Message 2011 Message 2009 Message 2008 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
善い業を行う

(2011.06.12)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章7〜10節

7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

1.私たちが救われた目的
(1)救いの根拠から目的へ

 エフェソの信徒への手紙の中で著者パウロは「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」(5節)と語り、私たちの救いの根拠は神様の憐れみと愛から出ていることを教えています。このようにパウロはこの手紙の中で私たちの信仰生活の土台となる救いが確かな岩の上に建てられていることを確認しています。
 先の大地震でも液状化や地滑りなどが起こり大きな被害を受けた場所がたくさんあります。そのほとんどが人間によって埋め立てられたり、盛り土をされた人工的な地形の場所であったことが分かっています。私たちの救いの土台にも人間の人工的な何かが加わっているなら、それは確かなものとはなり得ず、肝心なときに私たちを支えることができないのです。だからこそ、パウロは私たちの救いは神様の恵みによるものであり、それは100パーセント神様の御業によっていることを強調しているのです。
 そして私たちはこの恵みによってイエス・キリスト共に生き、彼と共に復活にあずかり、さ
に共に天の王座に着くことが許されていると言うのです。パウロは私たちにこのような祝福を説明しながら、今日の部分では神様は何のためにこの救いを私たちに与えられたのか、神様は私たち救うことによって何を実現しようとしているのかについて語り始めます。つまり、神様の救いは神様の計画の最終ゴールではなく、神様が立てられた何らかの目的を実現するために私たちに与えられたものであると言うのです。

(2)手段が目的になってしまう誤り

 もともと、私は人前でしゃべるのがとても苦手ですぐに緊張してしまいます。神学生時代、次の日に説教の奉仕があるとその緊張でほとんど前の晩は眠れなくなってしまい、そんな自分と神様の救いの関係を眠れない寝床の中でずっと考え続けたことがよくあります。もちろん、日曜日の朝は何ものどに通ることができず、ふらふらになって教会に行き、説教壇に立ちました。これでは十分によい奉仕をすることができないと思い、緊張を解く方法がどこかにないかと必死になって心理学の本を読んだり、催眠術の本まで開いて見ることがありました。しかし、そのような抵抗をすればするほど、自分の関心は緊張を解くことができない自分に集中していきます。そしてますます緊張がひどくなってしまうのです。
 「説教奉仕をしようとすると緊張でおなかが痛くなる」。そんなことをあるときクリスチャンの仲間に打ち明けたところ、「神様のために奉仕するのだから、心は平安と喜びに満たされるはず。それはおかしい」と言われて、ますます形見の狭い思いをしたことがあります。
 そんなときに、私はふと気づかされたことがあります。そもそも自分は何をするためにここにいるのだろうか。そして説教者、牧師としての自分の人生の目的は何かと考えて見たのです。私に与えられた目的は間違いなく聖書に記された神様の言葉をたくさんの人に伝えることです。緊張を解いたり、人前であがらないことは神様の言葉を伝えるために役に立つかも知れません。しかしそれは決して私の人生のゴールではないのです。それなのに、いつの間にか自分は自分の緊張と戦うことが、それを解決することが人生の目標となっていたのです。そのことに気づいたときに、私は緊張してもしなくても、とにかく与えられた聖書の言葉を皆さんに語ることが私に与えられた使命であると言うことが分かってきました。すると不思議なことに、私は前よりも人前で緊張することなくお話することができるようになったのです。決して緊張や恐れがなくなったわけではありません。しかし、それがあってもなくても自分がしなければならないことをすることが大切だと言うことに気づかされたのです。いつの間にか目的を達成するための手段でしかなかったものが、目的にすり替わってしまうことがあります。そんなことが私たちの人生にはよく起こるのです。すると、私たちの人生は混乱していくことになります。ですから大切なのは目的をはっきりと理解し、その目的のために今の自分に何ができるかを考えることではないしょうか。

 私たちの救いにも同様の混乱が生まれることがあります。問題の解決や、平安な心の状態を私たちは信仰生活の上に望みます。しかし実はそれらは私たちの救いの目的では決してありません。ですから私たちがもし、それらのことが実現しないことで悩んでいるとしたら、私たちは信仰生活の本当の目的を見失っていることになり、結果的には問題の解決も、心の平安も得ることができなくなってしまうのです。

(3)二つの目的

 それではパウロは私たちが神様の恵みによって救われた、その目的は何であるのかを説明しています。まずパウロはこう語ります。

「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです」(7節)。

 まず私たちがキリストによって救われたのは、「神様の限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現すため」であったとパウロはここで言っています。つまり、私たちが救われることによって、神様の限りない豊かな恵みがあらわにされ、その素晴らしさが分かると言うのです。私たちが救われたのは、神様の素晴らしさが私たちを通して現されるためであったと言うのです。
 この救いの目的についてパウロはさらに10節でこう語っています。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」。
 「善い業を行って歩む」こと、それもまた私たちが神様によって救われた目的であるとパウロはここで語っています。このように神様の素晴らしさを示し、善い業を行うために私たちはキリストによって救われたのです。そうなると私たちの信仰生活において大切なことが何であるかも分かってくるはずです。

2.神様を誇れ
(1)救いは神様からの贈り物

 さてパウロはこの救いの目的をはっきりさせるために、再び私たちが救われたのは神様の恵みによると言うことを確認し始めます。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(8節)。

