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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「古い生活と新しい生活」

(2011.07.31)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙4章17〜24節(新P.356)

17 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、
18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。
19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
20 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
23 心の底から新たにされて、
24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

1.私たちに起こった変化

神学生のときに、奉仕先の教会の依頼でその教会に通って来ていた求道者の婦人の家を訪問したことがありました。そのとき、その婦人は私に何か飲み物を出そうとされたのですが、私が「日本茶で結構ですよ」と言うと、その婦人が驚いたように「教会の人でも日本茶を飲まれるのですか。私はてっきり教会の人は皆、コーヒーを飲むものだと思っていました」と言われたことを今でも思い出します。私が当時、奉仕していた教会はアメリカ人宣教師が牧会している教会でした。もしかしたら、そんなことが関係しているのかも知れません。おそらく、その婦人はクリスチャンになったら誰もアメリカ人のような生活をするようになるのだと勘違いしていたいようなのです。
 日本に福音を宣べ伝えた宣教師たちのほとんどはアメリカ人ですから、教会はどこか知らず知らずにアメリカ文化の影響を受けているところがあるかもしれません。しかし、神様を信じたからと言って、私たちがアメリカ人や他の国の習慣を身につかなければならない必要は全くありません。日本人であれば、日本人として神様を信じていけばよいのです。しかし、パウロは今日の聖書の箇所で私たちが変らなければならないところがあると教えています。しかも、この変化は表面的であったり、一部分に限られるものではなく、全く新しくされたと言っているのです(23節)。それでは私たちの信仰生活はどのような意味で今までの生活から変ったといえるのでしょうか。あるいは私たちはどう変化する必要があると言えるのでしょうか。今日はこのことについて聖書から学んでみたいと思います。

2.本来の機能を失った「心」
(1)神の意志を受け取る機能

 まず、パウロは今日の聖書箇所で次のように語っています。

 「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」。(17〜18節)

 パウロは私たち信仰者に起こった変化を説明するために、それ以前の私たちの状態がどうであったかについて思い出させようとしています。なぜなら、この手紙を受け取っている人々の多くはかつては聖書にも、また神様にも無縁であった「異邦人」として生きて来たからです。パウロはその異邦人の生き方の特徴をここで述べているのです。「知性が暗くなったり、無知になる」これは単にこの世の一般的な知識について述べているものではありません。なぜなら異邦人であってもこの世の知恵と知識に長けた者はたくさん存在しているからです。ですから、ここで問題となる知性や知識は神について、あるいは神が聖書を通して教えてくださる真理に対して暗く、無知であるとことを言っているのです。それではどうしてそうなってしまうのでしょうか。それは「心のかたくなさ」の故だとパウロは言っています。ここで語られている「心」は私たちが通常使っている「心」と少し意味が違っています。聖書において「心」は人間の知識、感情、意志を司る最も大切な機関であり、この心が正常に働くとき、私たちは神様を知ることができるからです。
 神様が天地を創造されたときに人間はその神の意志をこの地上に実現するために造られました。そのために「心」は人間がその使命を遂行するために神様の意志を理解するために与えられたものなのです。ところが、人類の祖先であるアダムが罪を犯したときに、この心に何らかの変化が起こってしまいました。それがここでは「かたくなさ」と言う言葉で表現されているのです。つまり、「心」の本来の機能を果たさなくなってしまったのです。

(2)暴走する人生

 私たちはかつて、日本の原子力発電所は絶対に事故が起こらないものだと教えられてきました。原子力発電所の「安全神話」と言うものがそれです。原子炉は幾重にも構築された防護壁で守られているので、外部からどんな衝撃が加わっても壊れることはないと言われて来たのです。しかし、今回の事故では津波により外部から電力を供給する機能が奪われ、原子炉を冷却するシステムの機能が失われました。そうなると原子炉は内部から崩壊せざるを得ません。パウロが語る異邦人の生活はこの原子力発電所の事故にたとえることができるかもしれません。「心」は人間の外側から神の意志を受け取り、それを伝える役目を持っています。それが破壊されてしまった人間の知識は暗くなり、知性は狂いだし、その生活は内部崩壊を始めているのです。

「そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(19節)。

「とどまるところを知りません」とパウロが言うように神に背を向ける異邦人の生活は暴走して、それを停めることができないと言っているのです。その暴走が停められなければ、やがてその行き着く先は死と滅びでしかありません。私たちはかつて「異邦人」としてそのように生きていたとパウロはここで教えているのです。

