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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「妻と夫」

(2011.09.11)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙5章21〜33節(新P358)

21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
32 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

1.パウロは何を教えているのか

 エフェソの信徒への手紙も最後の部分に近づいています。そこで今日の聖書箇所を含めて6章9節まではキリスト者の家庭生活についての助言が記されていると考えられています。まずここでは、妻と夫の関係(5章21〜33節)、そして子と親の関係(6章1〜4節)、さらに最後には奴隷と主人との関係(6章5〜9節)が語れます。最後の奴隷と主人の関係が「家庭生活」の中に入ると考えるのは私たちには意外な感じがしますが、当時の社会では奴隷と主人も寝食を共にする同じ家族の一員として考えられていたのでしょう。
 これらの家族関係については、この手紙と同じように使徒パウロが記したと考えられているコロサイの信徒への手紙にも同様の内容が記されています。そこでも妻たちに、また夫たちに、そして子供や奴隷、さらには主人に向けてそれぞれ助言が記されているのです(コロサイ3章18〜4章1節)。ただコロサイの信徒への手紙の方は非常にシンプルにそれぞれの立場に立つ人々に助言を語っているのに対して、今日のエフェソの信徒への手紙の内容は少し複雑な内容になっているように思えます。その理由はそれぞれの関係を語る言葉の中に、何度もキリストと教会との関係を説明する言葉が挿入されているからです。まず、妻たちには教会がキリストに仕えるように夫に仕えなさい(24節)と語られています。また、夫たちにはキリストが教会を愛したように妻を愛しなさい(25節)と勧められているのです。さらには「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と言うように神様が定めてくださった結婚制度を取り上げながら、パウロは「わたしは、キリストと教会について述べているのです」とまで言っています(30〜31節)。こうなるとパウロは夫婦の関係を語ろうとしているのか、それともキリストと教会との関係を語ろうとしていのかよくわからなくなってしまうのです。
 ですから私たちはまず、ここでパウロが何をここで語ろうとしているのか、何をこの手紙の読者たちに教えようといるかについて簡単に理解した上でこの手紙の部分を考えていく必要があると思います。まず第一にパウロは神が定めてくださった結婚制度、つまり夫と妻の関係はキリストと教会の関係をよく表すことができると考えています。なぜならどちらも元々、分かれて生活していた者が一つとされ、同じ体の一部とされると言うところで似ていると考えられるからです。ですから私たちがキリストと教会との関係を理解したいならば、まず家庭における夫と妻の関係を念頭において考えればよいと言うことになるのです。神様はこのキリストと教会との関係を私たちによく理解させるために結婚制度を定めてくださったとまでパウロは考えていた様子があるのです。
 そこで第二に、私たちが普段経験している夫と妻の関係は、私たち人間の不完全さと弱さの故に神様が意図した本来の夫と妻の関係から離れて行ってしまっています。そこで私たちが神様の考えられた本来の夫と妻の関係に近づくためには、キリストと教会との関係をお手本にすることができるともパウロは教えるのです。なぜなら、夫と妻の関係とキリストと教会の関係は本来よく似たものとして神様が造ってくださったからです。私たちはこのようにキリストと教会の関係と夫と妻の関係が深いつながりを持ていることを理解した上で、本文の文章を読む必要があるのです。

2.教会がキリストに仕えるように

 そこでまずパウロは妻たちに次のように勧めています。

 「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」(22〜24節)。

 以前、結婚式のための準備会をしていたときに一人の男性から「こんな男女差別を教える聖書の言葉を結婚式で読んだら、結婚式に参加した人たちが躓くので読むのをやめてほしい」と言われたことがあります。そう言われてもこちらは聖書の言葉を勝手に読み替えることもできないので、ともて困ってしまた経験があるのです。妻に対して夫に仕えるべきである、また夫は妻の頭であると言う言葉が男性にとってとても都合のよい言葉であり、女性には不利な言葉とその人は理解したのではないでしょうか。しかし、この聖書の言葉をよくよく読んでみると私はむしろ男性の方がとても不利な取り扱いを受けているのではないかと思えるのです。
 ここでは「夫は妻の頭だからです」と言われています。なぜならば神様はそのように夫と妻の関係を最初から定められているからだと言うのです。しかし、パウロはこの関係を説明するとき「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように」と説明を加えています。これはどのような意味でしょうか。キリストは救い主として教会に集まるすべての人々への責任を果たされます。そこに集う人々がどんなに不完全で弱い存在であったとしても、キリストは彼らを完全な救いに導かれることができるのです。このキリストの責任が頭である夫にも与えられているとパウロは語っているのです。これでは夫は大変な責任を負わされていることになります。いったい、こんな責任を誰が果たせると言えるのでしょうか。
 このように考えるともう一方の妻が持つ責任はきわめて軽いと考えることもできるのです。「教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」。教会はキリストに仕えます。しかし、その教会に集まる人間は不完全であり、皆弱さを持った者たちに過ぎません。そのような意味で教会はその持てる力を尽くしてキリストに従う必要があります。しかし、そこには人間の弱さが許容されるような余地がまだ認められているのです。しかし、夫に対しての要求はそうではありません。

