Message 2011 Message 2009 Message 2008 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
「永遠の命の祝福の中で今を生きる」

(2011.10.23)

聖書箇所:ルカによる福音書12章16〜21節

16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

1.永遠の命についての問い
(1)謎に満ちたイエスの言葉

 ヨハネによる福音書は次のようなイエスの言葉を記録しています。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11章17節)。

 このイエスの言葉は聖書に親しまれている方なら誰でもが一度は耳にしたことのある有名な言葉です。イエスが成就してくださった十字架の救いによって、私たちには今、永遠の命の祝福が約束されています。死人の中から甦られたイエスの復活の奇跡はその祝福が本当であることを私たちに示す確かな保証です。また、この言葉が記されているヨハネによる福音書11章ではラザロと言う人物がイエスの奇跡によって生き返ったと言う出来事が記されています。この出来事も確かにイエスが私たち人間の命を支配する力を持っていることを教えているのです。このような数々の聖書の証言に導かれて私たちは今、「死んでも生きる」と言う永遠の命の祝福を信じて生きる者とされています。

 私たちのこの地上の生涯がたとえ終わったとしても、その出来事の向こう側には永遠の命の祝福が待っていることをこのイエスの言葉は私たちに教えるのです。ところがイエスのこの言葉は私たちが地上の死の後で受ける祝福だけ語っているのではありません。イエスはここでさらに続けて私たちに語っています。

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11章17節)。

 私たちはイエスを信じる者も必ず一度はこの地上の死を経験しなければならないことを知っています。その死から免れることができる者は存在しないと言ってもよいでしょう。しかし、イエスはそのような私たちに「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と確かに語っているのです。それではこのイエスの言葉はいったい私たちに何を教えているのでしょうか。
 おそらくこの言葉から導かれるものは、イエスの約束された永遠の命は私たちの死後に待ち受ける希望と言うだけではなく、今の私たちのこの地上の人生の中でもすでに与えられていると言うことではないでしょうか。人間の言葉には神様の与えてくださる祝福を十分に語り尽くすことのできない限界があります。しかし、あえてそれでも語るならば、私たちのすでにこの死すべき地上の生涯の中で「決して死ぬことのない」永遠の命の祝福を神様からいただいているのです。
 今日はこの一度は必ず死ななければならない私たちの地上の生涯と、イエスの約束された永遠の命の祝福との関係について少し皆さんと考えてみたいと思います。

(2)必ず私たちも死ぬ

 もう十年近く前になるでしょうか。私は同じ牧師として働き、長い間、自分の兄のように私を助けてくれた一人の友人を天に送りました。その葬儀には遺族やたくさんの牧師や教会員が集まりました。そのとき葬儀の司式をされたのは生前にその友人と伝道協力していた一人のアメリカ人宣教師でした。その宣教師が葬儀説教の中で語った言葉を私は今も忘れることがありません。そのとき開口一番、宣教師は出席者に向かってこう語りかけたのです。「今、一人の兄弟を失って悲しみにくれている皆さん。安心してください。皆さんも必ず死にます」。アメリカ人の語るジョークは私たち日本人にはなかなか理解することが困難なところがあります。しかし、そのときの宣教師の言葉は葬儀の出席者に強い衝撃を与えるものであったことは確かです。確かに私たちにも必ず死がやって来るのです。そして、私たちも必ず死を迎えなければならないと言う厳粛な事実を私たちは決して忘れてはならないのです。なぜなら神様の祝福はその事実と向き合う人に豊に与えられるからです。つまり、イエスの約束された永遠の命の祝福は、むしろこの人間に与えられている地上の死と言う現実に正しく向き合う者に与えられると言ってもよいのです

