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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「光の子として生きる」

(2011.08.21)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙5章6〜20節(新P.357)

6 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
7 だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
9 光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。
10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、
19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

1.価値観を異にする社会の中で信仰者として生きる

 この夏も仕事を休んでそれぞれの故郷に帰られた方も多くあったと思います。都会を離れて数日でも自然の豊かな田舎に帰ることは私たちの健康にもよいことだと思います。また、久しぶりに離れて暮らす家族や親類の人たちと会う機会もあったのではないでしょうか。ただ、このような機会で難しさを感じることがあるのは、ちょうどこの夏期休暇の時期にあるお盆の仏事に対してキリスト者として私たちがどのように対処すべきかと点です。私の場合は、親類の家を回って挨拶をしますが、その際「私はキリスト教徒なのでお線香はあげられません」と説明して、仏事に加わらないことの許しを請うてきました。
 ほとんどの親類は私がキリスト者で、しかも教会の牧師をしていることを知っていますので、私がこのような行動をすることを最近は理解してくれているようです。それに一番よかったのは、私が数年前に亡くなった父の葬儀を教会で、キリスト教式で行ったことです。その席に出席した親類は明らかに私がキリスト教徒であり、そのキリスト教がどのような葬儀をするかを目で見ることができたからです。
 お盆の季節でなくても、キリスト教徒が少数であるこの日本の社会にキリスト今日信仰を持って生きることで、私たちは様々な困難にぶつかることがあります。そのとき私たちはどのように考え、どのように行動したらよいのでしょうか。今、私たちはこの礼拝で続けてパウロの記したエフェソの信徒への手紙を学んでいます。この手紙を受け取ったキリスト者は明らかに違った価値観や宗教を持っている社会の中で少数者として生きていた人たちであったと考えることができます。その点で、私たちはここに記されたパウロのアドバイスを私たちにも重要なアドバイスとして聞くことができるのではないでしょうか。

2.光の子として歩め
(1)仲間に加わるな

「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(6〜7節)。

 前回の箇所の最後には「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい」(5節)と言うパウロの言葉が記されていました。この「みだらな者、汚れた者、また貪欲な者」は自分自身を神としているために「偶像崇拝者」と呼ばれていると言うことも私たちはその時学びました。ここで語られている「むなしい言葉」あるいはそれに基づいて行動する人々は先にパウロが取り上げた「偶像礼拝者」たちと同様な人々を語っています。ですからパウロは「神の怒りは不従順な者たちに下る」と語って、自分自身を神とする者に対して神の厳しい裁きが下ることを語っています。なぜなら、神の厳しい裁きに耐えうるためには誰もキリストの贖いによる赦しを受けなければならないからです。人は自分の力では自分を罪と死の呪いから救い出すことは決してできません。ですからそれがどんなにこの世の知恵に満ち、また説得力があるものであったとしても、キリスト以外に救いがないことを知る私たちはその仲間に加わってはならないとパウロは語っているのです。

(2)主にむすばれて光となった

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(8〜10節)。

そこでパウロはこの手紙の読者たちが今、神によってどのような者にされているかを思い出させようとしています。私たちはキリストを信じる以前はこの世を支配する闇の力によって暗闇の中に生きていました。しかし、私たちはキリストを信じることにより、このキリストと結びつけられて、彼が持っている賜物に共にあずかれる者とされたのです。キリストは真の光であると聖書は語っています(ヨハネによる福音書1章4〜5節、9節)。ですから私たちもここでは「光となって」いると言われているのです。そしてパウロはその私たちに「光の子として歩みなさい」と勧めているのです。

パウロはここで光のもたらす「果実」として善意、正義、真実が生じると語っています。この善意、正義、真実は私たちが自身から生まれるものではありません。これらのものは私たちが信仰によって結びつけられたキリストから生まれるのです。ですからキリストはこれらの実を私たちを通して豊かに実現させてくださるのです。これらの実は私たちとキリストがしっかりと結びつけられていることを証しする証拠であるとも言えるのです。

3.明るみに出しなさい

 そこでパウロは光の子として歩むべき私たちに「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(10節)と語り、その吟味に基づいて「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」(11節)と教えます。
 ここには大変に興味深い私たちに対するアドバイスが語られています。パウロは「実を結ばない暗闇の業に加わらない」こと、つまりそこから完全に私たちが身を引くことだけを語っているのではありません。むしろ彼は「それを明るみに出しなさい」と私たちに勧めているのです。自分だけが暗闇の業に加わらないように努力することは確かに困難ではありますが、不可能なことではありません。なぜなら、それらの暗闇の勢力と完全に関係を断って暮らしていくと言う方法があるからです。それなら自分だけはそこから来る害から逃れることができます。ところがパウロはここで私たちが暗闇の世界に生きる人々との交わりから身を引くのではなく、積極的に関わる必要があると語っているのです。それが「それを明るみに出す」と言う言葉の意味です。
 それでは「それを明るみに出す」とはどういうことでしょうか。このすぐ後に 「彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです」(12節)と語られていますから、私たちが彼らの悪事を暴き、スキャンダルを明らかにすることだと考えることもできます。しかし、パウロはそうは言っていないようなのです。なぜなら彼は次のように続けて語っているからです。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています」(13〜14節)。つまり、「明るみに」するのは今は暗闇に生きる人々がやがて「光となるため」に、キリストの救いを受けて、彼らもまた光の子となるためにするのだと説明しているのです。
 この「明らかにする」と言う言葉は昔の口語訳では「指摘する」と訳されています。また、「反駁」するとか「反論する」と言う意味を原語のギリシャ語の単語は示しているようです。つまり、「他人のことだから黙って見過ごせばよいのだ」と言うのではなく、その生き方が間違っていること指摘して、彼らが自分自身を神とする偶像崇拝の生き方では決して救いがないことを説得するようにと言っているのです。そうすれば彼らもまた、その過ちから解放されるために、キリストの救いを求めるようになります。そしてやがては光の子とされるとパウロは語るのです。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(14節)

