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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「信仰を伴う愛によって励まし合う」

(2011.10.02)

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙6章21〜24節(新P.360)

21 わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。
22 彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。
23 平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。
24 恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。

1.良い知らせ、悪い知らせ
(1)情報が悩みをもたらす

 私たちの住む現代社会はかつて無かったほどに様々な情報が満ちあふれています。情報伝達機関の発達で地球の裏側で起こったことでさえ、すぐに私たちに耳に入るようになりました。しかし、情報量が多ければ多いほどそれを耳にする私たちは難しい立場に立たされていることも確かかもしれません。
 先日、一人の婦人が「世界ではなぜこんなに戦争が起こり続けるのだろう。どうして戦争は「なくならないのだろう」と悩んで来られたというお話を聞きました。確かに、世界の様々な国々では今でも戦いによって沢山の人々の命が奪われています。これらのニュースを聞いて、きっとその婦人は心を痛めて来られたのかもしれません。しかし、もしその婦人がたとえば江戸時代に生まれていたとしたらどうでしょうか。おそらく、どの時代でも戦争が無くなったことはありませんでしたから、その時も世界で多くの人々の命が戦争で奪われていたはずです。しかし、江戸時代の人々が耳にできる世界の情報は限られていたはずです。おそらく、世界の様々な情報は長崎のオランダ商館から幕府に伝えられていたかもしれません。ところが、その情報が一般の庶民に伝えられることはまずなかったと言っていいでしょう。つまり、当時の人は「なぜ世界では戦争が無くなることがないのだろう」と悩むことは無かったのです。こう考えてみると私たちに伝えられる情報は私たちを幸せにするのではなく、返って考えなくてもよかったような悩みを私たちに抱かせるようなやっかいな代物と言うことも可能です。

(2)よいニュースだけを取り上げる

 以前、テレビであるジャーナリストが「「独裁者の統治する国々で発行される新聞には明るいニュースしか取り上げられていない」と言う話をしていたことを思い出します。私たちは毎朝、新聞を開きます。しかし、その第一面から目を通しても私たちは、原子力発電所の事故のニュースや政府の増税方針を知らせるニュースなどで、それを読むと心配や不安を感じることが多いはずです。ところが、情報が制限され、また統制されている独裁者の治める国では、悪いニュースは一切削除され、良いニュースしか国民に伝えられないのだと言うのです。たしかに、このような国では新聞を読んでノイローゼになる人はいないのかもしれません。しかし、これらの国々の人々が必ずしも、幸せになれるとは言えません。
 日本でも第二次大戦の時代、報道機関は国の統制を受け、国民に伝えられる情報は操作されていました。大本営発表のニュースはどんなに日本の戦局が悪くなっても、「日本は戦いに勝利し続けており、受けた損害はわずかだ」と国民に伝え続けました。しかし、そのため無謀な戦争が続けられたくさんの人々の命が奪われる結果にもなったのです。
 私たちは誰もが自分にとって良いニュースだけを聞きたいと考えています。また、その反対に自分たちを心配にさせたり、また不安にさせるようなニュースを聞きたくないと考えています。しかし、私たちに伝えられるニュースは必ずしも私たちに都合のよいニュースばかりではありません。それならば私たちは自分たちに都合の悪いニュースに耳を閉ざし続けるほうがよいのでしょうか。しかし、その方法も私たちにとって必ずしも得策とはいえないはずです。

2.心に励ましを得るために
(1)パウロの様子を伝えるティキコ

 パウロの記したエフェソの信徒への手紙の最後の部分を今日は学びます。パウロはこの手紙を書き終わるにあたって、ここで一つの願いを語っています。それは自分に関する事柄を教会の仲間たちが知って、それによって彼らが心に励ましを受けるようにと言うことです。そのことについてパウロは次のように記しています。

「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です」(21節)。

 ここに名前が登場するティキコはパウロの記した他の手紙にも何度がその名前が記されています(コロ4章7〜8節、テモ二4章12節、テト3章12節)。この人物について詳しいことは分かりませんが、パウロの同労者として働き、特にパウロが投獄された後は彼の手紙をさまざまなところに届ける役目を果たした重要な人物であったようです。もしこのティキコがいなかったとしたら、パウロは十分に働くことはできなかったかもしれません。また、彼の手紙が様々なところに届けられ、現在のように私たちが聖書を通してそれを読むことができようになったはずです。パウロの手紙が私たちに伝えられ、それを読むことができるのは彼の働きの結果であったと考えることができます。「彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です」。きっとティキコは主イエスに仕える思いを持って、使徒パウロに仕えた人物であったのだと思われます

(2)心に励ましを受けるために

パウロはここでこのティキコを教会の人々の元に遣わす目的を語っています。

「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう」と。パウロはティキコを遣わして自分の様子をこの手紙の読者である教会の人々に知らせたいと願ったのです。

 おそらく、この手紙の読者たちも最近、パウロに起こった出来事を人づてに何かを耳にしていたに違いありません。「あの伝道者パウロがローマの役人によって捕えられた。そしてローマに護送され、今、彼はそこで獄中生活を送っている」。そのようなニュースを彼らは耳にして、色々と心配していたのではないでしょうか。おそらく、そのパウロに関するニュースを聞いた人々は様々な反応を示し、またいろいろと考えを巡らしていたのかもしれません。そんな彼らにパウロは自分に関する確かな事実を告げるためにティキコを遣わそうとしたのです。
 ではパウロはその情報を教会の人々に伝えることで何を期待したのでしょうか。

