Message 2011 Message 2009 Message 2008 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
「霊による一致」

(2011.07.17)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙4章1〜6節(新P.355)

1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

1.キリストによって実現した一致
(1)教会の一致を勧める

 エフェソの信徒への手紙はこの4章より私たちキリスト者の具体的な信仰生活への指針が語られていると言えます。3章までは神様がイエス・キリストによって実現してくださった救いの出来事について語られていました。ですから、ここからこの手紙は教理篇から生活篇に移っていくことになります。この教理篇の中で異邦人もユダヤ人もキリストによる救い、恵みによる救いよって一つとされ、教会に集められて、神様を賛美するものとなったことが明らかにされました。神を賛美するというのは、讃美歌を歌ったたり、祈りをしたり、あるいは教会に通うといった特別な行為だけでなされるのではありません。むしろ賛美とは、私たちが神様に救われた全生涯を通じて行うものと言えるのです。それでは私たちの生活を通して神を賛美していくと言うことはどういうことなのでしょうか。パウロはこの手紙の生活篇の部分で読者たちにその方法を教えているのです。
 そこで最初にパウロによって取り上げられているのは「教会の一致」という事柄です。私たちの教会でも年齢や性別、受けた教育や、育った環境も異なっている者たちがそれぞれ集められています。ですからその人たちが一致すると言うことはなかなか難しいところがあります。パウロがこの手紙を書いた小アジアの教会のメンバーは様々な人種や国民によって構成されていたと考えられていますから、なおさらその人たちが一致すると言うことは容易なことではなかったようです。
 もし教会の一致が当たりませのことであり、どこででも何の問題もなく簡単に可能であったとしたら、パウロは改めてこのことについて手紙で書き記す必要はありませんでした。ですからパウロがまず、この問題を最初に取り上げているのは、教会にとってこのことがもっとも大切であると言うことと共に、もっとも難しい事柄であるからではないでしょうか。

(2)一致を可能にするための救い

 大地震の後、この大きな災害被害からの復興のために「日本が一つにならなければならない」と言うアピールが何度も繰り返されています。ところが、実際には震災復興のリーダーとなるべき日本の政府がバラバラで一致することができないでいます。この政府の混乱が災害からの復旧を遅らせている原因にもなっています。しかし、そんな政府の人々を私たちは口先では非難しますが、実際には私たち自身も一致してことを行うことについていつも困難を覚えているのではないでしょうか。一致してことにあたることは大切なことであることを私たちはよく知っています。しかし実際にそれを実行するとき私たちは非常な困難を覚えるのです。それはどうしてなのでしょうか。
 ところでこの一致について聖書は私たちが普段考えていることとは少し違った主張をしているのが分かります。なぜなら、私たちは一致とはある目的を達成するための効果的な方法であると考えているからです。言葉を換えれば目的が達せされれば、今度は各自で自由にやればよいのであって、一致は特別な場合と場所で私たちに求められていることだと考えるのです
 しかし、聖書は「一致」は目的を達成するための手段ではなく、キリストの救いが目指した目的自身であると教えているのです。たとえば、私たちがすでに学んだこのエフェソの信徒への手紙2章では次のような言葉が語られています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(14〜16節)。

 この言葉によればキリストの救いは敵対していた二つのものを一つにするためのものだったといっていることが分かります。つまり、キリストの救いは私たちが一致するためのものであったと考えることができるのです。そして同時に、そう考えるとここでパウロが言っている「一致は」はキリストの救いが私たちの上に実現させるものであり、人間的な努力の所産ではないということも分かるのです。つまり、聖書は私たちに「一致した方が得である」と言っているのではなく、一致すべきであり、それが私たちがキリストによって救われた意味でもあると教えているのです

2.一致のために
(1)神の招きにふさわしい生活

 先日の礼拝で私たちが抱えている愛の枯渇の問題は、私たちが豊かな愛の供給源である神様からその愛を受け取ろうとしないところに原因があるということを学びました。神様は聖霊を通して私たちが愛に堅く立つことがきるように力づけてくださるのです。そしてそれは私たちがキリストの愛を理解し、キリストの愛を知っていくことで私たちの信仰生活に実現していくと言うことを学んだのです。教会の一致についても同じようなことが言えます。私たちはすぐに一致を乱している特定の人が問題だと考え、その人を批判するのです。しかし、問題は私たち自身にあり、私たちがそれぞれ神様から一致のための力をいただいていないのが私たちが一致できない本当の原因なのです。

