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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「主に結ばれた者たちの人間関係」

(2011.09.18)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙6章1〜9節(新P.356)

1 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
2 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。
3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
5 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。
6 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、
7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
8 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。
9 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。

1.キリスト教倫理の目標
(1)豊かな人生を送るための掟

 前回は妻と夫との関係について語るパウロの言葉から学びました。今回は続けて子供と親、奴隷と主人の関係について語るパウロの言葉から学びます。パウロはこの部分の冒頭の子供たちに対する勧めの根拠として「父と母を敬いなさい」と言う大変に有名な聖書の言葉を引用しています。これは旧約聖書の出エジプト記の20章などに記されている「モーセの十戒」と呼ばれる戒めの一部です。この十戒は私たちのキリスト教会でも使徒信条や主の祈りに並んで大切にされる文章の一つです。
 ただ、私たちはこの十戒の内容について、他の使徒信条や主の祈りよりも少し抵抗感を感じるところがあるのではないでしょうか。それはこの十戒の言葉の中に「何々してはならない」と言う言葉が繰り返して登場しているからです。この言葉だけを読むと十戒は私たちが「してはいかない」禁止事項だけを教える文章だと考えてしまうのです。ですから十戒を私たちの自由な行動を様々に拘束する鎖のようなものだと考えてしまう恐れも生まれるのです。しかし、十戒は私たちに「何をしてはならないか」と言う禁止事項を教えているのではなくて、むしろ「何をすべきなのか」と言うことを教えていると言っていいでしょう。つまり私たちが神に与えられた人生を豊かに過ごすための秘訣それがこの十戒の中に語られているのです。ですからこの第五戒には「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジ20章12節)と言う言葉が付け加えられています。この祝福の約束は私たちに難しい戒めを守った代わりに与えられる交換条件として語られているのではありません。、むしろこの戒めが私たちの人生に与える祝福をもたらす大切な鍵のようなものだと教えているのです。
 十戒の戒めはそのような意味で私たちの人生が豊かで意味のあるものとなるために神が与えてくださったものだと言えるのです。ですから、宗教改革者カルヴァンの伝統を継ぐ私たち改革派教会ではこの十戒を救われた者がどのように生きるべきかを教える大切な指針として捉え、教え続けてきました。神の救いに与った者たちがどのようにして神と共に歩み、豊かな人生を送ることができるかをこの戒めは教えているのです。

(2)神の前には差別はない

 今日の聖書の箇所には子と親の関係だけではなく、奴隷と主人との関係が取り上げられています。特にこの奴隷と主人の関係では奴隷制度を肯定して、それを指示するかのようなことを言っているように思える文章になっています。かつてたくさんのアフリカ人労働者を農場で働かせていたアメリカ南部の農園の農場主たちはこのパウロの言葉を引用して、「奴隷は主人に従うように」と命じたと言います。こう考えると、パウロの言葉は時代遅れな奴隷制度を肯定するような教えであると考えることもできます。しかし、この箇所でもパウロは「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」(9節)と語っています。つまり、神の前では奴隷も主人も同じキリストに仕える者たちであると言っているのです。神は奴隷であっても、その主人であっても差別をされることがないのです。このように時代的な制約を受けながらもパウロは神の前ではどのような人間も等しく取り扱われているとこの聖書の箇所で語っているのです。

