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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「福音の継続」

(2011.10.09)

聖書箇所:使徒言行録1章1〜8節(新P.213)

1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

1.二つの書物を記したルカ
(1)題名についての疑問

 今日からしばらくこの礼拝で使徒言行録を学びます。昔の聖書では「使徒行伝」、あるいは「使徒の働き」と言う題名がつけられていた書物です。ところが、この題名について古い写本では、単に「行動」とか「働き」と題名が記されているだけで「使徒」と言う言葉はないものが多いと言うのです。ですから「使徒」と言う言葉は後からつけられたものと考えられているのです。
 もし、この書物を「使徒言行録」、つまり使徒たちの言葉と行動を記した書物であると考えると、いくつかの疑問が生じます。なぜなら、この使徒言行録に登場する使徒は前半ではペトロが中心であり、後半はパウロの活動が中心となって、二人の使徒の活動しか紹介されていなのです。イエスの一二弟子、つまり使徒は他にも確かに存在していたはずです。教会の伝承によれば彼らもまたイエスの福音を携えて、ペトロやパウロと同じように熱心に伝道したと言われています。しかし、この使徒言行録にはそのような他の使徒たちの活動はほとんど紹介されています。ですから、この書物は「ペトロとパウロの言行録」とは言えても「使徒言行録」とまで言うことはできないではないかと言う疑問が生まれるのです。
 さらに、このペトロのとパウロについてもこの「使徒言行録」は彼らの使徒としての活動を完璧に記しているとは言えないのです。たとえばペトロの活動は15章のエルサレム会議の後は語られていません。これも教会に伝えられた伝承によればペトロは後にローマに赴き、そこで殉教の死を遂げたと伝えられています。今でもバチカンにそびえるサンピエトロ大聖堂はこのペトロの殉教の地の上に立てられたと信じられているのです。しかし、使徒言行録はそのようなペトロの活動については何も報告していません。また後半の主役であるパウロについても、この書物は彼が囚人として護送され、ローマに到着しそこで活動したことを語っていますが、パウロがその後どうなったのかと言うことをはっきり記していません。パウロもまた、ローマの地で殉教の死を遂げたと教会では考えられています。つまり、この使徒言行録はペトロとパウロのことを中心に取り上げられながらも、この彼らの生涯も十分に紹介してはいないのです。

(2)イエスの行動を記す

 それではいったいこの「使徒言行録」は誰の「言行」を記した書物なのでしょうか。私たちがそれを考えるときに忘れてはならないのは、この使徒言行録はルカと言う人物によって書かれた最初の文章である「ルカによる福音書」に続けて書き記された書物であると言う事実です。ルカはその事情についてこの使徒言行録の冒頭でも次のように記しています。

「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」(1〜2節)。

 ルカは第一巻、つまり福音書の部分で救い主イエスの事柄について書き記しました。ある説教者は当時のパピルスで作られた書物は収録できる文章量が決まっているので、どうしても福音書を第一巻として、この使徒言行録を第二巻として編纂する必要があったと言っています。つまりそれは内容的な区分を鮮明にするためと言うよりも、納める文書量の限界のためにどうしても二冊の文書になったと考えることができると言うのです。つまり、ルカはおそらく第一巻の福音書も第二巻の使徒言行録も同じ文書として、同じ事柄を取り扱おうとしていたと考えることができるのです。ルカが福音書でもそしてこの言行録でも続けて記そうとしたもの、それは救い主イエス・キリストの言行です。彼にとってはこの第二巻目の書物である「行動」と言う題名がつかられたものも、イエス・キリストの行動を記したかったと言えるのではないでしょうか。
 確かにイエスはこの使徒言行録の最初で天に昇られています。しかし、それ以後、イエスはその働きをやめてしまったのでは決してないのです。イエスは昇天後、使徒たちによって作られた教会を通して続けて働かれているのです。一見するとこの書物の記す内容はペトロやパウロ、そして初代教会についての物語です。しかし、イエスはかつての地上を歩まれたときの姿とは違ういますが、この使徒言行録でも主人公として行動し続けているのです。そのような意味でこの書物がペトロやパウロの生涯を完璧に描こうとしないのです。なぜなら著者の関心はイエス・キリストの働きを紹介すると言うところにあり続けているからです。使徒言行録は未完の書物と言うことができます。なぜなら、この使徒言行録の主人公であるイエスは今もなお生きて働いてくださっているからです。イエスはキリストの体である教会を通して今も働いてくださっているのです。
 ですから、私たちが使徒言行録を学ぶと言うことには大切な意味があります。なぜなら、イエスはペトロやパウロの活動を通して働かれたと同じように、私たちを通しても働いてくださるからです。そしてそのイエスと私たちとの関係を私たちはこの使徒言行録の記事を通して学ぶことができるのです。

