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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「キリストの愛を知る」

(2011.07.10)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙3章14〜21節

14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、
17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、
21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

1.父なる神の豊かさ
(1)教会の成長のために祈るパウロ

 エフェソの信徒への手紙を今日も続けて学びます。この手紙を記したパウロは、この手紙の受け取り人たちである異邦人クリスチャンに向けて、彼らがイエス・キリストによって救われたのは神の計画によるものであることを明らかにしています。すべての人は神の恵みによって救われたのですから誰も自分を誇ることはできません。むしろすべての人はこの救いを成し遂げてくださった神を誇ることができるようにされ、その神を礼拝することができるようにされているのです。そのようにしてキリストに救われた者が集められているのが教会です。ですから教会は神によって救われた者が、神を礼拝するために集められる場所なのです。教会には異邦人であっても、ユダヤ人であってもイエス・キリストを信じる者は誰でもが加わることができるのです。
 そこでパウロはここで神によって救われて教会に集うことになった者たち、そして特にこの手紙を受け取っている異邦人キリスト者のために祈りを捧げています。パウロは教会に集う人々を指導するためにこの手紙を記しました。しかし、パウロは相手に何かを教えるだけではなく、その相手が実際にそのアドバイスを受けて成長できるようにと神にたびたび手紙の中で祈りを献げます。なぜなら、私たちを成長さえる力は神からのみ与えられるからです。

(2)供給不足は起こらない

 最近、東日本で起こった大地震に伴って起こった原子力発電所の事故により、原子力発電所の安全性が問題視されて、全国で原子力発電所の稼働がストップしています。そのために起こっているのが深刻な電力不足の問題です。私のパソコンをつけて、インターネットに繋ぐと、まずヤフーのホームページにつながるように設定されています。そのヤフーのホームページではリアルタイムで毎日、その時間の電力の使用状況がグラフになって示されています。東京電力圏内の電力の供給量に対して現在、どのくらいの電力が使われているかが一目で分かるようになっています。
 最近、大変な猛暑の日が続きました。そのグラフを見ていると電力使用率が90パーセントを超えてしまっている日がたびたびありました。こうなると電力供給量が間に合わないで大規模停電になる恐れが生まれます。ですからそれを見ながら私も、「どうしよう、このままだと大変なことになってしまう。部屋のエアコンを停めようか…。でもこの暑さではエアコンを停めたら熱中症になってしまうかもしれない」と心配することがあります。
 確かに日本中で不足している電力を節約するためにいろいろな工夫がされています。しかし、ほとんどのエネルギーを電力に頼っている現代社会では電力が足りないと言うことでたくさんの弊害が起こっているのも事実です。
 パウロはこの祈りの中で私たちがキリスト者として生きるために、また成長するために力が足りなくなることはないし、供給不足を恐れる必要はないと言っているのです。なぜなら、私たちの父は「豊かな方」だからです(16節、19節)。だから私たちは心配する必要はありません。つきることのない豊かさを持つ父なる神が、私たちの必要に応じてその力を私たちに与えてくださるからです。

2.愛にしっかりと立つ者
(1)「内なる人」が強められる

 それではこの神の豊かさは、私たちの信仰生活にどのように与えられるのでしょうか。私たちは父なる神から力を受けてどのようになるのでしょうか。パウロは次のように祈っています。

「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16〜17節)。

 まず、父なる神はその豊かさを私たちに分け与えるために聖霊を送ってくださいます。そして聖霊によって私たちの「内なる人」を強めてくださると言うのです。この「内なる人」と言う表現をパウロはコリントの信徒への手紙第二の4章16節以下で次のように用いています。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(4章16〜18節)。

 これを読むと分かるのは「内なる人」とはこの地上の生涯と共に衰え、終わってしまう「外なる人」とは違うものであると言うこと、そしてそれは目には見えませんが永遠に存続するものであると言うことが分かります。ですから「内なる人」とはキリストに結ばれている命、「永遠の命」のことを言っているのです。キリストに救われた私たちは誰もこの「内なる人」を持っています。そして聖霊はその命を強めてくださるのです。
 さらにパウロは続けて「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」くださるとも言っています。聖霊は私たちとキリストをしっかりと結びつけてくださり、あたかもキリストが私たちの内に住んでくださると言っていいような祝福へと私たちを導いてくださるのです。そしてその結果、神は私たちを「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださる」と言うのです。