 パウロはここで再び恵みによる救いを語りながら、ここではそれを「神の賜物」と言い換えています。「神の賜物」、それは神様からのプレゼントであると言うことです。それは神様が私たちに何らかの代金を求めたり、交換条件をつけて与えてくださったものではないのです。救いはまったくのただであり、神様からの贈り物なのです。だからパウロはここで「自らの力」によるのではないとも語っています。
 私たちは信仰生活の中で自分の能力や力の無さを気にすることがよくあるのではないでしょうか。しかし、このパウロの言葉から言えば、私たちが信仰生活で考えるべきことは私たちの力の無さや、弱さではないと言うことになります。むしろ、私たちには自分を救う力も全くありません。だから神様は私たちのために救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。私たちが信仰生活で考えるべきことは、このイエス・キリストです。キリストが私たちのために何をしてくださり、また何をしてくださろうとしているのかを聖書と通して知り、信じることが私たちにとって大切であると言えるのです。

(2)自分を誇ろうではなく、神様を誇る

「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(9節)。

 イエスの語られた「ファリサイ派の人と徴税人」と言う有名なたとえの中で、ファリサイ派の人は神殿でこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカによる福音書18章11〜12節)。彼の祈りは自分をアピールすること、自分を誇ることに終始しています。なぜなら、彼はこれらのことができるのは神様の恵みではなく、自分の努力の結果だと考えていたからです。もし、それを彼が神様の恵みと感じているなら、それができない徴税人を責めるようなことはありませんでした。むしろ、それができない人にも神様の恵みが同じように豊かに与えられるようにととりなしの祈りを捧げたはずです。ファリサイ派の人にそれができなかったのは自分も行いを誇ることに彼の関心があったからです。これでは信仰生活は神様の恵みを示すのではなく、自分の誇りを明らかにするためのものになってしまいます。
 パウロはコリントの信徒への手紙一で私たちの信仰生活を通して明らかになるものが何かを次のように語っています。彼は自分たちが無学な者であり、無力な者であり、世の無に等しい者、身分の卑しい者であると言うことこそ大切であると語った上で、「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(1章29節)と言い、「「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです」(同31節)と結論づけています。
 このように私たちの信仰生活の目的は自分を誇ることでなく、私たちをイエス・キリストによって救ってくださった神様を誇るためにあるのです。

3.神に再創造された私たち
(1)救いは再創造の御業

 さらに続けてパウロは私たちが救われたことについて次のように語ります。

 「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(10節)。

 ここで私たちの上に実現した救いの出来事が、神による創造の出来事にたとえられています。「わたしたちは神に造られたもの」とパウロは言っています。旧約聖書の最初の書、創世記には神様が天地万物を造られたことが記されています。そして私たち人間の創造はその創造の業の最後に記されています。つまり、すべてのものは人間の創造を備えるために神によって造られたと言うことが分かるのです。私たち人間は偶然にこの地上に生まれて来たのではありません。神様が目的を持って私たち人間を創造されたのです。ですから人間は神様が造られたすべてのものを用いて神様の栄光を現すために存在してるのです。
 しかし、パウロがここで語る創造はこの創世記に記されている最初の創造の出来事ではありません。「しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」と語られているように、これは私たちがイエス・キリストによって救われた出来事を語っています。ですから私たちがキリストによって救われた出来事は「神の再創造」の御業と言ってもよいのです。もちろん、この再創造の御業は最初の神様の創造の御業と無関係なものではありません。むしろ、私たちの救いの出来事は神様の創造の御業の完成のためにあったのです。私たちはキリストに救われてこそ、始めて「善い業」を行うことができ、また神様の栄光を現して生きることができるようになるからです。

(2)すべてはキリストの御業

 宗教改革者カルヴァンはこの「善き業を行う」と言うところでも、私たちとキリストとの関係が大切であることを語っています。中には「神様は私たちをキリストによって救ってくださったから、その後は各自自分の力でがんばるようにと言っている」と主張する人がいます。しかしカルヴァンはその主張に真っ向から反論を加えています。私たちの人生ははじめからイエス・キリストとの深い関わりの中で与えられたものなのです。つまり、私たちの「善き業」の根拠もこのイエス・キリストにあると言うのです。イエス・キリストが私たちを通して御業を実現してくださるからこそ、私たちの善き業は成り立つのです。このような事実があるからこそ私たちは善き業に生きることになっても、自分の力を誇ることなく、主の誇ることができるのです。
 かつてエルサレム神殿の「美しの門」と言うところで物乞いをしていた足の不自由な男性がいました。この男の姿を見たイエスの弟子ペトロは彼に次のように話しかけます。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3章6節)。するとこの男性は躍り上がって立ち、歩き出したと聖書は伝えています(同8節)。キリストがペトロたちを通してそこで驚くべき御業を現してくださったからです。
 私たちもペトロと同じように金や銀を持っているわけではありません。驚くべき力を持っている訳でもありません。しかし、確かに言えることはキリストが今も生きて、私たちを通して「善き業」を実現してくださると言うことです。私たちが救われたのは、このキリストの善き業が私たちの信仰生活を通して実現されるためなのです。そうだとすれば、私たちは自分の力の無さを嘆くのではなく、このキリストがどんな形で私たちの人生に働いてくださるかを期待し、喜びを持って待ち望むことができるのではないでしょうか。そのためにも、私たちは私たちが救われた目的をいつもはっきりと覚えておく必要があるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 あなたは私たちをキリストによって救い出すことで、その恵みを私たちが来るべき世に現わすことができるようにしてくださいました。またキリストによる再創造の御業によって生まれ変わった私たちを通してあなたは善き業を行って生きるようにしてくださいました。私たちが自分を誇ったり、卑下するようなことでなく、あなたを誇り、あなたの素晴らしさを現わすために、私たちの関心をますます救い主イエス・キリストに向かわせてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

このページのトップに戻る