロはここでそれを「授かった」と言っているからです。つまりパウロはその秘訣を神様からいただいたと言っているのです。だからパウロは次のように語ります。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)と語るのです。パウロは「わたしを強めてくださる方」、つまり神様によってそれが可能になっていると言っているのです。逆に言えば、パウロは「神様がいなかったら私は何もできない、自分に襲いかかるさまざまな試練に押しつぶされてしまうだろ」と考えているのです。パウロは決して自分の力では幸せにはなれないと言っているのです。

 つまり、パウロが得た秘訣とは、神様を信じること、神様に従って生きること、神様と共に生きる信仰生活のことを言っているのです。そしてその信仰生活を通して彼はどんな環境からも自由に生きることができる秘訣を授かったと言うのです。

 私達を取り巻く環境は常に激しく変化しています。そこには私達の生活を確かにさせる根拠を求めようとしても不可能なのです。しかし、パウロはその環境から私達を自由にしてくださり、環境の変化の中でも私たちを生活を確かにしてくださるのは主イエス・キリストであることをに教えているのです。なぜならイエス・キリストは死を打ち破って復活された方だからです。「死」は私達を不幸にすると考えることができる最大の要因ではないでしょうか。しかし、キリストはその死からさえ私達を自由にしてくださっているのです。だからキリストの復活は私たちが自由な存在にされたことを表わす徴です。パウロはこのキリストによって獄中にあっても自由に生きることができたのです。

3.パウロに取っての豊かさとは何か

 最後に私達はこの箇所のパウロの言葉から「豊かさ」と言うことをもう一度考えて見たいのです。パウロは次のように言っています。「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」(18節)。フィリピの教会の人々からパウロに届けられた贈り物が何であったのかよくは分かりません。確かにその贈り物によってパウロの当面の不足が補われたのかもしれません。しかし、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」と言うほどのものを彼がフィリピの教会の人々から受け取っていたとは考えることができません。つまり、パウロを「豊かに」しているものは贈り物自身ではないと言うことが分かります。
 このパウロの言葉と同時に興味深いのはパウロがフィリピの教会の人々に何を期待しているかと言うこと語っているところです。パウロは次のように言っています。「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」(17節)。パウロはフィリピの教会の人々の「益となる豊かな実」を望んでいると言っています。この言葉はいったい何を意味しているのでしょうか。先程も触れたように、パウロはフィリピの人々が主イエスのために何をしているかと言うことに関心を持っていました。ですから、パウロに献げられた贈り物は主イエスに向けられた熱意の現れであること評価しているのです。「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)と言うパウロの言葉は彼らの贈り物が神様に対してどのような意味があったかを教えているのです。
 ですから、ここで言われている彼らの「益となる豊かな実」とは、主イエスに向けられた熱意であると考えることができるのです。つまり彼らが贈り物を通して表わした主イエスに対する熱意が彼らを豊かにするとパウロは語っているのです。そして同じようにパウロは自分を豊かにするものも主イエスへの熱意であると語っていると考えることできるでしょう。
 それではどうして私達の主イエスへの熱意が私達を豊かにするのでしょうか。なぜなら私たちを本当に豊かにしてくれる方は主イエスだからです。主は私たちのために十字架にかかり、私たちのためにすべての祝福を勝ち取ってくださったのです。そして、私たちがその心をイエスに向ければ向けるほど、その祝福は聖霊を通して私たちに豊かに与えられるのです。イエスは私たちに言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)。パウロの人生の秘訣は神の国と神の国を実現してくださった主イエスを求めることにありました。だから彼はこの主によって豊かにされていると言っているのです。
 私たちが求めるべき「豊かさ」とはこのキリストが与えてくださる祝福なのです。なぜなら、この豊かさこそが私たちの人生を意味あるものとするからです。私たちが「本当に生きていてよかった」と言えるのは、この豊かさがキリストから与えられるからなのです。


【祈祷】
天の父なる神様。
 すべてのものが変化し、大きく変っていくこの世の中で変ることのないあなたの人生の指針を置くことができることを感謝します。あなたは復活の勝利を通して、私たちを支配していたすべての呪いから私たちを解放してくださいました。そして、私たちの人生を本当に意味あるものとするために豊かな祝福を何時も聖霊を通して与えてくださいます。どうか私たちにもあらゆる状況に対してそれに処する秘訣を与えてください。特に困難や試練の中にある者にそれに打ち勝って生きる力と自由を与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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