 パウロはそこで次のように語ります。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(1節後半〜3節)。

 パウロは神様が私たちを招いてくださったのだから、その招きにふさわしく歩きなさい、生活しないさいとここで勧めています。私たちは神様からどこに招かれたのでしょうか。それはキリストによる救いの出来事に招かれているのです。かつて暗闇の中を希望もなく生き、死と滅びへの道をまっすぐに突き進んでいた私たちがこの救いの出来事の中に招き入れられたのです。ですからこの言葉は私たちが私たちを救ってくださった神様にどんなに感謝を献げても献げ足りない者たちであることを表わすと共に、救われた者としてふさわしい歩みをする必要があることを教えているのです。
 アナログ放送が地上デジタル放送に変ったのに、アナログ専用のテレビをつけても何の放送も受信すうことはできません。同じように私たちが救われる前の生き方をそのまま続けているなら、せっかく神様が豊かに恵みを私たちに与えようとされているのに、それを受け取ることができないのです。救われた者はそれにふさわしい生き方があるのです。

(2)高ぶらない

 そこでパウロは続けて語ります。「一切高ぶること(ないように)」。古い聖書の訳では「謙虚」(口語訳)とか「謙遜」(新改訳)と言う日本語がここで使われています。私たちが一致するためには高慢であってはならないと言うのです。高慢な人はいつでも自分の気持ちがよくなることを求めています。カウンセリングではカウンセラーが自分で気持ちがよくなってしまうような場合はそのカウンセリングに失敗したと言われています。なぜなら相手の重荷を分かち合うなら必ず自分の側にもその苦しみが伝わり、重荷を背負うことになるからです。「自分は教会に行くと気持ちがよくなる」と考える人は、もしかしたら自分の重荷を周りの人に押しつけて、自分では誰の重荷も引き受けないようなことをしているのかもしれません。そして自分の気持ちのよさだけを追求する人は必ず、最後には教会に行くよりは、家にいる方がましだと言い始めるのです。
 このように「高ぶらない」とは私たちが相手の重荷を分かち合う姿勢を示します。なぜなら謙遜の模範であるイエス・キリストは私たちの罪を負って十字架にかかることで真の謙遜を示されたからです。しかし、相手の重荷を引き受けるだけでは私たちは疲れ果てて、やがてはだめになってしまいます。ですから一般のカウンセリングではカウンセラーもスーパーバイザーのカウンセリングを受ける必要があります。同じように私たちも私たちの真のスーパーバイザーであるイエスのカウンセリングを受ける必要があるのです。つまり、教会の中で本当に高ぶることなく生きようとするなら、私たちがいつもイエス・キリストに結びついていなかれば不可能なのです。

(3)柔和と寛容

さらに「柔和で、寛容の心を持ちなさい」とパウロは続けて語ります。

ある人の説教を読んでいてこの「柔和」と言う言葉は訓練された動物の状態を説明するために用いられる言葉だと紹介されていました。野生の動物は自分の思い通りに生きようとだけしますから、人間が何らかの目的のために使うことは困難です。そのため、動物は必ず訓練を受けてからではないと使い物になりません。訓練の目的は主人の命令通りに聞き従うと言うことです。信仰者もまた、自分の思い通りに生きるためではなく、主イエスのために働くために集められているのです。ですから教会生活の中で私たちは主イエスの命令に従うための訓練を受けるのです。そしてそれによって教会の一致は生まれてくると言えるのです。
 「寛容」について私たちはどのように理解したらよいでしょうか。私たちは聖書の言葉を理解しようとするときそれとは全く反対の事柄を考えて見るとよく分かることがあります。なぜなら、生まれつきの私たちにとってはそのほうがなじみ深く、よく理解できるからです。試しに類語辞典で「不寛容」と同じ意味の言葉を探してみるとこうです。

