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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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秘められた計画

(2011.05.08)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙1章3〜14節

3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

1.神を讃美するパウロ
(1)讃美と祝福

 パウロが記したエフェソの信徒への手紙を続けて学びます。普通の手紙であるならば、簡単な挨拶の後、すぐに伝えたい用件に入るのかも知れません。しかし、このエフェソの信徒への手紙では挨拶の後に、神様を讃美する言葉が続いています。このような構成から考えてみると、このエフェソの信徒への手紙は最初からキリスト教会の礼拝に用いられるために書かれた文書であると主張する人たちの説明を裏付けているのかもしれません。なぜなら、私たちの礼拝でもまず神様を讃美するために讃美歌を一同で歌うからです。
 挨拶の文章を終えたパウロは3節から次のような言葉を続けて語っています。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」。
 パウロはこの3節からはじめて、神をほめたたえるための文章を14節まで続けて記しています。ところでここで興味深いのはパウロが記している、神を「ほめたたえる」と言う言葉と、同じ節の後半に登場する「祝福で満たしてくださいます」と言うところでの「祝福する」と言う言葉はギリシャ語では全く同じ単語が用いられていると言うことです。ですからこの3節の最初の言葉は「神が祝福されますように」と訳すことも可能なのです。つまり同じ言葉を神様に向けては「ほめたたえる」と訳し、人間に対しては「祝福する」と言う言葉を使って聖書翻訳家が訳してわけていると言うことなのです。確かに人間が神様を「祝福する」と言うのはおかしな感じがしますし、後半の部分も神様が人間を「ほめたたえる」と訳しても不自然な表現になってしまいます。
 しかし、この言葉は私たちと神様との関係を明確に表わしていると考えてよいのかも知れません。なぜなら、神様は私たちを「天のあらゆる祝福で満たしてくださる」ことを通して、私たちが神様を「ほめたたえる」ことができるようにしてくださっているからです。今日はこの讃美と祝福の関係をパウロの言葉を通して考えて見たいと思うのです。

(2)讃美と感謝の違い

 神様を讃美することは私たちの人生に取って重要なことです。なぜなら本来、神様が造られたすべての被造物は、それを造ってくださった神様のすばらしさを表わす目的を持っているからです。ですから、人間はこの神様のすばらしさをほめたたえる使命をその人生に負っていると言えるのです。

 アメリカ人とつきあったり、英語などを少し勉強すると、「ほめる」と言うことについて欧米人の考え方と私たち日本人の考え方にはだいぶ大きな違いがあることに気づかされます。アメリカ人は親しい家族の間でも、お互いをほめ合うことがよくしています。しかし、私たちは「そんなことをするのは恥ずかしい」と言う価値観を持って育てられていますから、なかなか家族をほめることができません。
 その対象は家族だけに限られる問題ではありません。以前、私があるカウンセリングのワークショップに出席したときに、まず最初にグループ分けされ、メンバー同士でお互いの長所を見つけ出してほめ合うと言う訓練を受けたことがあります。人の欠点だったらすぐに、いくつでも見つけ出すことができるのに、相手の長所を見つけ出してほめるというのはかなり難しいところがあります。だからこそ、そのためには特別な訓練が要求されるのかもしれません。特に欧米人にくらべて日本人にはこの訓練が必要です。私はもしかしたら「ほめる」と言う言葉の背後にはキリスト教信仰の影響があるのかもしれないと思うことがあります。
 日本にも数え切れないくらい宗教があり、それだけたくさんの神々が奉られています。しかし、日本では「感謝」と言う言葉は重要視されますが、「讃美」と言う言葉はあまり用いられないのではないでしょうか。それではこの讃美と感謝はどのように違うのでしょうか。ひと言で言って「感謝」は人の経験に基づいて生まれるものであるのに対して、讃美はその人間の経験を超えたものを取り扱っていると言うところです。「神様、今日も私たちを守ってくださってありがとうございます」と言う場合には、自分が様々な危険から守られた言う経験が元になって感謝の言葉が生まれます。このような感謝を私たちは祈りの中でたびたび献げることがあります。しかし、讃美はこの人間の経験を超えているものなのです。それをよく表わしているのがここに記されたパウロの讃美の言葉の内容です。パウロはこの讃美の中で「天地創造の前に」(4節)と語っています。天地創造の前の出来事を私たちは経験することはできません。パウロは私たち人間の経験の世界を超えた深淵で広大な神の御業をほめたたえているのです。そしてこれこそ聖書が教える本当の「讃美」であると言えるのです。

2.宗教改革者カルヴァンの讃美歌観

 ところで私たちの教会では多少不評なところがありますが、私たちの改革派教会では宗教改革者カルヴァンの作った「詩編歌」と言うものを大切にしています。この詩編歌が不評な理由は近代音楽とは違った旋律で綴られていて、私たちには歌いづらいと言うところがあるからです。ただ、この詩編歌が作られた当時のヨーロッパ社会では、カトリック教会の礼拝で用いられている「グレゴリオ聖歌」のようにほとんどプロの讃美集団しか歌えないような讃美歌が礼拝で用いられていたのです。それに対して詩編歌の旋律は礼拝に出席する人が特別な音楽的知識がなくても、誰でも歌えるようにと単純な旋律で作られているのです。
 さらにカルヴァンは詩編の言葉を持って神様を讃美することが重要であると考えています。その理由は人間の経験や考えを元に作られた詞で作られた讃美歌を礼拝の場で歌うことはふさわしくないと彼は考えたからです。確かに信仰者の貴重な信仰経験を元にして生みだされた美しい讃美歌がたくさん存在するのも事実です。しかし、人間の経験は誰もが共通ではないので、その讃美の詞を納得できない人も現われる可能性があります。また心から讃美を献げることができないと言う人が礼拝の場所で現われる可能性があるのです。そこでカルヴァンは聖書に記された讃美の言葉である詩編を歌うことが礼拝で皆が歌うものとして望ましいと考えたのです。なぜなら、詩編の言葉は私たちの信仰経験を超えた神様の真実を語っているからです。
 エフェソの信徒への手紙の冒頭にパウロが記す讃美の言葉は、まさに私たちの信仰経験を超えた、神様の真実の出来事を語り讃美しているのです。そしていここに私たちの神様に献げる讃美の模範が記されているのです。

