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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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教会はキリストの体

(2011.05.29)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙1章15〜19節

20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、
21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

1.神を知ることと私たちの幸福

 エフェソの信徒への手紙から今日もご一緒に学びたいと思います。パウロは自らの献げる祈りの中で、この手紙の読者たちの心の目が神様によって開かれて、その神様の力の大きさを悟ることができるようにと祈っています。彼らは確かに伝道者の語る福音に導かれて、また聖書の言葉を通して神様を信じる者とされていました。しかし、パウロはその彼らがさらに神様を知ることができるようにとここで祈っているのです。私たちが信仰生活の中で神様を知ることがどんなに大切であるかがこの祈りを通しても分かるのです。
 私たちが毎週の礼拝で使用しているジュネーブ教会信仰問答の第一問は「人生の目的は何ですか」と言う問いに答えて「神を知ることであります」と言っています。この問答に従えば、「神様のことはもう十分知っているのでこれ以上知る必要がない」と言う人がいれば、その人の人生はすでに終わってしまっていることになるのです。もちろん、ここで語られている「知る」と言う言葉は単なる知的なことがらにとどまることなく、神様との全人格的な交わりを通して知り得る「知識」を語っています。
 「そんなことを言っても自分は教会に勉強しに来ているのではなくて、幸せになりたいから来ているのです」と言う人がいるかもしれません。しかし、先ほどのジュネーブ教会信仰問答の第三問は「では人間の最上の幸福は何ですか」と問いながら、その答えに「それも同じであります」と言っています。「同じであります」とは第一問の答え「神を知る」と同じであると言うことです。つまり、信仰問答は神様を知れば、私たちは幸福になれるし、知らなければ「野獣のように不幸である」と教えているのです。
 神様を知ることが私たちを幸福にし、私たちの不幸な人生を変えることができるのです。パウロもまた、この手紙の受取人たちが本当の幸せを手に入れることができるようにと言う思いを持ってこう祈ったのかも知れません。

2.神の力はどこで認めるか
(1)キリストを通して表わされた神様の力

 それでは私たちの心の目が開かれて、神の力の大きさを知ることが私たちの幸福とどのように関係してくるのでしょうか。
 パウロはここで神の力の大きさを表わす二つの出来事を示しています。一つは神様が「キリストを死者の中から復活させた」こと、そしてもう一つはそのキリストを「天においてご自分の右の座に着かせた」ことであると語ります。確かにキリストの復活は神様が行われた奇跡の中で最大なものと言えます。ただパウロがここであげている二つの出来事がどうして重要なのかと言えば、この二つともキリストが行われた救いの御業と深い関わりにあるからです。
 キリストが死者の中から復活された出来事は、神様が私たちを罪から救い出し、その死の鎖から解き放ってくださったことを表わしています。また、キリストが父なる神の右の座に着いたと言う出来事は、実際にキリストがどこかのいすに腰掛けたと言うことを言っているのではありません。古来より王のような権力者の右の座に座る者は、その王の権威を委ねられたことを表わしました。つまり、神様の右にキリストが着いたと言うことは、神様の権威が彼に委ねられたという意味なのです。天上にあるもの、地上にあるもの一切の存在とその力を支配する権威をキリストは父なる髪から受けられたのです。もはやキリストに刃向かう力はありません。つまりその救いが完全に成就したと言うことを表わしているのです。このように神様の力の大きさは、キリストを通して実現した救いの出来事によって明らかになったとパウロは言うのです。そして、私たちはこの出来事を通して神様の力を知る必要があると言うのです。

(2)私たちの弱さと神様の強さ

 確かに私たちはこのようなことは聖書からすでに教えられて十分に分かっているはずと考えているかもしれません。しかし、本当に私たちはこのことを「知って」いると言えるのでしょうか。カルヴァンはこの聖書箇所を解説しながら、大変に興味深いことを語っています。彼はここでコリント第二の12章9節のパウロの言葉を引用しています。「神の力は私たちの弱さを通して完成される」(新共同訳では「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」)。カルヴァンは神の力は私たちのうちにまだ隠されていると語ります。そしてだからキリストを通してこの神の力の大きさを知る必要があると言うのです。そうすれば、この地上で自分の弱さを嘆いている私たちがこのキリストによって慰め励まされ、強められることができると解説しているのです。
 カルヴァンはここで人間の弱さを否定したり、無理に強がることをしません。むしろ、その弱さと真剣に向き合っています。その上で、その私たちの弱さの上に現れた神の力のすばらしさを語っているのです。確かに死の力は私たちを弱らせ、絶望へと導きます。しかし、キリストは死者の中からの復活によってその死に勝利されたのです。この世の様々な権力や、もろもろの力の前に私たちは、自分が全く無力であることを痛感します。しかし、キリストはこのすべての権力を支配することのできる座に着かれ、私たちの救いのためその力を行使されるのです。

