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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「神に愛されている者の生き方」

(2011.08.14)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙5章1〜5節(新P.357)

1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
3 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。
4 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。
5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。

1.神に倣う者になりなさい
(1)「神のようになれる」=罪の誘惑

 今日はエフェソの信徒への手紙の5章に入ります。パウロはこの部分の冒頭で「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(1節)とこの手紙を受け取った読者たちに勧めています。「神に倣う者となりなさい」。言葉を言い換えると「神に似た者となりなさい」という意味です。実はこのような表現は聖書の中でここにしか登場しない特別な表現です。パウロは「私に倣う者となりなさい」とか、「キリストにならう者となりなさい」と言う言葉を別のところで何度か使っていますが、このような表現を他で用いることはありません。なぜなら聖書において「神に似た者」と言う言葉は非常に誤解を受けやすい表現だからです。
 旧約聖書の創世記の最初には神に造られた最初の人間がへびの誘惑によって罪を犯してしまう物語が語られています。この物語の中でへびが人間に語る言葉の中に次のような表現があります。

「蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」」(3章4〜5節)

 読めばお分かりになるように人間に対するへびの誘惑のポイントは善悪の知識を知る木の実を食べると「あなたも「神のようになる」、つまり「神に似た者」となる」と言うところにあったのです。つまり人間の堕落を生み出した最初の罪は人間が神のようになろうとする思いから生まれたと言えるのです。「神に似た者になる」とはそれだけ重大で慎重に用いなければならない言葉です。それではパウロはこの「神に倣う者となりなさい」と言う言葉でいったい読者たちに何を語ろうとしているのでしょうか。
 まず最初に理解すべきことは、この言葉はへびが最初の人間に語った言葉の意味とは全く違う意味を持っていると言うことです。かつてのへびの誘惑の意図は、人間は神と同じような力を得ることで、神をいなくても十分に生きることができると言うところにあったのです。つまり、神と人間を引き離すことが「神に似た者となる」と言うへびの誘惑の目的だったのです。しかし、パウロのこの勧めはこの言葉とは全く違った意味を持っています。その証拠にパウロはこの言葉の前に「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と言っています。つまり、「神に似た者」となるためには私たちが神に愛された子供であると言う事実、言葉を換えれば神と共に生きる者であると言う事実が前提となっているのです。ですからパウロがここで語る勧めは神に背を向けている人、あるいは神を必要としない人には実現は不可能なものなのです。つまり、このパウロの勧めを私たちが実現するためには、私たちがますます神との関係を深めていかないといけないのです。

(2)キリストによって示された神の愛

 それでは「神に似た者となる」と言うパウロの勧めの言葉はいったい私たちに何を教え、また要求しているのでしょうか。宗教改革者カルヴァンはこの部分の解説で「子がその親に似るように、私たちも私たちの父である神に似るようにと勧めている」と言っています。しかし、このカルヴァンの言葉には少し無理があるような気が私にはします。なぜなら、子が親に似るのは「無意識」であって、自分が進んで似るように心がけて生きたからそうなった訳ではないからです。
 川口キングスガーデンに行って私の母に会った方は必ず私と母が「本当によく似ている」と言われるはずです。誰もが一目見て親子であることが分かるように私と母はよく似ています。それは外見だけではなく、私と母との間には生活習慣、あるいは性格に至るまでいろいろと似ているところがたくさんあります。しかし、これは私がそうあろうと努めたからではなく、無意識にそうなってしまったのです。だから本人はそのことをあまり快いものとは思っていません。しかし、パウロはここでこの手紙の読者たちに明らかに意識して「神に似た者となるように」、「神に倣う者となるように」と勧めているのです。
 そこでパウロはこの言葉の次に神の御子であるキリストについて語り出しています。なぜなら、キリストこそ真の神の子であり、またその父でなる神と同じ性質を持っておられる方だからです。イエス・キリスト自身も「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネによる福音書14章9節)と語り、私たちが見えない神を知るためには、私たちのために目に見える形を持ってこの地上に来てくださったこのキリストを通して神を知るようにと促しているからです。
 それではキリストはわたしたちに神のどんな姿、つまり私たちが「倣うべき」姿を示してくださったのでしょうか。パウロはこう語ります。

