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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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神から与えられている希望

(2011.05.22)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙1章15〜19節

15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

1.パウロの信仰と祈り

 エフェソの信徒への手紙を今日も続けて学びます。パウロはこの手紙の1章の14節までたくさんの言葉を使って神様への賛美を記したことについて今で学びました。この15節からパウロは続けて神様への祈り、特にこの手紙を受け取るべき人たちに関係するパウロの祈りの言葉を記しています。
 この部分について語るある説教者は直前の賛美の部分とこのパウロの祈りの部分の関係に触れて、両者は密接な関係にあると語っています。その関係を表わすためにパウロは「こういうわけで」と言う言葉を使ってこの祈りの文章を始めていると説明しているのです。神様を賛美する言葉、それはパウロが神様をどのように信じているかと言う信仰告白を語る言葉だと言うことができます。そして人はどのような神を信じているかによって、その祈りの内容も変わってくると言えるのです。
 当教会で洗礼を希望されたり、転会を希望される方、つまりこの教会への入会希望者のために私は一緒に、洗礼式や転会式で宣誓する誓約文の学びをすることにしています。そのとき使うテキストの中に日本人の信仰に触れている文章があります。ご存じのように日本の古い伝統では神様は「八百万の神」と呼ばれ数限りない神々が存在していると考えられています。そしてそれぞれの神様はそれぞれの専門領域を担当しています。ですから人間は自分のかなえたい願望を実現する神様を選んで、その神様にお願いすると言うことになります。「商売の神様」、「受験の神様」、「病気を治す神様」など様々な神々が私たちの周りには奉られていて、拝まれています。高齢化時代になって、老後のことに不安を感じる人のためには「ぽっくり地蔵」というのがあって人気を集めていると聞いています。
 これらの神々を信じることで人の上に起こる弊害は二つあると言えます。一つはバランスの問題です。信じている神々によってバランスの欠いた人格が生まれる可能性があるのです。「頭がよくても、愛がない」などと言うのはその典型です。そして第二に、これらの信仰は元々人間の願望実現が目的となっていて、その願望自身を正しい所に導く神は求められていません。それ故、それを信じる人の人格は変わることは決してありません。
 聖書が教える神は唯一真の神です。そしてこの神様はご自分の力や能力を絶妙のバランスでお使いになることができます。ですからその神様を信じる私たちの信仰も自分たちに与えられた能力をバランスよく使うことができるように導かれます。しかも、その際私たちの持っている願望がもし間違いであるなら神様はその私たちの思いをただすこともされ、また私たち自身の人格を正しいものと変えてくださるのです。パウロの祈りはまさにこのような神様への信仰に基づく祈りであると考えることができるのです。

2.パウロの感謝

 このような意味でパウロの祈りを私たちが学ぶなら、パウロが神様をどのような方として信じているかが分かります。そこでまず学ぶことができるのはパウロが献げる神様への感謝の祈りです。

 「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています」(15〜16節)。

 パウロはこの手紙を受け取るべき人々についての何らかの情報を「聞き」、それに基づいて祈りを献げています。おそらく彼らとパウロは面識がなく、パウロは誰か第三者を通してその情報を手にいれていたと言うことが推測できます。彼らが「主イエスを信じていること」、「聖なる者たちを愛していること」をパウロは誰かから聞いたというのです。ここで記されている「聖なる者」とは、いわゆる「聖人」と呼ばれるような特別な人のことを取り上げているのではありません。これはキリストによって「聖なる者」とされた信仰者を指す言葉です。つまり彼らの教会が愛の共同体となって、互いに愛し合っていると言うことを言っているのです。教会は愛の共同体です。しかしそれは、単なる地上の友愛団体とは性格を全く異にしています。なぜなら信仰者の間に生まれる愛は主イエスへの信仰がなければ成り立たない愛だからです。つまり、その愛は人間的な能力やそれに基づく努力によって生み出されるのではないのです。信じる私たちに神様が聖霊を通して与えてくださる賜物なのです。それは神様が与えてくださるものですから、パウロのこの祈りの中で神様への感謝を献げているのです。パウロは祈りを献げるとごとに信仰や愛を彼らに豊かに与えてくださっている神様に、絶えず感謝しているとここで言っているのです。
 もし私たちが自分自身の才能や力を頼りにしているならどうなるでしょうか。私たちはうまくいっているときは傲慢になり、また心配すれば落ち込んでしまうはずです。そしてそのとき私たちの関心は自分にばかり向けられているのです。そこには神様への感謝を献げる余裕は少しもありません。ですから私たちの祈りにおいて神様への感謝が欠如しているとするなら、私たちの目が神様に向けられているのではなく、自分自身に向けられていると言うことが分かるのです。ですから感謝ができない人は、その関心の目を自分自身から、神様に向きを変える必要があります。私たちの目がこの神様に向かうとき、私たちの祈りも感謝であふれるはずなのです。