2.聖霊による洗礼
(1)四十日間のイエスの活動

 さてイエスは復活された後、「四十日」の間、この地上にとどまり、弟子たちにその姿を現されたことが使徒言行録の最初に紹介されています。

 「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(3節)。

 「四十」と言う数字は旧約聖書にも新約聖書にもよく登場します。イスラエルの民の荒れ野での四十年間の放浪生活、またイエスの荒れ野の誘惑の前になされた四十日の断食などです。聖書の世界では「四十」は特別な意味、完全数を表しています。ですから、この四十日の期間とはキリストが生きておられることを否定する者が弟子の中にはいなくなるほどに、完全な形でイエスが復活されたご自身の姿を彼らに示されたと言う意味がこの数にはあるのかもしれません。パウロは復活されたイエスの姿を十二使徒以外にも五百人以上の弟子が目撃したと証言しています(コリント一15章6節)。キリスト復活の出来事は特定の人の抱いた幻想にすぎないのではなく、たくさんの人がそれを目撃し、その人々のたくさんの証言の上に教会の復活信仰は立てられていると言えるのです。
 ここでイエスは四十日の間、特に「神の国」について話されたと言われています。イエスのメッセージの中心は十字架にかけられる前からこの「神の国」にありました。ですから彼のメッセージが一貫して変わっていなかったことがここからも分かります。この後で登場する使徒たちのイエスに対する質問もこの「神の国」に実現についての事柄になっているのは、決して不自然ではないのです。

(2)聖霊を待て

 使徒言行録はさらに次に使徒たちに語られたイエスの命令を記しています。

「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4〜5節)。

 イエスと共に食事をする、それはイエスと弟子たちとの命の交わりを象徴的に表す出来事です。私たちが毎月守っている聖餐式にも同じ意味があるのです。そんな大切な交わりの中でイエスは弟子たちに「エルサレムを離れず、…父の約束されたものを待ちなさい」と命じています。父が約束されたもの、それは十字架にかけられる前にイエスが何度も語られた「聖霊」についての約束です。聖霊がイエスを信じる私たちの元に遣わされるとき、私たちは神様との生きた交わりの中に入ることができるのです。キリストが天に昇られても、聖霊が私たち一人一人の元に遣わされることによってこのキリストとの生きた交わりが私たちの生活の中に生まれるのです。
 イエスはこの聖霊について、洗礼者ヨハネが人々に施した洗礼を引き合いに出して説明しています。洗礼者ヨハネは救い主イエス・キリストを指し示した重要な人物の一人です。彼の授ける水の洗礼はこの救い主を受け入れる準備を人々にさせるものとして大切なものでした。しかし、ヨハネの洗礼を受けてもイエスを信じ、そのイエスとの生きた交わりに入ることがなければ、私たちは誰も救われることができません。ですから「聖霊による洗礼」とはイエスを信じる者だけに与えられる恵みなのです。確かに私たちが教会で受ける洗礼式も、私たちの目には頭に水が何滴か流されるものだけしか見えません。しかし、この洗礼式は私たちがすでに聖霊を受けて、イエスへの信仰を告白することができたことを示す出来事なのです。私たちは確かに「聖霊による洗礼」を受ることで、自らの信仰を告白し、教会で洗礼を受けることができたと言えるのです。
 イエスの使徒たちへの命令はこの聖霊がイエスを信じる者たちの群れ降るときを待ちなさいと言うことです。これは使徒たちによってはじめられたキリストの教会が、単に人間の集団を意味するのではなく、聖霊が豊かに働かれる場所になることを示しています。キリストは聖霊を教会に遣わすことで、この教会を通してご自身の業をこの地上に実現させようとしたのです。そのために使徒たちは教会の上に聖霊が降ることをエルサレムで待たなければならなかったのです