 「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(2節)。

 かつてエルサレム神殿では人々の罪を贖うものとして動物犠牲が献げられていました。しかし、それらの動物犠牲はまことの罪の贖いのために献げられたキリストを示すものでしかありませんでした。キリストは「御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」のです。それでは、どうしてキリストはわたしたちのための「いけにえ」となられたのでしょうか。それは私たちを愛してくださったからです。だから神は私たちが滅んでしまうことをよしとは思われず、キリストを私たちのために遣わしてくださったのです。そしてこのキリストの愛は、神の私たちに対する愛を示すものであるとも言えるのです。ですからパウロが「神に倣う者となりなさい」と語る場合、この神の愛を見倣うべきであると言っているのです。だからパウロはここでも「あなたがたも愛によって歩みなさい」と読者たちに勧めているのです。キリストによって示された神の愛によって歩むこと、これが神に似る者の姿であると教えているのです。

2.キリストの愛
(1)日常会話での注意

 キリストが私たちに示してくださった愛は、ご自身の命を私たちための「香りよき供え物」として献げてくださることで明確に示されました。つまり、ご自分の命に代えてまで私たちを愛してくださったその愛です。それではいったい私たちがこのキリストの愛に倣う者として生きるとはどのようなことなのでしょうか。そしてそれはどのようにして可能になるのでしょうか。
 非常に興味深いことはパウロはこのキリストの愛を語った後で、私たちの日常生活におけるたいへんに身近な注意事項を語っていることです。

 「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい」(3〜4節)。

 「キリストの愛に倣う者となる」と聞くとき、私たちは何か特別なことを考えようとすることがあります。アフリカに行って、その地域で苦しむ人々のために医療活動に従事したシュバイツアーや、インドの貧しい人々のために命を捧げたマザー・テレサのような人の生涯を考えて、自分もあのようになるべきだと考えるのです。しかし、そのように考えてしまうからこそ私たちはそのハードルの高さのゆえにすぐに挫折してしまうのです。ところがパウロはここで私たちが「聖なる者」つまり、キリストの愛に似る者にふさわしく生きなさいと語りながら、「みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません」と私たちが通常の生活で語るべき会話の内容について注意を向けるのです。
 多くの聖書注解者たちはここに記された「冗談」と言う言葉で表される行為が当時の社会では一般的社会人が兼ね備えるべき美徳の一つであったと言うことを指摘してます。つまり、当時の社会ではむしろここでパウロが「聖なる者にふさわしくない」と退けている行為の内容が必要不可欠の内容であったことを言い表しています。つまり、冗談の一つでも上手に語らなければ一般社会では「堅物」として敬遠されてしまうと言ったものだと考えることができるのです。
 それではパウロは私たちに「堅物」として生きるようにと勧めているのでしょうか。興味ぶかいのはこの文章の最後にパウロは「このようなことを語れ」と命じる内容です。「それよりも、感謝をあらわしなさい」(4節)と彼は勧めています。実はこの言葉にも解釈上の問題があります。なぜなら、私たちが「感謝をあらわしないさい」と考えるときはすぐに神への感謝と言うことを頭に浮かべるからです。だから、私たちはここでパウロが語ろうとしているのは会話の中で神への感謝をつねに表しなさいと言う勧めだと考えることになるのです。ところが宗教改革者のカルヴァンはその点については「もしも、「他の人々が冗談を言ったり駄弁を弄したりして楽しんでいるとき、あなたがたは神に感謝を献げなさい」とかれが言ったとしたら、それはあまりにも窮屈すぎる」と語り、この言葉を「神への感謝」の意味と考えることを退けているのです。そしてカルヴァンはこの言葉をむしろ人に対して向けられる「優しさ」とか「穏やかさ」と言った意味を表す言葉だと言っているのです。つまり、私たちは日常の会話の中で進んで「優しさ」、「穏やかさ」を表す言葉を語るべきであるとパウロは言っていると解説しているのです。

