Message 2011 Message 2009 Message 2008 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
「神の武具を身につけなさい」

(2011.09.25)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙6章10〜20節(新P.359)

10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
18 どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

1.強くなりなさい

 パウロが記したエフェソの信徒への手紙の学びもいよいよ終わりの部分に近づきました。パウロはこの手紙の終わりにさしかかって、読者たちに改めて「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)と命じています。誰でも「弱く」なるより「強く」なりたいと思っています。ですから、そのために鍛錬を積んで自分を鍛える人がたくさんいます。しかし、パウロが「強くなりなさい」と勧めたのはこの手紙の読者たちが自己鍛錬に励むためではありませんでした。むしろパウロは、弱さを持った人を強くして下さる方に目を向けるようにと勧めているのです。だから彼は「主に依り頼み、その偉大な力によって」と言う言葉を最初に語っているのです。
 通常、私たちが誰かに「強くなりなさい」と忠告したり、逆に誰かから「強くなりなさい」と言われる場合にはどんな状況が考えられるでしょうか。その多くは家族や、身近な友達の力に頼る状態から抜け出して「これからは自分の力でしっかり立ちなさい」と言う自立を促すために語られるのではないでしょうか。
 ところがパウロは「強くなりなさい」と勧める場合にはこれとは全く反対です。自分一人の力でがんばろうとするのではなく、むしろ「もっともっと主に頼りなさい」と彼は私たちに教えるのです。ところが私たちは普段の信仰生活の中でパウロが言うように神様によって強くされることを望んで生きているでしょうか。なぜか不思議なことに私たちは切実に神様の助けを求めることを忘れてしまっています。つまり、私たちはいつのまにか自分一人の力でも人生はなんとかなると思っているのです。それはどうしてなのでしょうか。それは私たちの戦いの相手を見誤っているからです。戦いの相手の力を見くびってしまっているために、神に頼るほどではないと勘違いしてしまっているのです。だから、パウロはここで私たちの信仰生活における戦いの相手が誰であるかを読者たちにもう一度、思い起こさせようとしています。

2.暗闇の世界の支配者との戦い

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(11〜12節)。

 パウロは信仰者が戦うべき相手を「暗闇の世界の支配者」、あるいは「悪魔」と呼んでいます。「悪魔」と言うと私たちはホラー映画が描くような現実離れしたイメージを抱きがちです。しかし、聖書の語る「悪魔」はきわめて現実的な力を持った霊と言えます。「悪魔」は単に何か不思議な力を使って、私たちの周りで奇妙な出来事を起こすのではありません。むしろ聖書に登場する「悪魔」は巧妙に人間に近づき、働きかけます。「悪魔」の働きの具体的な姿はなかなか説明ができませんが、その働きの目的ははっきりしています。「悪魔」は私たちを神から遠ざけ、あるいは敵対させようとするために働くのです。そんために悪魔は人を苦しめることで、その人の神への信頼を失わせることもあります。また逆に、人に「神の助けなど必要ない」と感じるような申し分ない境遇を与えて、その人を神から引き離すこともできるのです。このように私たちを神から引き離そうとする出来事の背後にはこの暗闇の世界の支配者である「悪魔」が存在しているのです。だからこそ、パウロはその敵と戦うためには神の力が必要であることを力説しているのです。
 私たちは私たちの敵の正体をよく理解する必要があります。悪魔は巧妙に私たちに働きかけます。その力に私たちが自分の力で立ち向かっても決して勝利することはできません。だから私たちはその悪魔の力以上に、私たちが頼るべき方、私たちの救い主イエスの力を理解する必要があります。イエスの十字架は私たちをこの悪魔の支配から解放するために成されたものです。また、聖書はこの救い主イエス・キリストによって悪魔はすでに敗北を約束されていると言われているのです。ですから私たちはこの戦いに勝利するのか、敗北するのかわからないままに生きているのではありません。必ずイエスがこの戦で私たちに勝利をもたらしてくださる、その確信が私たちに与えられているからこそ、私たちは神を信頼して生きることができるのです。

3.神の武具
(1)悪魔との戦いのために身につけるべき武具

 そこで神に信頼しながら、この悪魔との戦いに向かう信仰者に対して、パウロは当時の兵士が身につけた装備を例にあげて、信仰者が装備すべき「武具」が何であるかを教えています。

「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(14〜17節)。

 「真理」、「正義」、「平和の福音」、「信仰」、「救い」。いずれも私たち信仰者にとって大切なものです。そしてそのすべては神から私たちに与えられる賜物であると言えます。私たちが悪魔との戦いに勝利するためにはいつもこれらの賜物を神から豊かにいただく必要があるのです。また、特にパウロはここで「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と言っています。この前の「帯」、「胸当」、「履物」、「盾」、「兜」はいずれも敵の攻撃をかわして、自分を守るための防衛の道具と言えます。しかし、最後に登場する「霊の剣」は相手を倒すために使われる攻撃の道具です。そしてパウロはその道具が「神のみ言葉」と言っていることに注目すべきです。