3.キリストの権威とそれ以外の権威との関係

 パウロはキリストの権威について「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(21節)。
 キリストとそのほかの諸々の権威や力との関係をここでパウロは語っています。この言葉はキリストの権威を説明することと同時に、そのほかの権威や力と私たちとの関係を教えるものでもあるのです。地上の諸々の権威の上にキリストの権威があるのです。そしてその権威は今もまた後の世まで変わることがないのです。そうだとすれば私たちが大切にすべきことはこのキリストとの関係であることが分かります。私たちがこのキリストの権威に従う限り、そのその他の力は私たちを滅ぼすことができないのです。
 もちろん、その他の力が私たちにとって無意味なものであるとは言えません。すべての権威はその上に立つキリストの権威を認めることによって意味あるものとなるからです。その反対に、このキリストの権威を否定するこの世の権威に対して私たちは戦う必要があるのです。

4.現された神様の力を信じて生きる
(1)私たちの疑問

 パウロはさらに「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」(22節)。

 すべての上に立つ権威を持つキリストを神様は私たちの教会の頭としてくださったのです。パウロは、私たちにとってこのことは驚くべきことであると言うのです。そしてその本当の意味を知る者は幸福になれると言うのです。もちろんここでもこの真理を単に知的に理解するだけでは意味がありません。このことを信じ、私たちがこの事実の上に立って積極的に生きていくことが求められるのです。
 先日、「今回の地震を経験して牧師として何を考えているか」と言うテーマで文章を書くようにと依頼されました。私はそのためどんなことを書けばよいのか、今思案中なのです。おそらく、皆さんもこの出来事を通していろいろなことを考えておられると思います。その中でも信仰者として私たちが考えざるを得ないことは、神様とこの出来事との関係です。天地万物を造られ、それをすべ治めておられる神様はなぜこのような出来事を許されたのでしょうか。パウロが語るように諸々の権威の上にキリストの権威があるとするならば、キリストの救いを実現させる神様の摂理の中でこの出来事はどのような意味を持っているのでしょうか。そんな問いが私たちの脳裏に浮かびます。しかし、その答えを私たちは容易に得ることはできません。

(2)答えを求められているのは私たち

 このことを考えるときに、私はフランクルと言うユダヤ人の心理学者が語った言葉を思い出しました。彼は第二次大戦下で起こった大きな悲劇を体験し、自らも過酷な強制収容所の生活を体験しました。フランクルはこれらの悲惨な出来事にどんな意味があるのかと問い続ける人々にこう語りかけます。「むしろ問われているのは私たち自身であり、答えは私たち自身が持っている」と。つまり、これらの出来事に意味があるかないかは、私たちの答えによって変わってくると言うのです。人は悲劇に対して自分は犠牲者であると考え、神を呪い、またその出来事を起こした当事者たちを恨みながら生きることも可能です。しかし、その生き方は本当に私たちの人生に意味を与えるものにはなりえないと彼は教えるのです。そしてフランクルは私たちがたとえどんな状況に置かれたとしても、その状況に答える自由を持っているし、その答えによって自分の人生に豊かな意味を与えることが可能であると言うのです。
 パウロはこの箇所で私たちを驚かす出来事を確かに語っているのです。キリストが死者の中から復活されたこと、また神の右の座に着かれたこと、この出来事を通して神の力の大きさが表わされました。これらの出来事は決して私たちを苦しめる悲惨な出来事ではありません。むしろ神様が私たちに与えてくださった祝福を述べています。しかし、この出来事を本当に祝福とするために私たちの答えが求められているのです。私たちはこのキリストによって示された出来事を無視して生きることも可能です。また頭だけの知識として処理することも可能でしょう。しかし、私たちの人生はそれでは依然として弱さの中に、死の呪いの中に置かれていることになるのです。その反対に私たちがこの出来事に信仰を持って応答するなら、私たちの人生は大きく変わるのです。

(2)教会はキリストの体

 このことは私たちの教会生活にも言えることです。私たちの教会生活が単なる人間の煩わしい関係の一つに過ぎないと考えるなら、その人にとってその教会生活は何の意味も与えない、苦痛に満ちた出来事になります。しかし。パウロはここで私たちの教会がどんなにすばらしいところであるかを語っています。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(23節)。

「教会はキリストの体である」と語ります。キリストが私たちをこの教会に集めてくださっています。神の力の大きさをこの教会を通して地上に現そうとしてくださるのです。ですから私たちがこのキリストと教会の関係を信じて生きるならば、私たちの教会生活は本当に豊かなものとされるのです。
 このように私たちが神様の力の大きさをさらに知っていくならば、私たち自身が意味ある人生を送ることができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 かつて私たちはこの世界に何の希望を持つことができず。自分の死を待つだけの者たちでした。しかし、今や私たちはキリストを通してこの世界と私たちの人生に示された神様の力の大きさを知ることができた幸いに感謝いたします。どうか私たちがキリストを通して示されたあなたの力の大きさをさらに知り、また信じることで、その恵みをたたえることができるようにしてください。
主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

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