2.死と自らの弱さの二つの限界を持つ私たちの人生
(1)私たちの人生のときには限りがある

 今日の礼拝の聖書箇所として取り上げたところにはイエスが語られたたとえ話が記されています(ルカによる福音書12章16〜21節)。このたとえ話の主人公は自分が必ず死ななければならないと言う現実を忘れています。彼は自分の持っている畑が豊作になり、自分には使い切れないようなたくさんの食物を手にしています。しかし、彼は自分が必ず死ななければならないと言う現実を忘れていたために、自分には到底使い切ることのできない食物のことで悩み始めるのです。やがて彼はその膨大な食物を自分のために蓄えることのできる新しい倉を作る計画を立てます。しかし、その晩に彼の命は取られてしまう定めにあったとイエスは解説します。だから自分が将来のために準備したものは彼に何の役も立たないものとなってしまったと言うのです。その意味で彼は二度とは帰ってこない人生の時間を無駄使いしてしまったと言えるのです。彼には自分に与えられた有り余る食料を使って、それを必要とする人と分かち合って生きることもできたはずです。そうすれば彼はその残された人生の時間の意味をもっと意義あるものとして送ることができたのかもしれません。しかし、残念なことに彼は自分の人生の時間を、自分がため込んだ食料と同じように、無限にあると勘違いしていのです。
 第二次世界大戦の最中、ナチスドイツの作った強制収容所に収容され、そこで過酷な生活を送ったユダヤ人心理学者ビクトル・フランクルその貴重な体験を「夜と霧」と言う本に書き残しました。そのフランクルは他のある本の中で私たちの人生に重要な意味を与える二つの大切な要因があると言うことについて紹介しています。その一つは人間が必ず死なねばならないと言うことです。つまり、私たちの人生は死によって限定づけされていると言うことです。もし、人間が永遠に生きる存在であるとしたらどうなるのでしょうか。人間はいつまでも自分がすべき大切な課題を先延ばしすることになり、結局は何もできなくなってしますとフランクルは説明するのです。つまり、私たちの人生は死に限定されているからこそ、自分に今、与えられている時間が大切であると言うことが理解できるのです。もし人が自分の人生には限りない時間が与えられていると勘違いして自分の今、しなければならないことを先送りし続けるなら、結局その人は何もしないままに人生を過ごしてしまうことになります。しかし私たち人間の地上での命の時間は限られています。そして私たちに与えられている今と言うときは決して二度と私たちの人生に戻っては来ないのです。ですからその事実を知る人間は、限られた人生の時を無駄にすることなく、今と言うときを大切に生きようになると言うのです。
 ですからイエスの語られたたとえ話の主人公は自分の死と言う現実を忘れてしまうことで、神様が与えてくださっている祝福を見逃してしまったと言えるのです。

(2)弱さがあるからこそ、互いを必要とする

 さらにビクトル・フランクルは私たちの人生を意味あるものとするもう一つの要因は、私たちが持っている弱さだと言っています。もし私たちが皆、何の弱さも持たない完璧な人間であるとしたらどうでしょうか。きっと私たちは他人の助けを必要としなくなるはずです。それは逆を言えば、私たちは誰からも必要とされなくなると言うことにもなります。誰からも必要とされない人生ほど、私たちにとって寂しいものはありません。そして私たちは誰もが皆、互いに弱さを持っているからこそ、お互いを助け合い、またお互いの必要性を感じて生きることができるのです。
 イエスのたとえ話に登場する人物は孤独です。彼は自分の人生のための最善の計画を自分が考え出したときに、自分自身にむけて語ります。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。彼には自分の喜びを分かち合うことのできる友人が一人もいません。だから彼は自分の魂に向かって呼びかけるしかなかったのです。なぜなら、彼は自分の人生は自分の手に入れた財産があれば十分であり、他の誰の助けも必要としないと考えていたからです。
 イエスはこのたとえ話の登場人物の生き方を「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」の生き方と語っています。つまり、神様が与えてくださった大切な命を無駄に使って、結局はこの地上の命の中に隠されている永遠の命の祝福をも彼は失ってしまったと言うのです。