3.キリストが教会を愛したように

 「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(25節)。

 「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように」とパウロが語ります。ここでは夫たるものの妻に対する愛の見本としてキリストの教会に対する愛が語られているのです。神の御子であり、ただ一人完全な人間でもあられるイエス・キリスト、この方と同じ愛を表せと教えられているのです。しかも、そのキリストの愛は十字架上でご自分の命まで捧げられたその愛です。このように夫の妻に対する愛の見本は、イエス・キリストであり、そこには全く人間の弱さや不完全さは考慮されていないのです。ですからこれは大変な要求であると言えるのです。
 結婚式でこの聖書の箇所を聞く新郎新婦の大部分はそんなに深刻になってこの聖書の言葉に耳を傾ける訳ではないのかもしれません。「結婚生活には愛が大切であること、お互いを支え合って生きることが大切であることを私たちはすでに知っている。自分たちは実際にお互いを愛している」と考えいるのかもしれません。しかし、聖書が夫と妻に求める愛の関係、あるいはお互いに仕え合う関係は、私たちが通常考えていることよりも、遙かに困難な要求が語られているのです。
 それでは私たちはどうしたらこの聖書の語る要求に夫として、あるいは妻として互いに答えることができるのでしょうか。

4.厳しい要求の意味
(1)仕え合うことで礼拝を献げる

 通常、私たちは自分の夫に仕えようとする場合、あるいは自分の妻にその愛を示そうとするとき、何を考えているでしょうか。あるいはこれらの聖書の要求を実現させようとするときどんな困難を感じているでしょうか。おそらく、私たちはこの要求に対して応えることのできる力や能力を自分は持っていないと考えるはずです。
 しかし、それ以上に考えるのは自分が仕えようとする夫にそれだけの価値があるのか、あるいは妻にそれだけの価値があるのかと言うことではないでしょうか。「聖書はそのように教えるけれど、自分の夫にはそれほどまでして従う価値はない」と語る妻もいれば、「自分を犠牲にしてまで、妻にそんな愛を示す意味があるのだろうか」と考える夫がいます。私たちはいつも相手の側に「仕える」だけの、あるいは「愛する」だけの価値があるかを判断し、その価値にふさわしいだけの対応をしようと考えるからです。しかしこれではキリストが私たちのために示した愛とは全く違ってくるのではないでしょうか。
 聖書は「あなたの夫はこんなにすばらしいところがある」、「妻にはこんなによいところがある」、「それを忘れてはならないとか、それをちゃんと認め合いなさい」と教えて、その上で夫と妻に対してこれらの要求をしているのではないのです。それでは、聖書が何にを根拠にしてこれらの要求を夫や妻に求めているのでしょうか。
 そのことについてパウロは21節で次のように語ります。
 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。実はこのパウロの言葉は今日の夫と妻の関係だけではなく、次に語られていく子と親の関係、奴隷と主人の関係にも深く結びつく重要なキーワードなのです。「キリストに対する畏れ」、この日本語聖書は「畏れ」と言う言葉を畏敬の「畏」、つまり「畏れかしこむ」と言うときに使う文字を使って表現しています。恐怖すると言うときに使う「恐れ」とは別の言葉で表現しているのです。これは外側からの影響によって表される反応と言うよりも、自らの内側から自然にわき上がってくる反応を表す言葉であると言えます。キリストに対する「畏れ」とは、キリストが何か自分に災いを与えるのではないかと言ったような「恐れ」を言うのではなく、自分を救い、導き、自分から一時たりとも目を離すことがない方、また自分のすべてを知った上で、その自分のために命まで捨てて愛してくださるキリストに対して自然に起こる「畏れ」と言ってよいのです。
 私たちはこのキリストに対する「畏れ」をいつどこで感じているのでしょうか。それはキリストとの出会いを経験し、その恵みを感じることができる礼拝の中ではないでしょうか。となると「キリストに対する畏れをもって」とは、「キリストを礼拝する」と考えてもよい言葉になります。つまりそう考えるとここでは、私たちが互いに仕え合うことを通してキリストを礼拝すると考えることができるのです。つまりここに語られる夫と妻との関係において要求されている事柄は、私たちのキリストに対する礼拝の姿勢を表す言葉でもあると言えるのです。私たちは家庭においてお互いに仕え合うことを通してキリストを礼拝することができると考えることができるのです。
 私たちがお互いに仕え合うと言うことは、自分たちの利益のためではなく、私たちを救ってくださったキリストに礼拝を献げることであると言えるのです。

(2)私たちの関係を完成させるキリストの救いのみ業

 さらにもう一つ私たちはこのキリストの救いのみ業をこの夫と妻の関係を考えるとき大切な理由があります。パウロはここでキリストの救いについて次のように語ります。

 「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」(26〜27節)。

 キリストを信じて集められた私たちはそこで洗礼を受けることによって教会の一部とされました。そしてその教会をキリストは「清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く」ものとしてくださると言っているのです。この地上に存在する現実の教会は不完全で、弱さをもち、またそれ故に戦い続ける教会です。しかし、その教会を完全なものにしてくださるのは私たちの努力ではなく、キリストの救いのみ業なのだとパウロは語るのです。
 これはここに語られる夫と妻の関係にも共通して言えることなのではないでしょうか。私たちは地上に生きる限り、弱さを持ち、不完全な者でしかありません。その点で聖書の要求を完全に満たすことは私たち自身の力だけでは不可能に近いのです。しかし、私たちがそれでもこの要求を私たちには無意味な「絵に描いた餅である」と言わなくてもいいのは、この要求の前に、私たちを救ってくださっているキリストのみ業があるからなのです。そのキリストのみ業が私たちの人間の関係の中でも働いてくださるのです。ですからこのキリストの救いのみ業とその成就の約束がこそが、ここに示されている聖書の言葉をもやがては本当のものとしてくださることを私たちは信じて、この言葉に従っていきたいのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちのために家庭を与え、私たちが仕え合うことでキリストを礼拝することができるようにしてくださっているあなたの恵みに感謝します。教会をそして私たちの家庭を神様にふさわしものとするためにキリストのみ業があったことを覚えます。どうか困難な事柄を中でもいつもキリストのみ業を信頼して、聖書の言葉に従っていくことができるように私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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