「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです」(22節)。

 パウロは自分たちの様子を伝えるのは、そのことを知った人々が「心に励ましを得るため」であると言っています。これは大変に興味深いことです。パウロが投獄され、獄中生活を送っているニュースを聞いた人々が「心に励ましを得る」ことができるとはいったいどう言うことなのでしょうか。パウロが神の奇跡的な力によってその獄中から解放されたと言うニュースを聞けば、確かに誰もが励まされるかもしれません。しかし、パウロはこの手紙が読者たちに届けられたときも相変わらずローマの獄中にあって囚われの身のままだったはずです。しかも、教会に残る確かな言い伝えによれば、パウロはこの後、ローマで処刑され殉教の死を遂げているので。
 確かにパウロが獄中に捕らわれていても、そこで絶望せずに、今まで以上に精力的に伝道に励んでいると言う知らせを受けることはこの手紙を受け取った人にとっては励ましになったのかもしれません。「パウロもそんな状況の中で頑張っているのだから、私たちも頑張ろう」。そう思うこともできたはずです。
 しかし、もっと大切なことがこの手紙を送ったパウロとこの手紙を受け取った人々には起こっていたような気がするのです。それは彼らが自分たちに伝えられてニュースがどのようなものであれ、そこから自分たちが神様に従う方法を考え、それを実行したと言う点です。つまり、彼らはどんなニュースでも自分たちのために大切な事柄だと受け取り、励ましを受け、さらに神様に従うことができたのです。
 同じニューを耳にしても、それを受け取る人の反応はまちまちです。パウロが投獄されたニュースを聞いて不安に思い、自分たちも捕えられて酷い目に会うのではないかと心配することも人にはできます。しかし、そうではなく、投獄されたパウロのために自分たちが何をすべきか、またパウロに代わって自分たちが神様のためにすべきことは何かを考え行動することも人にはできるのです。パウロは自分に起こったことを教会の人々に知らせることで、彼らが恐れや絶望にとらわれるのではなく、教会の人々がその出来事を通して表された神様のみ心を知り、むしろそのために伝道が前進すると言うことを信じていたのです。だから、自分に起こった出来事をティキコを通して、この教会に知らせることが大切だと考えたのです。

3.すべての知らせを変える福音
(1)悪くするのも、よくするのも私たち次第

 私たちは最初に私たちが耳にしたいよいニュースがあり、また聞きたくない悪いニュースがあると言いました。しかし、ある意味でこれらのニュース自身は悪くもよくもなく、中立であると考えることもできるのではないでしょうか。そしてむしろ、そのニュースを悪くしたり、よくするのはそれを受け取る私たち自身の態度によっていると言えるのです。
 たとえば、原子力発電所の事故のニュースを耳にして不安と恐怖に捕らわれて、自分たちだけが沖縄や外国に避難することも私たちには可能です。しかし、この出来事を通して、私たちがもっと安全で住みやすい日本の国を作ることを真剣に考えはじめ、それを実行していけるとしたら、この出来事は将来の私たちのために、また日本のために有益なものとなるはずです。
 それは教会で起こる出来事も同じです。私たちには確かに不都合と思われる出来事が教会でもたびたび起こります。そこには私たちの信仰生活をむしろ困難にさせるような試練が起こりうるのです。確かにその出来事を通して、「神様など信じるのは無意味だ」と考えることも私たちにはできます。しかし、私たちはこれらの出来事を通して、「私たちに何ができるのか」、また「何をすべきなのか」を考え、行動することもできるのです。これまでのキリスト教会の歴史はこのことを物語っています。なぜなら迫害と困難の中でキリスト教会に集まる人々は絶望することなく、むしろ主に従う道を歩み続けたからです。そしてその人々の歩みを通して福音は広く世界に伝えられていったのです。

(2)福音とすべての出来事との関係

 パウロは最後に次のような言葉を記してこの手紙を終えています。

「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように」(23〜24節)。

 平和と、信仰に伴う愛が神から私たちに与えられること、それによって私たちは変わらぬ愛をもって主イエスを愛し続けることができるとパウロはここで語っています。つまり、神様と私たちとの愛の関係がここに明確に示されているのです。パウロが語り続けた福音の内容は、この確かな神様との私たちとの関係がイエス・キリストの救いによって実現したということでした。そしてこれが聖書の伝える私たちにとっての良き知らせ、つまり「福音」で内容であると言えるのです。
 それではこの聖書が伝える福音と、私たちが普段耳にするニュースとはどのような関係があるのでしょうか。パウロはその関係についてローマの信徒への手紙の中で次のように語っています。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(8章28節)。

 「万事が益となる」つまりすべての出来事は私たちのために神が為されていると言うことを福音は私たちに伝えるのです。聖書は私たちに様々な出来事のニュースを聞き、絶望したり、不安になる必要はないと言っているのです。むしろ私たちは、これらの出来事を通して自分たちに何ができるのか考え、主に従って行くことが大切なのです。すべての出来事を私たちは私たちのためによきものとする鍵を私たちは持っています。そしてそれが可能なのはすべての出来事を私たちのために「益」としてくださった救い主イエス・キリストの御業があるからなのです。パウロはそのために、自分に起こった出来事がそれを耳にする人々の心を励ますことができると信じることができたのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちの耳にする出来事、また私たちが体験する出来事に正しい理解を示すことができるように、私たちを福音を持って導き、また聖霊の助けをもって悟らせてください。そして正しい判断と行動で、それらの出来事に応じることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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