3.優しさと穏やかさを表す言葉を語る
(1)共に暮らせば、似る者となる

 それでは私たちは日常生活の中で「優しさ」、「穏やかさ」を表す言葉をどのようにして語ることができるでしょうか。私は大学生のときにはじめて寮生活、家族を離れて他人と一緒に寝起きを共にする生活をしました。あるとき、自分の会話が寮で一緒に生活している先輩の言葉によく似てきていることに気づいたことがあります。別に私はその先輩を尊敬していたわけではありません。むしろ、嫌な先輩だなと敬遠していたところがあるくらいです。しかし、私は毎日、何度も繰り返してその先輩の言葉を聞いていて、無意識に自分もその言葉を身につけてしまったようなのです。
 むかし、ある牧師に聞いたことがあります。長い間、同じ教会で生活している教会員は知らず知らずに祈りのときに、同じような言葉や祈り方をするようになると言うのです。つまり、私たちが「優しさ」、「穏やかさ」を表す言葉を語るためには、私たちの模範となる人物と共にくらさなければならないのです。そのような意味で私たちはキリストと共に生きることが大切なのです。この方と共に生きるとき、私たちはその発言においてもその方と似る者とされるからです。
 さてここでもう一つ大切なのは「優しさ」にしても「穏やかさ」にしても、表面的な言葉だけの問題ではなく、その言葉が本当に心のこもったものになることが大切であると言うことです。「顔は笑っていても、目は笑っていない」と言う言葉をよく聞きます。私たちの外面と内面が一致していないことを表している言葉です。私にも、そんなことがよくあります。どうしてそうなってしまうのか、よく考えてみると、おそらく自分の心の緊張が解けていないことが原因になっているのです。つまり、「優しさ」や「穏やかさ」を表す言葉を語るためには、私たちの心がまず優しくなり、穏やかにならなければならないのです。そのために私たちの心の緊張が解きほぐされている必要があるのです。それではそのためには私たちはどうしたらよいのでしょうか。

(2)偶像崇拝者ではなく

 私は今日の箇所の聖書の言葉を最初に読んだとき、一番興味を引いたのは次の5節の言葉です。
「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい」。
 パウロは「みだらな者、汚れた者、また貪欲な者」たちを「偶像崇拝者」と呼んでいるのです。どうして彼らが「偶像崇拝者」と呼ばれるのか私は最初に疑問を抱きました。その上でパウロは彼らはキリストと神との国を受け継ぐことはできません」と言っているのです。彼らは私たちが決して見倣ってはならない下品な人たちというのではなく、明らかに信仰に反する行為を行っていると断罪しているのです。そこである聖書解説者は「みだらな者、汚れた者、また貪欲な者」たちは自分の心を神としている点において「偶像崇拝者」であると解説しています。つまり、その人の心の中心はいつも自分であって、本来神様に座っていただく場所から神を押しのけて、自分がその場所に座っているのです。
 実は私たちの心が「穏やかではない」のはここに問題があるからではないでしょうか。本来、神様に座っていただく場所に、自分が座ってしまっています。だから、自分ですべてのことを何とかしなければならないと必死に考えて心穏やかではなくなってしまっているのです。
 このような意味で私たちが「優しさ」、「穏やかさ」を表す言葉を心から語るためには、私たちの心の中心に神をお迎えして生きる必要があることが分かります。なぜなら神に自分の人生を委ねることで、私たちの心には平和が生まれ、穏やかで、優しい気持ちが甦るからです。
 最初の人間にへびは「神のようになれる」と誘惑して、彼らを神から遠ざけることを考えました。しかし、パウロが語る「神に倣う者」となると言う言葉はこのヘビの言葉とは全く違った意味を持っています。なぜならこのパウロの勧めを実現するために私たちは神と共に生き、神に私たちの心の中心に座っていただく必要があるからです。そしてその生き方を可能とするためにイエスは私たちのために「香りよき供え物」となられたのです。私たちもこのキリストの愛に生かされることによって、「優しさ」と「穏やかさ」を表す言葉を語る生活が可能になるとパウロは教えています。

【祈祷】
天の父なる神様。
キリストによって示されたあなたの愛を言葉では知りながらも、その愛に生きることがなかなかできない私たちです。どうか私たちに聖霊を遣わしてくださり、キリストの愛を心を昼も夜も心に刻む者としてください。心の王座をあなたに明け渡し、あなたからくる平和によって、自らも兄弟姉妹に対して「優しさ」や「穏やかさ」を表す言葉を語ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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