3.心の目を開いてください

 次にパウロはこの手紙の読者たちのために大切なことを神様に願い求めています。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」(17〜18節)。

 パウロはここでこの手紙の読者たちのために「神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」と神様に願っています。キリストへの信仰を告白し、また愛の共同体として自分たちの教会を建てあげていると評価されている人々に対して、パウロはさらに神様を深く知り、心の目を開いてくださるようにと願っているのです。
 先日、祈祷会でマルコによる福音書の10章48節から52節に記された盲人バルティマイの物語を学びました。バルティマイはイエスに「何をしてほしいのか」と聞かれたときに、すぐに「目が見えるようになりたい」と願い出ています。この物語の直前にはイエスの弟子のヤコブとヨハネが登場する違う物語が記されています。そこでイエスはこの二人にも同じように「何をしてほしいのか」と尋ねています。するとこの二人は「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願ったと言うのです(10章35〜45節)。このテキストの著者である説教者は「この二人の弟子は本当は見えていないのに、それが分からない」と言っています。だからヤコブとヨハネの二人は自分が少しでも偉くなりたいと言う願望をイエスに語ったと言うのです。
 一方、バルティマイは少なくとも自分が見えないことを知っています。そしてその目をイエスが癒すことがおできなることを信じていたのです。バルティマイはこの後、イエスに目を開けていただくと言う奇跡を体験します。そしてこの出来事のわずか数日後にバルティマイはその開かれた目を通して、十字架につけられるイエスの姿を目撃することになりました。そしてその開かれた目を通して神様がどんなに自分を愛してくださっているかを見ることできたのです。
 パウロはこの手紙の読者たちに、また私たちに対して「あなたたちはもっと神様を知る必要がある、心の目を開いていただく必要がある」と言っているのです。それはどうしてでしょうか。「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」なるためだと言うのです(18節)。
 私たちはイエス・キリストによってすでに神様の招きを受けています。またそのイエスによって神様の相続人とされているのです。しかし、私たちはまだその招きによってどんな素晴らしい希望が与えられているか、またどれほど豊かな栄光を受け継ぐものになっているかを十分に知らないのです。ですからバルティマイがイエスに目を開いていただいてイエスの十字架を見て、その十字架を通して示された神様の愛を知ったように、私たちもまた私たちに与えられているもののすばらしさを知るために神様を知り、その心の目を開いていただく必要があるのです。

4.大いなる神とその力

 パウロが次に語るのは神様ご自身の絶大な力についてです。

「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(19節)。

 私たちが普段ささげる神様に献げる祈りが「食事の感謝」、「病気からの回復」を祈る内容だけになってしまうなら、もしかしたら私たちは神様をいつのまにか「小さく」しているのかもしれません。もちろん、私たちの身近な問題について神様に祈ることは大切であると思います。しかし、パウロはここで私たちに対する神様の力は絶大であると言っているのです。
 私が神学生だったころ、インドネシアの宣教を終えて日本に帰ってきた入船尊先生からいろいろと指導を受けたことがあります。先生は説教においても、また祈りにおいても「大いなる」と言う言葉を口癖のように使われました。たぶん「大いなる」と言う言葉がついている先生の著作もあったと思います。先生がこの「大いなる」と言う言葉を好んで使ったのは、インドネシアでの宣教師体験が元になっているようでした。ご存じのようにインドネシアはイスラム教の強い国です。そこで働かれた先生はインドネシア人の宗教性の中から神様を大なるものとして畏れ敬う姿を学んだのかもしれません。ただ、入船先生はインドネシア人がイエス・キリストを受け入れないことで、その信仰が運命論になってしまうことについても批判していたように思えます。
 天地万物を造り、それをすべ治めておられる全能の神が、その計画に基づいて私たちを救いへと招き入れてくださったのです。その大きな計画の内に準備されている祝福は私たちの思いを超えて絶大なものなのです。その神様の力を私たちはさらに知り、またその神様に信頼して生きられるなら、どんなにすばらしい人生を送ることができるでしょうか。世界がたとえどのように変わろうとしても、神様は私たちを守り、また私たちのためにこの世界を変えてくださるのです。しかも、その神様との関係を私たちは今、イエス・キリストを通してはっきりと確信することができるのです。ですから、私たちもこの正しい信仰の上に、自分の祈りの生活を整え、大いなる神に大いなる希望を抱いて生きたいと考えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 天地万物を造られたあなたが、イエス・キリストによって実現してくださった救いの計画を心より褒め称えます。未だ、その救いに示されたあなたの恵みを十分には知り得ない私たちです。どうか私たちに聖霊を遣わして、その恵みのすばらしさを覚えさせてください。何よりもそのために私たちがあなた自身をさらにもっと深く知れるように、私たちの心の目を開いてください。そしてその開かれた目を通して、イエス・キリストを通して示されたあなたの私たちに対する豊かな愛を見つめることができるようにしてください。大いなるあなたの御力を知ることにより、私たちの信仰生活を変えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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