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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「人を造り上げるための言葉」

(2011.08.07)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙4章25〜32節(新P.357)

25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
27 悪魔にすきを与えてはなりません。
28 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

1.パウロの勧めの目的
(1)教会のための勧め

 今日も続けてパウロの記したエフェソの信徒への手紙を学びます。今日の箇所では「偽りを捨て、真実を語りなさい」とか、「日が暮れるまで怒ったままではいけない」と言った数々の勧めが語られています。「嘘を言わずに真実を語る」とか、「怒りに身を任せるのではなく自分の感情を治める」などと言う教えは私たちが日常の生活の中でもよく耳にする言葉ではないでしょうか。ですから今日のパウロの言葉を読んで、「こんなことはあたりまえ」と思ってしまう人もいるかもしれません。また、聖書に馴染みのない人でも「聖書も難しいことばかりではなく、日常生活に役立つことも言うのだと」と思うれる方もいるかもしれません。しかし、ここに語られている教えは私たちが日常生活でもよく耳をする教えと同じことを言っているのでしょうか。
 まず、この箇所を学ぶ場合に最初に私たちが理解しておくべきことがあります。それはこの勧めがパウロによって語られた目的は何かと言う点です。たとえば戦前の日本には「教育勅語」と言う教えがあり、子供たちは学校でその言葉を学び、暗記までさせられたと言います。あの教育勅語の目的はすべての人々を、天皇を中心とする国家に忠誠を誓う国民に育てるためにありました。「教育勅語」の目的は国際社会で通用するような人間を作ることではなかったのです。ですから天皇と国家に忠実な日本人が、その一方でアジアの人々を苦しめる侵略戦争を行うことができたのです。
 それではパウロの勧める教えは何のために語られているのでしょうか。今日の部分の最初の言葉の中に「わたしたちは、互いに体の一部なのです」と語られています(25節)。つまり、これはキリストを頭として一つとされた教会に所属する人たちに向かって語られていることが分かるのです。私たちはこの教会、つまりキリストを頭とする体の一部として教会に集められているのです。「だからあなたたちはこのように生きなければならない」とパウロはここで教えているのです。つまり、ここに語られているパウロの教えに私たちが従うとき、キリストを頭とする教会は生きた生命体として立派に成長することができると言うことになります。
 ここまでで私たちの救いがキリストの体である教会を通して実現すると言うことを学びました。神様は私たち一人一人をキリストを頭とする教会の一部としてくださり、その教会を通して私たちの救いを実現されようとしておられるのです。それならば私たちの教会での生活は、私たちの救いにとってとても重要であることがわかります。私一人だけが救われて、あるいは良くなればよいと言うのではなく、キリストを頭として集められた教会の一部である私たちが互いに励まし合い、助け合うとき、キリストの救いは私たちの上に実現するのです。そのような意味でパウロがここで語る教えは私たちと教会との関係、そして教会を通して結ばれた神様と私たちとの関係を念頭に置きながら理解していく必要があるのです。

(2)真実の言葉とは何か

 そこでパウロはまずここで「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(25節)と勧めています。「嘘を言わずに真実を語る」ことは大切なことです。しかし、「真実」と言ってもいったい何が私たちにとって真実であるかと言うところでは難しい問題が生じることがあります。
 以前、教会の中での人間関係でトラブルが生じ、その解決のために私は当事者たちと何度も話し合ったことがありました。そのとき、感じたことですが、それぞれの人間が「事実はこうである」と言っても、その事実には必ずそれを受け取った人の解釈が入っています。そのために私たちの間には事実認識について大きな相違が生まれるのです。そしてその相違を解決することは大変に困難なのです。
 もし、教会に集まる人々がそれぞれ自分の解釈が伴った「真実」を語り始めたなら、そこには大きな混乱が生じてしまいます。ですからここで語られている「真実」は私たちが解釈する真実では決してありません。それではキリストを頭とする教会を建て上げることはできないからです。
 ここで語られている「真実」とは神が福音を通して明らかにしてくださった事柄を意味しているのです。ですから言葉を換えればパウロは、私たちに「いつも隣人に対して福音を語りなさい」と勧めているのです。それではここで言われている「偽り」とは何でしょうか。それは福音に基づかない言葉、または福音に反した言葉と考えることができます。つまり、その人を救いに導くのではなく、かえって救いから遠ざけてしまう言葉です。私たちには「偽り」の言葉が心地よく、「真実」の言葉が厳しく聞こえることがあるかもしれません。しかし、それでも私たちはお互いに福音に基づいた真実の言葉を語る必要があるのです。