3.新しい生き方
(1)変えられた「心」で福音を信じる

それでは私たちの生活はいつどのように変化したと言うのでしょうか。パウロは続けて語ります。

「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」(20〜21節)。

私たちはすでに「キリスト」を学んでいるとパウロは言っています。これはキリストについての何かを学んだと言うより、キリスト自身を学んだと言っていると考えてよいでしょう。それは福音を聞き、それを信じ、キリストと結ばれ、キリストのものと私たちがなったことを意味する言葉です。私たちの命がこのキリストによって神としっかりと結ばれたことを意味する言葉なのです。このキリストを学ぶことは「心がかたくなな」者には不可能です。ですから、キリストを学ぶことができたと言うことは、神様が私たちに聖霊を送ってその心を変えてくださらなければ不可能なのです。つまり、私たちはキリストを信じるときに、すでに神様によってその心を変えていただいと言うことができるのです。

(2)自分のためではなく神のために生きる

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(22〜24節)。

 いままでは心のかたくなさのゆえに、神の御心を、またその真理を知り得なかった私たちです。どうしていいのか分からないままに、心の赴くままに、また地上の神なき世界の価値観を頼りに生きなければならなかった私たちだったのです。その私たちが今や、キリストを学び、真理を知ることができるようになったのです。ですからその生き方は当然、変らなければなりませんし、変って当然だと言えるのです。パウロはこのことについて「古い人を脱ぎ捨て」、「新しい人を身に着ける」と言う言葉を使って説明しています。私たちが「異邦人」として今まで着ていた衣装は神に救われた者の姿としてはふさわしくありません。いえ、むしろ神様は私たちのために新しい衣装を準備してくださったのですから、それを喜んで着るべきではないかとパウロは私たちに勧めているのです。
 神はそのままでは死と滅びへと向かうしかなかった私たちの生活を、命と祝福への道に変えてくださったのです。最近、この礼拝で交読しているジュネーブ教会信仰問答は主の祈りの内容の解説に入っています。その解説の最初に、この信仰問答の著者であるカルヴァンはは私たちが自分のことではなく、神様の栄光を求めて祈ることがどんなに大切かを教えています。なぜなら神の栄光が実現するとき、私たちもまたもっとも豊かに祝福されるからだからです。考えてみると聖書は一見、この世の常識とは反することをよく私たちに語ります。
 たとえばあるところでは「自分のことを憎め」と言ったり、また別のところでは「自分の命を失う者が自分の命を得る」とも語ります。これらのすべての言葉は私たちが自分を勘定にいれないで徹底的に神のみを愛し、その神のために生きることを求めているのです。それでは、その生き方は私たちの人生にどんな影響を与えるのでしょうか。なぜ私たちは自分を憎み、神を愛する必要があるのでしょうか。それは神が私を徹底的に愛してくださるからです。
 なぜ私たちは自分の命を捨ててまで神に従う必要があるのでしょうか、それは神が私の命を徹底的に守ってくださるからです。自分の力では、自分の方法では不完全で、どうにもならなかった私たちの生き方が、神を愛し、神に従うことによって本当の意味で実を結び、豊かなものとなるのです。だからこそ、パウロは私たちが自分の力で自分の幸せを、また自分の命を獲得するように生きて来た生き方を棄てて、神にすべてをまかせる生き方に変るようにと私たちを促しているのです。

4.祝福された人生の終末

 先日のフレンドシップアワーでルカの福音書が伝えるシメオンとアンナと言う二人の老人の話を学びました(ルカ2章25〜38節)。この二人はいずれも神殿で神の救いが実現することを待ち望み、そのために祈り続ける毎日を送っていました。その二人がその神の救いを実現するためにやって来られた救い主イエスに出会って、喜びに満たされた話が福音書に語られています。
 特にシメオンは救い主イエスに会った喜びを次のような言葉で表現しています。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」(29〜32節)

 シメオンはこのとき明らかに自分の人生の終末を迎えようとしています。その最後に彼は何を語ることができたのでしょうか。「私は満足して死ぬことができます」と語っているのです。満足して死ねるとは、「自分はここまで生きてきて善かったと思う」と言える言葉です。こんな言葉を私たちも言えたならどんなに素晴らしことでしょうか。
 この世は私たちに人生の送り方ついて様々な方法を教えます。しかし、その多くが不完全な教えで終わってしまうのは、すべて自分の力で自分の人生を完成させようとしているからです。聖書はこのシメオンのように人生の終末を満足して迎える方法を私たちに提供しています。それは私たちを人生の完成を救い主イエス・キリストに委ねる方法です。
 私たちがかつて自分の知恵と知識を使っても得ることができなかったものを、イエス・キリストは私たちに与えてくださるのです。だからこそ、私たちはかつての自分に頼る古い生き方を脱ぎ捨て、キリストに頼って生きる新しい生き方をまとってこの人生の歩んでいくべきだとパウロは教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちの心を聖霊によって作り直してくださり、キリストを学び、キリストを受け入れ、キリストを信じる者とされた幸いを感謝いたします。古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることができるようにしてください。私たちの命を何よりも愛し、守り導いてくださるのはあなたです。私たちがそのあなたを愛し、あなたに従って生きることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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