3.私たちはどのようにして神を讃美できるのか
(1)神の啓示に従う

 それではパウロは人間の経験の世界を超えた讃美の内容をどこから手に入れることができたのでしょうか。

「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました」(8〜9節)。

 パウロは神様が「すべての知恵と理解とを与えて」くださったと語っています。これは福音と福音を理解する力、いずれも聖霊を通して私たちに与えられるものです。そして私たちはこの聖霊の働きによって、神様に信仰を持って応答するように導かれているのです。パウロはこの神様の恵みの御業を通して、私たちの経験を遙かに超えた「秘められた計画」、神様の救いの御業が私たちに明らかになったと言っているのです。このように私たちが神様を讃美することができるのは、聖霊によってこの神の秘められた計画が私たちに明らかにされたからなのです。そしてその神様の秘められた計画を知らされた者は神を讃美せざるを得なくなるのです。
 ところである説教者は私たちが神様を讃美するためには第一に神様の救いの御業のすばらしさを理解する必要があり、第二にその救いの御業のすばらしさを理解するためには、私たちがどんなに悲惨な状態からこの神様によって救われたかを理解しなければならないと言っています。
 大地震によって引き起こされた原子力発電所の事故によって、日本はまだ危機の中に置かれています。原子力発電所の安全神話が崩れたとマスコミは騒ぎ立てています。そして私たちが原子力発電所の抱えている危険性を痛感したのは、日本政府や東電が世界のあらゆる科学技術の力を借りてもなかなか解決することができないことを知ったからです。そんな事情を知ったことで私たちははじめて問題の深刻さを理解することができたのです。人間の力では簡単に解決できない問題、それを解決できるとしたら、それは素晴らしいものに違いありません。
 パウロはこの讃美の中で私たちの罪を解決するために、神様が与えてくださった素晴らしい解決策を次のように語っています。

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(7節)。

 私たちの罪を解決することができる手段はこの地上にはなにもありません。だから神様は私たちのために御子イエス・キリストを天より遣わしてくださり、その十字架の犠牲を通して、私たちの罪を贖ってくださったのです。私たちの神様が与えてくださったイエス・キリストの救いによって罪を赦されたのです。
パウロはこのイエス・キリストの重要性について次のようにも言及しています。

 「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(10節)。

 私たちはこのイエス・キリストの御業によって罪赦され、神様と和解し、神様と共に生きるものとされました。そしてこのキリストを必要としない者は世界には誰一人存在しないのです。カルヴァンはこの部分の注解で「天上のものも」と言う言葉を取り上げて、「罪を犯すことのない天使にもキリストが必要なのだろうか」と言う問いを立てた上、「天使を含めたすべての被造物が神と共に生きるためにはこのキリストの存在は不可欠である」と語っています。すべての被造物はキリストなしに生きることができません。なぜなら神様の創造の御業の中心には最初からこのキリストの存在があるからです。

(2)救いの器として神の栄光を褒め称える

 かつて旧約聖書の聖徒たちは神殿で動物犠牲を献げることによって、そこで流された動物犠牲の血を通して自分たちの罪が赦されると考えました。そして、それは神様が聖書の中で命じた事柄でした。この動物犠牲、イエス・キリストの犠牲を指し示す「ひな形」であったと言えます。だから旧約の聖徒たちは動物犠牲を献げる信仰を通して、キリストへの信仰を表わし、その信仰によって救われたのです。つまり、彼らもまたキリストによって一つに集められる者たちに含まれているのです。
 そして私たちも今や福音によって「世の罪を取り除く神の子羊」であるイエス・キリストが示されました。そのイエスを信じる信仰を通して、このイエスが十字架の犠牲を通して勝ち取ってくださった罪の赦しを受け、同じように一つに集められる者の一部とされているのです。そして神様のすばらしさはこの御子を通してすべての者を救い出す御業に豊かに示されたのです。
 テレビのショッピング番組で「強力洗剤」のデモンストレーションをすることがあります。そんなにときは必ず「これほど汚れているようなものは見たことがない」と言わんばかりの品物が使われます。「どんなものでもこの汚れは完全におとすことができない」。実演販売人はその事実を強調しながら、新商品を取り出して、あっという間にその品物をきれいにして見せるのです。そして「まるで新品のようでしょう」と言って、どんなにその商品が素晴らしいかを見ている人にアピールします。
 まさに神様のすばらしさは、罪に汚れた私たちを、しみも汚れもない神の子としてくださる救いの御業を通して明らかにされたのです。そして私たちはこの神様の救いの対象として、その神様の救いのすばらしさを讃美することができる者とされているのです。
 神が私たちを祝福することによって、私たちは神様をほめたたえることができるとパウロが言ったのは、キリストにあって実現したこのような救いの関係が私たちに明らかにされたからなのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 天地が造られる前よりキリストにあって立てられたあなたの計画のすばらしさを讃美します。すべての者はイエス・キリストの存在を通して神様に造られた本来の価値を表わすことができます。私たちも御子の血の贖いによって罪赦され、神の子とされることにより、あなたのほめたたえることができる者とされたことを感謝します。どうか私たちに福音の知識とそれを悟る力を聖霊によって与えてくださり、あなたをますます褒め称えて生きる事ができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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