2.聖霊を悲しませるな
(1)悪魔にチャンスを与えるな

 そしてパウロは次に「怒り続けてはならない」とか、「盗んではならない」、そして「悪い言葉を語ってはならない」と言う教えを語り始めます。まず「怒り」についてパウロは「怒っても、罪を犯してはならない」(26節)と教えます。怒ること自身は罪ではないが、怒りは私たちが罪を犯す可能性を生むものだとパウロはここで語るのです。宗教改革者ルターは「鳥が私たちの頭の上に止まることは仕方がないことだが、その鳥が自分の頭に巣を作ることを許してはならない」と教えたと言います。パウロが語る「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と言う言葉はこれと同じことを言っているのかもしれません。怒ることは私たちの感情の問題です。しかし、怒り続けることは、それを選び取る私たちの意志の問題になるのです。つまり私たちが怒り続けることを自分の意志で選んだとき、パウロは「悪魔にすきを与えることになる」と言っているのです。つまり、それは悪魔が私たちに罪を犯させるチャンスを与えたことになると言うのです。
 それでは、なぜ「怒り続ける」ことが問題なのでしょうか。怒るとき私たちの心はその怒りの対象である相手に向けられています。つまり、本来神に向けられるべき私たちの心が全く別の方向に向いてしまっているのです。ですからもし、その怒りをずっと抱えたままであるならばまさに私たちは、神に背を向けて歩むことになるのです。聖書は私たちが神に背を向けて生きることを「罪」と呼びます。悪魔は私たちの怒りを利用して、最終的に私たちと神を引き離そうとしているのです。そのためパウロはそのチャンスを悪魔に与えてはならないと教えます。

(2)神からいただいたものを正しく使う

 次にまた「盗んではいけない」(28節)とパウロは言っています。この手紙を受け取った信仰者の中に盗みを生業とする泥棒がいたと考えることはできません。これはこの後の「むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」(28節)の言葉から考える通り、人をだまして、不正な富を収奪するようなことを禁じていると考えるべきではないでしょうか。さらに、神が与えてくださった富を自分一人で独占するような生き方をも戒め、その富を必要としている人に分け与えることを勧めているとも考えることができます。つまりこれらの人は神の富を不当に盗んでいると考えることができるのです。ここでは私たちが神からいただいているこの世の富を神の御心に沿って使うことが勧められていると考えることできます。
 「人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさ」(29節)とパウロは教え、そのために悪口を語ることなく、聞く人に恵みが与えられるような言葉を語れと勧めます。人のうわさ話と言うのは不思議なものでその内容のほとんどはその人に対する悪い話題です。良い話題はほとんど人のうわさ話の種にはなりません。それはおそらく、私たちが本質的に相手を引き下げるような話題だけを好んで聞きたいと思っているからではないでしょうか。しかし、これでは共倒れになるだけで、人を生かし、成長させることはできません。「恵みが与えられるような言葉」は私たちの内側からは生まれてはこないのです。だから、私たちは神からふさわしい言葉をいつもいただく必要があるのです。人を生かすために、私たちは神に耳を傾け、恵みを与える言葉を私たちがまず神からいただく必要があるのです。