(2)キリストと結びついた命

 先日、一人の方からこんな話を聞きました。以前、教会の知人から「私は聖書に教えられている通りに人を許すことができました。あなたも人を許す必要があります」と言われとそうなのです。しかし、そう言われてもどうしてもその言葉に従う気持ちにはなれなかったと言う話です。
 この話を聞いて、私はしばらくどこが問題なのだろうと考えました。「人を許す」と言うのは確かに聖書に記されている大切な教えです。だから私たちは喜んで人を許す必要があるはずです。ところがその話の場合、どうしてもその人の勧めを快く受け取ることができなかったのはどうしてなのでしょうか。その問題はまず第一に「自分は許した。だからあなたも許すべき」と語る人に問題があると思います。なぜなら、この人は「自分は人を許した」と言っておきながら、結局は目の前の人を「人を許せない人」だと考えて、その人を許していないからです。自分が本当は他人を許すことができていないのに、相手に「許しなさい」と教えている訳ですからこれは到底無理なアドバスになります。その上でもなおその人が「いえいえ、私は本当に人を許すことができた。あなたにはできないことを私はしたのよ」とでも言ったなら、この人は神の恵みではなく、人間の努力によってそれをしていることになります。そして神を誇るのではなく、自分を誇ることになってしまうのです。
 もちろん問題はこのアドバイスを語った人だけではなく、それを快く聞くことができなかった人の側にもあります。なぜなら、結局「私にはできない」と考えてしまうのも、やはり自分の力を頼りにしているからだからです。おそらくその人は自分の力に頼って人を許そうとして失敗した、今までの苦い自分の経験に基づいて判断しているのです。
 しかし、パウロはここでそれを可能にするのは神の豊かさであり、聖霊がその力を私たちに与え、私たちの「内なる人」をキリストとしっかりと結びつけてくださるからだと言っているのです。結局、私たちの目を他人や自分に向けるだけなら私たちの愛は供給不足の故に失敗し続けなければならなくなるのです。

3.人の知識を超えた愛
(1)キリストの愛

 このように私たちが人を許すことができないのは、私たちの持っている人間的な愛には限界があり、すぐに供給不足を起こしてしまうからです。どんなに優れた人であってもその愛には限界があります。ところが限界のない愛を持っておられる方がいるとパウロはここで語っています。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18〜19節)。

 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」とパウロは語ります。愛に長さや、高さ、深さがあると言うのはちょっと不思議な表現です。しかし私たちもときどき愛の深さや、心の広さなどと言う表現を用いることがないでしょうか。パウロはこの言葉に続けてキリストの愛を「人の知識をはるかに超えるこの愛」と言っていますから、このキリストの愛が無限であり、測ることができないことを表現しているのです。
 キリストはこの無限の愛に基づいて、私たちを愛し、私たちを許してくださるのです。そして私たちはキリストの愛によって、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となるのです。だからパウロは大切なのは、私たちがこのキリストの無限の愛を理解すること、知ることであると教えているのです。そうすれば私たちは愛の供給不足から解放され、豊かさに満たされることができるのです。

(2)観念的ではなく、実体の伴う愛

 先日のフレンドシップアワーでイエスと共に十字架にかけられた犯罪人の話を学びました。十字架にかけられたイエスを取り囲む群衆や、ユダヤの最高議会の議員たちはキリストに「十字架から降りてみよ、そうすればお前が王であることを認めてやろう」と迫りました。彼らにとってイエスが真の王である証拠は彼が自分の力を使って十字架から自分を救うことだったのです。そしてイエスと共に十字架にかけられた二人の犯罪人の内の一人も彼らと同様な発言をキリストに向けてしています。
 ところが、十字架にかけられたもう一人の犯罪人は、むしろイエスが十字架から降りない姿を通して、彼こそが本当の王であることを悟ります。そして彼に向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23章42節)と願い出たのです。どうして彼は十字架にかけられたイエスがキリストであり、真の王であると認めることができたのでしょうか。おそらく彼はイエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)と祈る姿を目撃することで、キリストが自分たちの罪を許すために十字架にかかり、その刑罰を受けようとされていることを知ったのです。そして彼はキリストによって自分が本当に許されることを知ったのです。
 イエスの愛は実体を伴う愛です。なぜなら、実際にイエスはその愛の故に私たちのために十字架で命を献げてくださったからです。しかし、私たちが普段考えている「愛」は観念的なものであり、私たちの気分次第で小さくなったり、無くなってしまったりするものなのです。パウロがここで祈っているのは、観念的な「愛」ではなく、キリストの愛が私たちの教会の上に実現するようにと言うことなのです。
 キリストの十字架によって私たちの罪が許されたと言う恵みの出来事を通して、私たちの上に与えられた愛、私たちがその愛の上にしっかりと立つようにとパウロは祈っているのです。私たちはいつもどのような愛の上に自分を置いているでしょうか。それは供給不足を生み出す自分の力によって生み出される愛の上でしょうか。それとも神の豊かさに基づいて実現したキリストの愛の上に自分を置いているのでしょうか。聖書は私たちにこのキリストの愛の上に自分を置く者は愛の供給不足を恐れることなく、豊かさの中で生きることができると教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
普段の信仰生活の中で愛の供給不足を覚える私たちです。どうか私たちが限りない愛を十字架の上で実現してくさったイエスからその愛の力を受け、深刻な愛の枯渇から解放されるように助けてください。自分や他人を見ることではこの問題は解決することができません。どうか私たちの心の目をキリストの愛へと向けさせてください。そして聖霊によってこのキリストと結びつけられ、私たちの内なる人が強められ、私たちを「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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