3.永遠の命の中で生かされている私たち
(1)信仰者としての歩みを全うする

 イエスの語られたたとえ話を通して私たちが学ぶことができることは、私たちがこの地上の生涯において一度は死ななければならないということと、この地上において様々な弱さを持って生きなければならないと言う二つの現実に大切な意味があると言うことです。なぜな、私たちがこの二つの現実と向き合って生きるなら、そこから私たちは私たちに神様が与えてくださった永遠の命の祝福をこの地上の生涯で味わうことができるからです。
 病のために余命わずかと医師に告げられた一人の婦人がいました。婦人は自分の人生に与えられた過酷な現実に前にして、苦しみ、絶望の日々をその後しばらく送りました。そんな彼女があるとき、自分の病室の窓ガラスに映った自分の顔を見て驚きます。そこにはもはや生きているとは名ばかりと言えるような死人のような顔をした自分の姿が映し出されていたからです。しかし、彼女を驚かせたのはその彼女自身の顔だけではありませんでした。彼女が窓ガラスを眺めるとそこには病院の外を忙しく通り抜けるたくさんの人々の朝の通勤風景が見えました。たくさんの人々が道を行交っています。ところが、その人々の顔が今、先ほど窓ガラスで目にした自分の顔と同じように皆、死人のように生気がないことに彼女は驚いたのです。
 そのとき彼女の中に一つのひらめきが生まれました。そしてこの後彼女の病床生活は一変します。彼女は次の日にしばらくぶりに化粧をし、病院の玄関の前に立ちました。そして道行く人々に笑顔で「おはようございます」と声をかけ始めたのです。彼女はこの後毎朝、笑顔で道行く人に声をかけました。すると最初は警戒心で何も答えなかった人たちも、やがて彼女の笑顔の挨拶に同じように笑顔で答えるようになったのです。そして彼女の笑顔が道行く人の顔に生気を取り戻させることになりました。彼女の病状がやがて悪化して、病院の外に出られなくなったとき、彼女はそれでも自分の病床に訪れる病院職員や見舞客に笑顔で挨拶を送り続けたと言います。そして彼女は死を迎えるそのときまで、自分が生きていると言う実感を覚えながら人生を生き抜くことができたと言うのです。それは彼女が自分に残された大切な人生の時間を、自分を必要としている人たちのために使おうとしたからなのです。

(2)イエスがその秘密を教えてくださる

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
 イエスは私たちにもこの言葉を「信じるか」と問い続けています。
 イエスは、イエスを救い主と信じる者が「決して死ぬことのない」永遠の命の祝福の中に生かることができると言っています。必ずこの地上では一度は死ななければならない私たち、そして弱さを持った私たちも、その信仰の故に「永遠の命」の祝福の中で生きることができると言っているのです。もちろん、私たちはその祝福の内容のすべてを今、完全に知ることは不可能です。しかし、私たちの救い主イエスだけは私たちのこの地上の命の中に隠されている永遠の命の祝福のすべてを知っておられるのです。
 私たちにも必ずやがて、この地上から離れてそのイエスの待たれる天に召されるときがやってきます。そこで私たちはこのイエスからこの地上ですでに永遠の命の祝福の中で生かされてきたと言う事実を、明確に教えていただけるときがやって来るのです。そのとき、「あなたの苦しんだあのことにはこんな大切な意味があった」。「あなたの抱えていたあの弱さは実はこんな祝福につながっていたのだ」とイエスは私たちの地上の人生に隠されていた祝福を一つ一つ教えてくださるのです。

「『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(ヨハネの黙示録14章13節)と

 聖書はそう私たちに語っているのです。ここで言う「行い」とは世の人々が賞賛する何か特別な業績を言っているのではありません。死に限定される人生、弱さを持った私たちの人生が実は永遠の命の祝福の中にあったことをイエスから教えていただけるときが来ることを言っているのです。
 私たちも皆、必ず地上の生涯を終えるときがやって来ます。また私たちはこの地上では様々な弱さを抱えて生きなければなりません。しかし、その人生が実は永遠の命の祝福の中にあることをイエスの言葉は私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちの地上での限りある命、不完全で弱さを持った私たちの人生にあなたはすでに永遠の命の祝福を与えてくださっていることを感謝します。私たちが主イエスの約束を信じて、この人生を生きることができるようにしていください。そしてやがて天においてイエスが私たちの地上の労苦の意味をすべて説き明かしてくださることを信じ、私たちに残されている地上の命のときを大切に生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

このページのトップに戻る