(2)み言葉によって勝利したイエス

 確かに、人類の始祖であるエバは悪魔の攻撃を前にして、この神のみ言葉を忘れてしまっています。創世記3章に登場する蛇はエバに「本当に神はそういったのか」と神が彼女に語られたみ言葉を疑わせようと詰め寄っています。しかも、このときのエバの答えは神が最初の人間に語られた言葉とは違っています。彼女はその神の言葉を勝手に換えてしまっています(参照:創世記2章16節、3章3節)。つまり、エバはここで神のみ言葉である霊の剣を使うことができずに、悪魔に敗北し、むしろその働きに屈服せざるを得なかったのです。
 しかし、私たちの主イエスはこの最初の人間とは全く対照的な戦い方を私たちに示してくださいました。そのイエスの戦い方は福音書の語る「荒れ野の誘惑」の中に示されています(マタイ4章1〜11節、ルカ4章1〜13節)。この荒れの誘惑を細かく解説することはここではできません。しかしここでのイエスの戦いのポイントは悪魔の働きかけに対して、神のみ言葉を武器にして立ち向かい、その戦いに勝利したと言うことです。私たちはこのように神のみ言葉こそが私たちを悪魔やこの世の暗闇の世界の支配者との戦いに勝利させる強力な武器「霊の剣」であることを覚えたいのです。
 私が神学生だった頃、その当時通っていた奉仕教会で一人の婦人からある日、「自分の周りに起こる不幸な出来事の原因は悪霊の働きではないか」と質問されたことがあります。そのとき私が何と答えたのか今ははっきりとは覚えていません。「その働きが悪霊の仕業であっても、またそうでなくても、すべての問題を解決する力は神様にあるのですから、神様を信頼すべきです」と言うような答えを語ったように思えます。
 パウロはここで私たちの戦いの相手が「悪魔」であると語りながら、だから特別な悪魔払いの方法を学びなさいと私たちに教えているのではありません。私たちにとって大切なのは神の武具を身にまとうことです。私たちが神に信頼し、神のみ言葉に耳を傾けていくならば、イエスは必ず私たちを最後の勝利へと導いてくださるのです。

4.霊に助けられて祈る
(1)祈りの必要性

 さて、パウロは悪魔との戦いに勝利する秘訣として最後に「祈り」の大切さを語っています。そして、彼はこの手紙の読者たちに自分のために祈ってほしいと願っているのです。

「どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(18節)。

 ときどき、何人かの「自分には祈ることしかできません」と言う言葉を聞きます。その言葉が祈りの力に対する信頼の言葉から出ているのなら問題はありません。しかし、そうではなく祈ることが「自分には何もできない」と言う言い訳の言葉になっているとしたら問題があると言えるでしょうか。なぜなら、聖書は祈りこそ私たちの問題を解決する最善も手段であると語っているからです。自分の持っている力で勝利できるのならば、その人は他に助けを求める必要はありません。だから祈る必要はないのです。しかし、パウロは何度も言うように私たちの戦いの相手は私たちが持っている力では決して太刀打ちできない相手であると言うのです。だから、私たちは神に助けを祈り求める必要があるのです。

(2)聖霊の助け

 ただここで興味深いのは、私たちが神の助け、つまり霊の助けを得るために祈る必要があることをパウロは教えると共に、もう一つパウロはここで私たちが祈るために「霊の助け」つまり「神の助け」が必要であることを教えているのです。「どのような時にも、"霊"に助けられて祈り」なさいと彼は言うのです。つまり私たちに霊の助けがなければ私たちは祈ることさえできないとパウロは語るのです。パウロはローマの信徒への手紙の中でこの祈りにおける霊の助けについて次のように語っています。

「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ9章26節)。

 「言葉に表せないうめき」と言う表現がここでは使われています。本当に苦しいとき、私たちは言葉を失ってしまいます。「ただ、うめくしかない」と言うときがあるのです。パウロはしかし、ここで「"霊"自らがうめく」と語っています。聖霊は私たちの問題を誰か別人の問題として取り扱うのではないと言うのです。まさに、聖霊は私たちの抱える問題を自分の問題として取り扱ってくださるのです。つまり、問題の中で言葉にもできないでうめく私たちの身になって、聖霊自らがうめきの声を上げ、神に執り成してくださると言うのです。しかし、このうめきは絶望やあきらめのうめきではありません。神に向けられているうめきなのです。大切なのはこれらのうめきが聖霊によって神に向けらていると言うことなのです。
 問題に出会い神に絶望して、神から離れていく人がたくさんいます。また、問題を知らずに神の助けの必要を感じず、やはり神から遠ざかって行く人がいるのです。しかし、そのような中で私たちが自らの弱さを知り、神によって力づけられることを切に望んで生きようとしているとしたら、その人は間違いなく既に聖霊によって捕えられている人だと言えるのです。私たちはすでに主イエスの救いによって悪魔の支配から解き放たれている者だからこそ、私たちは神に向かって祈ることができるのです。
 私たちはこの神の恵みの中に生かされていることを覚えつつ、さらに神に信頼して、信仰者として生き生きたいと願うのです。

【祈祷】
私たちを教会に集め、キリストに仕える者としてくださったことを感謝します。私たちの置かれた立場、環境は違っていても、あなたはその中で私たちが神に感謝を献げて、生きる道を教えてくださいます。私たちがキリストに対する畏れを持って互いに仕え合うことができるように助け導いてください。また、何よりもこの地上にある限り不完全と弱さをもって生きる私たちを豊かに助けてくださる主を信じ、その主を私たちとつながりを持つ人々に示すことができるように聖霊を送り、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

このページのトップに戻る