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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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恵みによる救い

(2011.06.05)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙1章15〜19節

1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです。
6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

1.神に恵みによる救い
(1)堅固な土台

 エフェソの信徒への手紙を続けて学んでいます。今日の聖書箇所でこの手紙の著者パウロは私たちが神様に救われたと言うことがどのようなことなのか、特にその救いは神様の憐れみと愛の御業の結果であることを語っています。エフェソの手紙を読み進めて行くとこの後には具体的な私たちキリスト者の信仰生活の指針のようなものが記されています。英国の有名な説教家であったD・M・ロイドジョンズが語ったエフェソの信徒への手紙の説教集が日本語でも部分的に翻訳されています。それぞれ別々に出版された本の題名は「キリスト者の一致」、「結婚することの意味」、「働くことの意味」、「子供をしつけることの意味」、「御霊に満たされることの意味」と様々ですが、これらの題名からもこのエフェソの信徒への手紙が私たちの信仰生活に様々な指針を提供していることが分かります。
 ただこのような指針を具体的に論じる前に重要な事柄があります。それは私たちの信仰生活の基礎が何の上になりっているのかと言う問題です。イエスが語られた有名なたとえ話の一つにも「家と土台」(マタイ7章24〜27節)の関係を語るものがあります。どんなに立派な家でも砂の上に家を建てるようなことをしたら自然災害ですぐその家は壊れてしまいます。しかし、家の土台をしっかりした岩の上に建てるなら、その家は堅固なものとなるのです。私たちの信仰生活の土台もこのようなことが言えるのです。砂地のような頼りのならないものを土台にしている信仰生活は、外見は立派そうに見えても試練や問題が襲って来たときに容易に崩壊してしまいます。しかし、その土台を揺るがないものの上に置くなら、その信仰生活も確かなものとなるのです。
 パウロは今日の部分で私たちが受けた救いが神の恵みによるものであることを力説しています。それは聖書に親しんでいる私たちが何度も耳にする言葉です。しかし、それが何度も語られる理由はこれらの事柄が私たちの信仰生活の土台とならなければ、私たちの信仰生活が崩壊する危機を招くことになるからです。私たちは今日のパウロの言葉からもう一度、私たちの信仰生活の基礎がどのように堅固で揺るぎのないものであるのかを確認したいと思います。

(2)「恵み」の意味すること

 今日のお話の結論部分から考えて見ましょう。パウロは5節で「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と語っています。「恵み」とは神様からの一方的な好意によって私たちに与えられるものです。言葉を換えれば私たちの側にはそれを要求する権利は全くないのですが、神様はそれにも関わらずご自身の意志によって私たちを救いを与えてくださったと言うことです。ですからパウロはこの点に関して「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって」(4節)と語っています。私たちは私たちの救いにおいて神様の憐れみの対象であり、愛の対象でしかない、つまり全く受け身の身分でしかないのです。
 この「恵み」は物乞いが「憐れな私にお恵みを」と施しを求めるときの「恵み」と全く同じ意味の言葉です。ですから宗教改革者のマルチン・ルターは「私たちは神様の前では物乞いに過ぎない」と語り、「私たちの信仰は物乞いが差し出す手のようなものだ」とたとえています。それではどうして私たちの救いは神様の恵みによるしかないのでしょうか。
 第一に私たちの側に救いを買い取る力がないからです。恵みとは「無償」であると言う性格も持っています。もしこれが有償になって、私たちの側に神様から何らかの代価が求められたとしたら、私たちにはそれを払う力があるのでしょうか。「それは不可能である」と言うことを明らかにするためにパウロは今日の部分の1〜3節で「わたしたちは以前は死んでいた」と語っているのです。
 第二は私たちの救いの確かな保証を得るためにです。どんなに確かだと考えられているものでも人間の作ったものには限界があります。「想定外」と言う言葉が最近よく使われています。人間の力は想定外の出来事にもろくも崩れることを私たちは実感しています。しかし、神様の力には、そして神様の御業には想定外と言う事柄は一切ないのです。なぜならすべての事柄はこの神様の御心の内に起こり得るものだからです。私たちの救いが、神様の恵み、つまり神様の一方的な御業によるものと言うことは、私たちの救いがどんなことが起こっても確かなものであることを保証しているのです。
 それでは次にこの二つの点について、今日の聖書の言葉を元にしてさらに考えて見たいと思います。