3.聖霊の保証
(1)聖霊を悲しませるな

 パウロは次に私たちへの様々な勧めの言葉を語りながら、ここで聖霊のことに話題を変えていきます。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(30節)。
 「怒り続けたり」、「盗んだり」、「悪口を語る」ことは神に背を向けて生きる人間の行為を言っています。聖霊は私たちに働き、私たちの心を神に向け、その救いを私たちの上に実現するために神から送られる方です。だからパウロがここで「してはならない」と言っていることを私たちがすることは「神に背を向け、聖霊の導きに反抗する行為」であると言うことができます。
 しかし、ここで興味深いのは「聖霊を怒らしてはならない」とは言わず「聖霊を悲しませてはならない」とパウロが言っている点です。私たちはよく人の行為を見て腹を立て、怒ることがありますが、「悲しむこと」はまれです。「悲しむ」とは自分が心に留め、愛し、特別な期待を持って見ている人が、その期待に反した行為をしたときに感じる感情であると言えるのです。つまり、聖霊は私たちを心に留め、愛し、強い期待を持っていてくださる方であることがこの言葉から分かるのです。私たちをそのように愛してくださる聖霊を悲しませることをしてはいけないとパウロは言うのです。
 次に興味深いのは「聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」と言う言葉です。聖霊が私たちに保証してくれるものは何かと言うことです。ここに記されている「贖いの日」とは私たちの救いが実現する日のことを言っています。つまり、聖霊は最後の日に神の審判が下るときに私たちが必ず救いにあるかることを保証してくださっていると言っているのです。
 先日、ダニエル書に記された三人の若者が燃える炉に投げ込まれると言う物語を教会学校のお楽しみ会で話す機会がありました(ダニエル3章1〜30節)。王の命令に背き、金で造られた像を拝むことを拒んだシャデラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は王の前に引き出されます。そのとき、自分の絶対的な力を誇示するバビロンの王ネブカドネッァルは「自分の手からおまえたちを救い出す神などいるはずがない」と叫んでいます。このネブカドネッァルの言葉に三人は「わたしたちのお仕えする神は、私たちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」と堂々と答えています。王の命令に従わなければ彼らは燃える炉に投げ込まれます。その災いから彼らを神は守ることがおできなるのかどうか、ということがこのお話の中心になるような気がするのです。ところがこの三人の発言をもう少し注意深く読むと決して彼らがそこだけを問題にしているのではないことが分かります。彼らはネブカドネッァル王に「神が必ず守ってくださる」と語った後、「そうでなくても」と言う言葉を付け加えているのです。つまり、彼らは燃える炉から自分たちを神が救い出してくださらないケースをも想定していることが分かるのです。そして、それでも自分たちはほかの神々に仕えることはできないと王に答えているのです。
 三人とって神が自分たちを守られると言う行為は、単に燃える炉から自分たちを救い出すということだけではなかったのです。だから「そうでなくても」と彼らは語ったのです。彼らが王の前で信仰を守り抜くことができたのは神の救い、贖いの日に対する保証が彼らにあったからではないでしょうか。そして聖霊は今も、私たちにこの保証を与え続けてくださるのです。ですから、この聖霊を悲しませる生き方をすることは、私たちのこの救いの確信を失わせることにつながるのです。

4.赦しの原理

 次にパウロはこう語ります。

 「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(31〜32節)。

 この表現は前回取り上げた「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけなさい」と言う言葉と同じことを繰り返しているようにも聞こえます。古い生き方を捨てて、新しい生き方に神は私たちを招いてくださっています。そのために神は私たちが着こなすことのできる新しい服を準備してくださっているのです。その服はキリストの救いによって私たちに与えられるものです。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と語られているように、キリストに赦していただいた者のみが、お互いに赦し合うことができるからです。神は教会に集められた私たちに豊にその赦しを提供してくださるのです。そしてその赦しに基づいて、私たちもお互いを赦し合うことが可能となると言えるのです。
 私たちが自分自身を見つめてもこの「赦し」の可能性は全く見いだすことができません。つまり、神に背を向けて歩む生き方をすれば、自分しか見えませんから、人を赦すことなど到底できないと感じるのです。しかし、私たちが聖霊の導きに従い、神に目を向け、その福音によって生かされるとき、尽きることのない「赦し」の源が明らかになるのです。私たちにとって大切なのは私たちがこの神に目を向け、また神に向かって歩むことです。ですからパウロが語るここでの数々の指針は私たちを神に向かって生きるように導くものだと言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちが慣れ親しんだこの世の生活から、新しい生活へと導くために、御子イエスを与え、その救いによって私たちを変えてくださいます。キリストを頭とする教会に集められている私たち一人一人がその信仰生活の中で、いつも頭であるキリストに心を向け、そこから人を立て上げるための言葉をいただき、また赦し合う力を受けることができるようにしてください。そして聖霊を悲しませることなく、むしろ聖霊によって救いの保証を受けることができるように私たちを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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