 考え方・行動などが不寛容な場合には、「狭量 ・ 非寛容 ・ 狂信的 ・ 教条主義的 ・ 観念的 ・ 硬直的 ・ 非妥協的 ・ ごりごりの(保守右翼) ・ 偏狭な ・ 厳格な(家庭) ・ 融通が利かない ・ 寛容でない ・ おおらかでない ・ 容赦のない ・ 遠慮のない ・ 苛酷な ・ 厳しい(取調べ)」 。
状態・様子などに表れた不寛容は「 短気 ・ (いつも)いらつく ・ 怒っている ・ キレやすい ・ 不機嫌な(都市生活者) ・ ツッパリ(少年) ・ 非情(都市)」。

 ある人は「寛容」には忍耐が必要とされると言っています。それではなぜ私たちは不寛容になってしまうのでしょうか。おそらくそこには他人から自分を守らないとだめになってしまうと言う恐れがあるからではないでしょうか。自分自身を守ることで精一杯で、他人を受け入れる余裕がなくなってしまうのです。となると「寛容」とは、私たちを守ってくださる主イエスがいて始めて成り立つものであることが分かるのです。
 「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」というのは信仰者でない人にも通じるような一般的な徳目が語られているようにも思えますが、このすべてはキリストの救いがなければ成り立たないものだと言えるのです。そしてそのことは次のパウロの言葉が証明しています。

「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(2〜3節)。

 どんなに忍耐ができてもそれが愛に基づかなければ意味がありません。怒りを心に一杯にしながら我慢することは聖書の語る「忍耐」ではないのです。そのために私たちは神様からその力を豊かにいただかなければなりません。平和も霊による一致もみな神様から与えられる賜物だからです。そして神様はこの賜物をキリストの教会に与えてくださるのです。だからパウロはここで教会の一致を求めているのです。なぜなら、神の御業が働く教会でこそこの一致が可能となるからです。

3.お一人の神と教会の一致

「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4〜6節)。

宗教改革者のカルヴァンはエフェソの信徒への手紙の注解書で「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」と言う言葉を説明することは簡単にはできないので別の機会に説教したいと述べています。
 しかし、ここで何度もパウロが「一つ」、「一つ」と繰り返して述べているのは、すべて神様がお一人であることに基づいて居ることが分かります。つまり、神様と神様の造られた世界において「一つ」になること、つまり「一致」することはあたりまえであって、不一致は神様と神様の造られた世界にとってふさわしいものではないと言えるのです。
 宗教生活について私たち日本人は一人一人が修行を積んで悟りの境地に入る、そんな印象を持っているところがあります。ですからたくさんの人といるよりも、一人となることが信仰生活には必要だと考えるのです。そう考えると「教会生活」は複雑な人間関係が伴う自分の修行には返って意味のないところだと考えてしまうことになります。しかし、神様の救いは私たち一人一人が単独で救われるのではなく、神の民がすべて一つとなって救われることを目指しているのです。これはこの後でも学びますが、神様の救いは私たち一人一人のそれぞれの個性を抹殺したりすることではなく、それを生かした上で、しかもそれらの多様な個性が一致するところで新しい世界を形造るのです。
 ですから教会生活は私たちの個性を押しつぶしてしまったり、誰もが同じ姿をし、発言をするようなところでは決してないのです。むしろ神様に造られた私たちが教会に集まり、それぞれの賜物を出し合い、協力し合うことで私たちは自分の人生の意味を知り、またその価値を知ることができるのです。ですから私たちは教会の一致を通して、キリストの救いの本当の祝福をも知ることができると言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。 キリストにあって救いの恵みを与えてくださったあなたは、私たちを教会へと招き、そこで生きる者としてくださいました。どうか私たちに謙遜と柔和と寛容の賜物を与えてください。そして私たちがあなたの愛によって導かれ一致して働く者としてください。私たちがそれぞれに与えられた賜物を大切にし、それぞれの重荷を分かち合い、主のために働くことにより、この教会に集められた者としてふさわしく生きることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


このページのトップに戻る