2.死んでいた私たち
(1)過ちと罪のために

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)。

 パウロは私たちが神様に救われる以前、「死にそうになっていた」とか、「死の危険に会っていた」と言っているのではありません。私たちは以前完全に「死んでいた」と語っているのです。「死んでいる」者は何もすることもできないばかりか、自分が死んでいると言う事実さえ知ることができません。パウロがここで語る「死」とは私たちが霊的に死んでいたこと、つまり、自分を救う力を持たず、救われるべき必要も感じていなかったと言うことを説明しているのです。
 それではどうして私たちは死んでいたのでしょうかパウロは「自分の過ちと罪のため」と言っています。この言葉は私たちが神様から離れ、神様に背を向けた生き方をしていることを示す言葉です。「過ち」は「道を逸れる」という意味を持ち、「罪」は「的外れ」と言う意味を持っています。どちらも一生懸命に人生を励んでも、目的とは全く違ったところに言ってしまうこと、無駄な努力となってしまうことを言っています。
 私たちの命は神様と共に生きるために神様によって造られたものです。ですから、神様を離れてはその命は本来の目的を達成することができません。またその命に将来が無いのです。どんなにきれいな花でも切り花になってしまったら、それ以上成長することはできません。花が成長するのは地面に根をはって、そこから栄養をもらっているためです。神様から離れた私たちは何の力も受けることなく、枯れてしまうばかりのもの、つまりすでに死んでいたのです。

(2)重症ではなく、すでに死んでいた

「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(3節)。

 パウロは私たちが救われる前には私たちは自由な存在ではなかったと言うことをここで語っています。もし私たちに私たちの人生を決めることができる自由があるなら、「よし心を入れ替えて、これからがんばろう」と考え、行動することができるかもしれません。しかし、私たちにはそのような自由が無かったと言うのです。なぜなら私たちは「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」に従って生きなければならなかったからです。私たちの罪の問題は私たちの思いを超えて遙かに困難で深刻であったことをパウロは語ります。それ故私たちの罪の問題は私たち個人の決断や行動ではどうにもならないのです。
 もちろんこの言葉は私たちの罪の責任を誰かに転嫁して責任逃れをするために言っているものではありません。なぜなら、私たちの罪は私たちの同意のもとに、自らの人生の上で繰り返し行われているからです。「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」とパウロは語ります。この場合の「肉の欲望」とか「肉や心の欲するまま」とは、神様を勘定に入れない自己中心の生き方を語る言葉です。ですから、どんなに素晴らしい生き方をしているにしても、その生き方の中心は自分自身にあり、いずれにしても「道を逸れ」、「的を外れた」生き方をしているのです。そのために私たちは神の怒りを受けるべき者たちだったのです。
 このように私たちは瀕死の重症で病床に横たわっていたのではなく、すでに墓穴の中に葬られていた存在であったとパウロは語るのです。それ故、私たちの内には救いに対して何の力も、何の可能性もなかったと言っているのです。