 私たちを通してキリストが働いてくださいます。だから今はまだ暗闇に生きる者も、やがては私たちと同じように光の子とされる望みがあると言うのです。暗闇に生きる者は自分が暗闇に生きていることさえ分かりません。だから私たちが進んで光の子として、その光を照らして、彼らが暗闇に生きていることを明らかにしなければならないと言うのです。

4.霊に満たされて
(1)酒に酔っても解決にはならない

 それでは私たちはどのようにして暗闇の中で、その光を輝かせることができるのでしょうか。暗闇に生きる人たちにどのようにその光を照らすことできるのでしょうか。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(15〜17節)。

 ここでもパウロはキリストに救われた者が主の御心が何であるかを悟りながら生きるようにと勧めています。なぜなら私たちは「時をよく用いる」ことが大切だからです。この時とは、何時何分と言った「相対的」な時間について語っているのではなく、神の審判の時が近づく今、それまでに自分の人生に残された「絶対的」な時間を語っています。私たちの命の日々は限られています。だからこそ私たちは自分に残された時間を有効に用いる必要があるのです。そのためにパウロは「主の御心が何であるかを悟りなさい」と語り、私たちが自分の思いではなく、主の御心に従って歩むべきことを勧めています。なぜなら、私たちが主の御心に従って生きるなら、私たちの人生を永遠の神の計画のために用いることができるからです。
 そこでパウロは私たちに具体的に次のように語ります。

「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(18〜19節)。

 ここでは「酒に酔ってはいけない」と言われています。確かに酒ぐせのために財産まで失ってしまったと言う話を聞くことがあります。それならば、生活に支障をもたらさない程度に、ほどほどの酒をたしなめばよいとここは解釈すべきでしょうか。この文章の本当の意味を理解するためには次の「むしろ、霊に満たされ」と言う言葉を考える必要があると思います。つまり、この言葉から考えるとここでパウロが語っている「酒に酔う」とは「霊に満たされる」ことの代用品として行われていると考えることができるからです。聖書注解者によれば当時は、異教の宗教的儀礼の中で人々が酒を飲み、陶酔状態になると言うことがあったようです。今の現実や自分自身を忘れていい気持ちになることができるからです。
 「酒は涙か、ため息か、心の憂さの捨て所」と言う古い歌があります。私たちには酒を飲んで捨て去りたい現実があります。そして逃れたい問題があるから酒を飲みます。しかし、この方法が無意味なのは、結局、それでは本当の解決にはならないからです。醒めればすぐに忘れたはずの現実や問題が目の前に迫っているのです。これでは結局、私たちは財産はおろか、自分自身までだめにしてしまうだけなのです。

(2)私たちを救ってくださる神を礼拝する

 そこでパウロは勧めます。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(18〜19節)。

 「御霊に満たされる」とはキリストが御霊によって私たちに提供してくださる救いを受け入れると言うことです。そして、私たちがその御霊に導かれて救いの生活を送ると言うことなのです。
 「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして

、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(19〜20節)。

 ここに語れているのは神に感謝の礼拝を献げると言うことです。私たちを救ってくださった神に感謝して生きることをパウロは勧めているのです。私たちを悩ませている今の現実や、解決のつかない問題を忘れなさいと言っているのではありません。むしろ、その現実を抱え、問題を持っている私たちを必ず救いへと導いて下さる方を信じて、その方に感謝しなさいと言っているのです。ここに至って、理解できることは、私たちが光の子として歩み、暗闇の業を明らかにするためには、私たちが私たちを救って下さった神に感謝し、礼拝をすることだとパウロが言っていることです。彼らの業を明るみにしなさいと言うのは、言葉だけで攻撃すると言うことではありません。むしろ、この世の生き方とは違って神に感謝して生きることにこそ本当に希望があることを私たちが身をもって示すことが大切なのです。
 日曜日の朝、身支度を調えて教会の礼拝に向かう私たちを近所の人々は奇異に感じるかもしれません。「日曜日くらいゆっくり休めばよいのに、よほど生活に余裕があるのだろうか」、「それよりも、与えられた時間を有効に用いたい」と家事にいそしむ人々がいます。その人々とは違い、私たちはこの日曜日の貴重な時間を使って礼拝を献げています。
 しかし私たちが日曜日の朝、教会の礼拝に向かうのは、神様が私たちを救ってくださっていると言う事実を知っているからです。確かに私たちもそれぞれ深刻な問題を抱えています。忘れたい現実があるかも知れません。しかし、私たちはその私たちを救うことができる方を知っているのです。だからこそ私たちは喜んで自分に残された時間を神のために使いたいと思っているのです。そしてパウロはこの私たちの信仰生活を通して、キリストがその光を私たちだけではなく、今は闇の世界に生きている同胞たちに光を照らしてくださると言っているのです。だから、私たちは光の子として、キリストに結びつけられ、霊に満たされて神に感謝の礼拝を献げる生活と続けるべきなのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちもかつては暗闇の力に支配され、暗闇の中に生きるものでしたが、今やキリストにある救いを通して私たちを光りとし、光の子として生きることができるようにしてくださったことを感謝します。私たちを御霊で満たし、喜びと感謝を持ってあなたに仕え、あなたを礼拝する者としてください。願わくは私たちの生活を通して、あなた自身が光を表わしてくださり、暗闇に生きる人を正し、救いを受け入れる者としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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