2.子と親の関係
(1)子供たちよ

 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです」(1節)とパウロは教えます。子は親の所有物でその親が自由に扱う権利を持っていると古代社会では考えられていました。そのような時代にあって、パウロは「子たちよ」とこの言葉を聞く聴衆に呼びかけています。教会の礼拝には様々な人々が出席しています。親子で礼拝に出席する者、あるいは使用人と主人、または奴隷と主人といろいろな顔ぶれがその場には集まっているのです。ここで興味深いのは、パウロは「子供たち」と呼びかけて彼らが大人と同じように聖書の言葉を聞く権利があること、またその言葉に従う義務が与えられていることを語っているところです。つまり、子供たちに「ただ親の言うことを黙って聞いていればよい」と教えるのではなく、キリストを信じる者として子供たちに「あなたたちは何をすべきかを考えてみなさい」と教えているのです。パウロはここで教会の礼拝に集まる子供たちを神の前では一人の人格として取り扱っています。子供は単なる親の「持ち物」ではありません。このような観点から語られるパウロの教えは当時の社会の中では画期的なものだったと言えるのです。
 先日、祈祷会で主の祈りで神を「父」と呼ぶことについて学びました。救われた者の喜びは天の父、つまりイエス・キリストの父である神を自分の「父」と呼べることです。イエス・キリストは私たちを父なる神の子とするためにこの地上で救いのみ業を成し遂げられからです。ただ、私たちが神を「父」と呼ぶとき、いつも誤解してしまうのは地上の親子関係を通して知る父親の姿を通して神を理解しようとする点にあるのです。この地上には家庭を顧みない父親がいます。また子供の言葉に耳を傾けず、身勝手な態度をとり続ける父親がいます。これらの父親の姿に対して聖書が語る天の父は「破格」つまり型破りの父であると考えることができます。私たちは天の父のような父親にはなることができないのです。

 それでありながらも、十戒の中のこの第五戒が神に対する戒めと人間に対する戒めの中間におかれていることにはやはり重要な意味があると考えられています。つまり、神と人間をつなぐものとして聖書は親子の関係を取り上げているのです。そのような意味で、ここでも子は親に従うことを通して、神に従うことを学ぶことができると言うことを言っているように思えます

(2)父親たちよ

 そう考えるならば、次に取り上げられる「父親」たちへの勧めは大変に重要になってくるのが分かります。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(4節)。ここでは「子供を怒らせてはならない」と語られています。なぜなら怒っている子供にこちら側からの正しいメッセージを伝えようとしても、それは困難だからです。もちろん、「子供を怒らせてはいけないから、何でも子供の言うことを聞きなさい」とパウロはここで言っているのではありません。神はここで同時に「主がしつけ諭されるように、育てなさい」とも父親たちに語っているのです。だから子供を怒らせてはいけないのは。こちら側の正しいメッセージを伝えて子供を諭し、育てるためであると言えるのです。
 しかし、そうは言ってもやはり子供に対して感情的になり、時には手まであげてしまうのが地上の父親や母親であるべき私たちの姿ではないでしょうか。そんな私たちが子供たちに何を教えることができるのでしょうか。そこで肝心になってくるのは先ほど触れたように、親には子供たちに神を教えるつとめが託されていると言う点です。このエフェソの信徒への手紙を解説するある本には宗教改革者マルチン・ルターの言葉がかなりの長文で引用されていました。親は子供たちが将来路頭に迷わないように教育を身につけさせ、よい仕事に就けるようにと願い行動しています。また少しでも彼らに多くの財産を残そうとするのです。しかし、ルターは親に与えられた勤めはもっと違うところにあると教えています。親たちに求められているのは、たとえそれらのものがなかったとしても子供たちを豊かに生かしてくださる天の父なる神を子供たちに教えることだと言うのです。
 先日、新聞に一人の母親の抱える問題に対する人生相談の文章が記されていました。大学を卒業しても、まともに就職活動もせずに毎日ぶらぶらしている娘を心配する母親の相談です。その母親は「このままではとても娘のことが心配で仕方がない」と言うのです。このままで家に帰ってきても近所の人たちの悪い評判になりかねないと言います。それなのに娘はちっとも自分のことを深刻には思っていない様子です。「もしかしたら娘は心の病に犯されているのかもしれない」、だから「無理強いしても心療内科にでもつれていくべきなでしょうか」…と語るのです。その相談の回答者は心配してノイローゼになっているのはあなた自身ではないかと母親に語りかけています。娘の姿を恥ずかしいと思い、心が病んでいるではないかと考えるこの母親こそ問題であり、その母親から出るメッセージは娘さんを励ましたり、勇気づけたりすることは決してできないと言うのです。そして回答者はまずあなた自身が娘さんを信じてあげることが大切だと諭しています。
 弱さを持った不完全な親が、それ以上に弱さを持った子供を育て行くと言う現実がこの地上にはあります。私たちの願望通りに家庭は動いていく訳でありません。しかし、そのような中でも大切なのは親も子も、その私たちを助け導いてくださる神を信じ続けることではないでしょうか。また親に求められているのはその神を子供たちに伝えていくことではないでしょうか。そのような中で、親は子よりも自分の弱さや不完全さを知る立場にあります。だからこそ、その私たちが信頼し、自分の人生をゆだねていけることができる神がおられることを子供に伝える勤めが親たちには委ねられているのです。