3.神の国はどのように実現するのか
(1)神の国実現への関心

 この後、使徒言行録は使徒たちが復活されたイエスに向けて質問した内容を記しています。

 「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた」(6節)。

 どうしてこのとき使徒たちからこのような質問を出したのか、それは先ほども話したようにイエスの語られたメッセージの中心が一貫して「神の国」にあったからです。当然、彼らはその「神の国」がどのように実現していくのかについて強い関心を抱かざるを得なかったのです。彼らが「イスラエルのために国を立て直す」と言っているように、旧約聖書の時代からユダヤの民は失われた自分たちの王国がいつ回復するのかを待ち望み、深い関心を抱き続けて来たのです。なぜなら、神はイスラエルの再建を彼らの先祖たちに預言者を通して約束し続けたからです。救い主の使命はそのためにあると人々は考えていたのです。だから、その救い主であるイエスが復活された姿を目の前にした使徒たちは、その神の約束がこれからすぐに実現するものと考えたのではないでしょうか。
 かつて弟子たちはイエスがこの地上のイスラエル国家を再建するために来られた方だと考えていました。ですからそのイエスが群衆の歓呼の声に迎え入れられてエルサレムに入場したときは、そのときがついにやってきたと考えていたに違いありません(ルカ19章37節)。しかし、彼らの期待に反して、イエスはローマの権力者の力によって処刑されてしまったのです。その弟子たちがイエスの復活以後、自分の考えをどれだけ修正させることができていたのかは分かりません。しかし「あのときはまだそのときではなかったが、こんどこそついにそのときがやって来た」と彼らは思っていたとも考えることできます。

(2)神の国と聖霊降臨

 イエスはその弟子たちに次のように答えています。

 「イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(7〜8節)。

「そのときがいつか」と言うことについてイエスは、「それは父なる神の決められる事柄であって、あなたたちが知るべき事柄ではない」と言っています。「そんなことをあなたたちは心配する必要はない」と言っているのです。そして「イスラエルの国の再建」というテーマを受けてイエスは使徒たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言う約束を語ります。つまり、イスラエルの再建と聖霊降臨の出来事は密接な関係にあることがこのイエスの言葉から分かるのです。イエスのこの言葉は、イスラエルの国の再建、つまり神の国の実現は聖霊降臨の出来事を通してこの地上に実現していくと教えているのです。

 イエスによって実現する神の国はいつかは消えてなくなってしまう地上の国家のようなものではありません。福音のよき知らせが使徒たちによって、また教会によってすべての国々に伝えるられることで、人々の上に救いが実現するとき、その人は確かに神の国の支配下に生きる者とされるのです。つまり、聖書に約束されている神の国は使徒たちが始めた世界伝道によって、世界のすべての人の中に実現しようとしているのです。そのためにイエスは教会に聖霊が降ると約束されたのです。神の国は人を暴力的な力によって支配するところに生まれるものではありません。イエス・キリストへの信仰を通して実現した救いにあずかる者が喜んで神に仕える者になるとき、彼らが神の国の一員になることでこの神の国は進展していくのです。使徒言行録はこの神の国が使徒たちの働きを通して、つまり聖霊の働きを通して実現したことを教えています。この聖霊によってイエス・キリストは私たちと共に生きてくださるのです。そしてそのイエス・キリストに働きによって神の国がどのように実現していったかをこの使徒言行録は私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
死に勝利されたイエスが私たちに聖霊を送ってくださり、私たちの教会を通してこの地上に神の国を実現してくださることを感謝します。教会がこの使命を忘れることがないように、私たちを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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