3.キリストは私たちの救いの保証
(1)人生の転換点はどこにある

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(4〜6節)。

 パウロはここで「しかし」と言う言葉を使って「以前はそうであったが、今はそうではない」と続けて語ります。私たちは「神の怒りを受けるべき者」の立場から変わって、神の祝福を受ける者となったのです。人生が180度転換して見事に変わったのです。皆さんの中でも自分の人生の「転換点」と考える思い出を持っておられる方がおられるでしょう。「あのときあの出来事が起こったから」、「あの人に出会ったから」そんな数々の思い出が人生の転換点と呼べるものにはあるかもしれません。しかし、不思議なことに聖書が語る私たちの人生の転換点は私たちの思い出とは全く違った場所で起こっています。神様の私たちに対する憐れみによって、そしてその愛によって私たちの人生は180度変えられたとパウロは語っているからです。
 それではその神様の憐れみと愛は具体的にどのようなところで表わされたのでしょうか。キリスト・イエスを通してです。神様は救い主イエスを私たちのために遣わし、私たちを救う御業を彼に委ねてくださいました。そのイエスの御業を通して私たちの人生の立場は180度転換したのです。今まで「道を逸れ」、「的を外れて」生きていた私たちが、その本当の目的に向かって歩み始めたのです。私たちの人生が神様に向けて歩み始めたのです。ですから私たちの信仰生活の目的は神様にあるのです。そして私たちが信仰生活を送ることができるのは、このキリストの救いの御業を通して示された神様の憐れみと愛によるものなのです。
 私たちの思いや決断は時には変わります。しかし、この神様の憐れみと愛は変わることがありません。ですからキリストによって実現した救いの御業も変わることがないのです。だからこそ、私たちの信仰生活は可能となったのです。この神様の憐れみと愛、恵みの上に建てられていない信仰生活は危険です。想定外の出来事が起これば、どうなってしまうか分からないからです。しかし、神の恵みは私たちの信仰生活を堅固に支えて動かされることがないようにするのです。

(2)キリストによって救われる

 パウロはここで私たちの救いについて「キリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(5〜6節)。

 パウロはこのように神様が私たちをキリストと共に生かし、キリスト共に復活させ、キリストと共に王座に着かせてくださったと説明しています。キリストなしに私たちの救いは成り立ちません。そしてそれ以上に信仰によって今やキリストと命の関係を持つことができるようになった私たちは、キリストに与えられた祝福をすべて自分に与えられたものと言うことができると言っているのです。
 古代教会においてアウグスチヌスと言う神学者とペラギウスと言う神学者との間に有名な論争が起こりました。ペラギウスは、「私たちはキリストの模範に従うことによって救われる」と主張しました。彼の見解によれば、人間は堕落した環境の中で育ってその影響を受けているが、「死んでは」おらず、救いに至る能力を持っていると考えます。だからキリストの正しい模範に従えば誰でも救いを受けることができると言うのです。
 一方アウグスチヌスは、「私たちは完全に死んでいて、自分で自分を救う力を持っていない」だから、恵みによって、キリストによってのみ救われるしかないと主張したのです。教会はこのアウグスチヌスの説こそ聖書の語る正しい教えと受け止めました。宗教改革者であったルターもカルヴァンもこのアウグスチヌスの教えを尊重し、またその土台にある聖書の言葉を大切にしました。私たちの救いはキリストの御業の上に建てられています。キリストの模範に従う私たちの業がその土台となっていると言うなら、それは砂の上に建てられた家と同じになってしまうのです。
 私たちは自分の信仰の確かさをどこに求めようとしているのか、もう一度反省してみる必要があります。その確かさをキリストの上に求めるものの信仰生活はどんなに大きな家を建てても壊れる心配はありません。しかし、基礎工事を怠って、土台をないがしろにするなら、大変な欠陥住宅ができてしまいます。ですから私たちの信仰生活が欠陥住宅とならないために、この恵みによる救いを信じ、忘れることがないようにしたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
 今日も私たちにキリストによって実現した救いのすばらしさを覚える機会を与えてくださりありがとうございます。あなたの前に死んでいた私たちは自らを救うことができない無能力で、将来の希望さえ持ち得ないものたちでした。しかし、あなたはこの私たちにキリストを遣わして命を与え、神と共に歩む人生へと導いてくださいました。私たちを一方的な恵みによって救ってくださったあなたを感謝して生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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