3.奴隷と主人の関係
(1)自分の意志によって従う自由

 さてパウロは続けて奴隷とその主人に対しての勧めを語り続けています。

 「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」(5〜7節)。

 ここでパウロは奴隷である人々が「何も考えずにただ奴隷は主人に従うべきです」と簡単に教えているのではありません。むしろ、大切なのは彼らに向けて「真心を込めて、心から喜んで仕えない」と言っていることです。これは同じ従うにしても「それが決まりだからいやいや従う」と言う意味とは大きく違っています。つまり自分の意志に基づいて主人に従いなさいと奴隷にたちに教えているのです。この言葉を言い換えれば、パウロは「あなたがたは奴隷であっても、その主人に自分の意志を持って従うことを決めることができる自由が与えられている」と教えているのです。
 ユダヤ人の心理学者ビクトル・フランクルは強制収容所と言う限られた空間の中で、「人間に残された自由と責任とは何か」を考え、追求した人物でした。パウロもまた奴隷として生きざるを得ない人々に対しても、それでもなおかつあなたたちにできることがあると語りかけているのです。

「あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」(8節)。

 奴隷と自由人ではおかれている環境は全く違っているのかもしれません。しかし、善いことを行えば、主が報いてくださると言う点では全く同じであると彼は教えているのです。この場合の「善いこと」とは人間の考える相対的な善悪を言っているのではなく、神の御心にかなうことと言う意味の言葉です。つまり、人間はたとえどのような立場に立たされていても、その場所で神に仕えることができるとパウロは教えているのです。私たちに与えられている環境は様々です。自由人のように様々な好条件を持っている人もいれば、奴隷のようにむしろ様々な事柄に拘束されて生きなければならない者もいます。しかし、パウロはそのいずれの立場に立たされたとしても、人は同じように神に仕えることができると言っているのです。

(2)皆、同じ主人に仕える者

 「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」(9節)。

 日本語聖書では「子供たち」、「父親たち」、「奴隷たち」、「主人たち」と呼びかけれているようになっていますが、ギリシャ語聖書では「父親たち」と「主人たち」の前には「また」とか「そして」と訳される言葉が付け加えられています。つまり、神は子供たちに求められるように、父親にも求めていることがある。また奴隷たちに求めていることがあるように同じように、主人たちにも求めておられることがあると語っているのです。パウロはこれらの人々の人間関係の間には一方が他方に「従う」と言う関係がありながらも、神からは同じような「責任」が求められているとも教えているのです。
 そのことがこの主人たちへの勧めの中に明確に語られています。「あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」(9節)。互いに地上で与えらている立場は異なっています。しかし、私たちは皆、同じ主人に仕えているのです。パウロは自らを主の「僕」、つまり「奴隷」として紹介しました(フィリピ1章1節)。同じように私たちは皆、主に仕える者としてこの教会に集められています。そして私たちの人間関係は私たちが主に仕えるために神が与えてくださったものであるとも言えるのです。だからこそ、私たちはこの関係を大切し、その中で神のために私たちができることを考え、行動することが大切なのです。

【祈祷】
私たちを教会に集め、キリストに仕える者としてくださったことを感謝します。私たちの置かれた立場、環境は違っていても、あなたはその中で私たちが神に感謝を献げて、生きる道を教えてくださいます。私たちがキリストに対する畏れを持って互いに仕え合うことができるように助け導いてください。また、何よりもこの地上にある限り不完全と弱さをもって生きる私たちを豊かに助けてくださる主を信じ、その主を私たちとつながりを持つ人々に示すことができるように聖霊を送り、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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