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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「キリストはどこに行かれたのか」

(2011.10.30)

聖書箇所:使徒言行録1章9〜14節(新P.15)

9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

1.「天」とはどこか

 あるとき私が教会学校で聖書の話を子供たちにしていたときのことです。私の話を聞いていた一人の小さな子供が私にこう質問するのです。「天国って、死んだ人が行くところなのでしょう」。この質問にどのような答えるべきか、私はすぐに答えが見つけられなかったことを思い出します。このようにときどき教会学校の子供たちの質問から、自分も明確には聖書の事柄を理解していないことが分かることあります。
 もし、天国を私達が死んでから行くところと理解すれば、生きていくことに精一杯の私達は「天国のことは少し生活の余裕ができたら考えて見ましょう」とか、「明らかに自分の死期が近づいたときに考えればよい」と言うことになってしまうかもしれません。これでは伝える側の私達も力を込めてこのメッセージを語ることができなくなります。
 しかし、聖書の教える「天」は死んだ人が行くところではありません。聖書の教える「天」の定義でもっとも大切なのは、「天」には神がおられる場所があると言うことなのです。今日の箇所ではイエス・キリストの昇天の出来事が記されています。弟子たちが見ている前でイエスは天に昇られ、弟子たちの目から消えてしまいます。これはイエスがまるで宇宙ロケットのように大気圏を越えて宇宙空間に昇って行ったと言うことを語っているのではありません。イエスが天に昇られたと言うことは、彼が父なる神のおられるところに戻られたと言うことを意味しているのです。私達の教会が大切にする信仰箇条の一つである「使徒言行録」は、イエスが「天にのぼられました」と告白した後すぐに「そして全能の父である神の右にざしておられます」と語っています。つまり、イエスは全能の父なる神のおられるところに戻られるために天に昇って行かれたとこの信仰箇条は説明しているのです。
 このイエスの昇天の出来事を通して、私達にとって「天」は今まで以上にさらに関係深いところとなりました。なぜなら、「天」には私達の救い主イエス・キリストがおられるからです。私達を愛し、私達のために命を捨ててまでその救いを実現したくださった方が天におられるのです。ですから、私達が愛するイエスがおられるところ、それが「天」であると言えるのです

2.イエスの昇天の意味は何か
(1)地上での救い主のみ業が完成した

 それではこのイエスの昇天は私達にとっていったい、どのような意味を教えるのでしょうか。イエスは「天で私達が地上の生涯を終えることを待って、その後に私達を迎えてくださるためにご自身も天に昇られた」とだけ考えるべきなのでしょうか。しかし、それではやはりイエスのおられる天の存在は地上に今生きている私達には縁遠いものとなってしまうのではないでしょうか。
 いったい、イエスの昇天の出来事は私達のこの日常の信仰生活とどのような関係があると言えるのでしょうか。聖書を読むと、イエスの復活の出来事に出会った弟子たちはイエスがこれからいよいよイスラエルの国を立て直してくださると期待していたことが分かります(6節)。つまり、弟子たちはイエスの救い主としての地上でのみ業がこれからやっと実現すると考えていたのです。ところが、その弟子たちの考えに反して、イエスはこのとき地上を離れて天に昇って行かれました。これは何を意味するのでしょうか。簡単に考えれば、イエスはこれ以上、救い主としてこの地上にとどまる必要がなかったと言うことなります。つまり、イエスの救い主としての地上でのみ業はこの時点ですべてが実現してしまっていたのです。イエスの地上での救い主としてのみ業はもはや完璧に成就したのです。だから彼はこの地上を離れて天に昇って行かれることができたのです。
 このようにイエスの昇天は、イエスの救い主としての地上でのみ業の完全性、完璧性を教えています。もはや、イエスが地上にとどまって何かをする必要がないほどに、彼のみ業は完璧であったのです。そしてそのイエスのみ業に私達は何かを付け足す必要はないのです。ただ私達はこのイエスの救い主としてのみ業を信頼して生きていけばよいのです。
 「キリストを信じることがだけではなく、私達もそれ以上の何かをしなければ救われない」と教える人がいます。この考えは一見、誠実な信仰者の考えのように見えますが、そうではありません。なぜなら、私達が何かをする必要があると言う主張は、もう一方ではキリストのみ業の完全性を疑うことになるからです。それが不完全だからこそ私達はそれに何かを補充する必要があると言うことになるのです。つまり、この考え方は、キリストにみ業に対する信頼を覆すことと同時に、私達人間がキリストのみ業を助けることができるように考える傲慢な心が隠されているのです。
 しかし、キリストのみ業は完璧です。だからキリストはそのみ業を終えて天の昇られたのです。つまり、キリストの昇天は私達を救ってくださるキリストのみ業が完璧であることを表しているのです。

(2)天における統治、聖霊を通して

 キリストの昇天が私達の日常の信仰生活とどのような関わりがあるのか。その第二の点は、キリストの救い主としてのみ業が新しい段階に突入したことを表していると言うことです。確かにキリストの地上でのみ業はすべてこの時点で成就していました。しかし、キリストはだからと言って「天」に昇られて引退生活を送られているのではありません。キリストは天において、すべてのものを治め導いておられるのです。使徒信条は「父なる神の右にざしている」と告白しています。この「右」とは支配者の権力を代行して行使する者が座る場所を意味します。つまり、キリストは父なる神の支配権を代行して行使されるのです。そのためにキリストは天に昇られたのです。
 天に昇られる直前にイエスは弟子たちにこのように語っています。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。

 イエスは弟子たちの元に聖霊を送ると約束されています。彼らが地の果に至るまで、キリストの証人として生きるためにはこの聖霊が弟子たちに送られる必要がありました。聖霊はキリストが地上で成し遂げてくださった救いを私達一人一人の上に実現するために働かれる方です。キリストはその聖霊を私達に送ることで、その支配を私達の上に実現されるのです。
 地上におられたときのイエスの活動は人間としての姿をとられたが故に、時間と空間と言う制限を受けざるを得ませんでした。ですから地上でイエスと親しく接することできたのは12弟子やそのほかのわずかな人々でしかありませんでした。しかし、イエスの昇天によって実現した事柄はそれとは大きく異なります。聖霊は私達一人一人に遣わされ、私達を導いてくださるのです。イエスはこの聖霊を通して、キリストを信じて生きるすべての人々と深く関わることができるようになったのです。こう考えるとキリストは私達といつも共にいてくださるために天に昇られたと言ってもよいのではないでしょうか。このようにイエスの昇天は私達といつまでも共に生きるために実現した出来事だったと言えるのです。

3.イエスの約束が実現するために
(1)再臨の希望

 キリストの昇天を目撃した弟子たちはその後も「天を見つめていた」(10節)と書かれています。「これからずっとイエスと一緒にいられる」。そう考えて喜んでいた弟子たちの前から突然、イエスが天に昇り、姿を隠してしまったのですから、彼らは驚き、混乱したはずです。しかし、そこに「白い服を着た二人の人」が現れます。かつて、空になったイエスの墓を訪れた婦人たちの前にも「輝く衣を着た二人の人」が現れ、イエスが復活されたことを婦人たちに知らせたことが福音書にも記されています(ルカ24章4節)。「輝く衣」も「白い服」もその人たちが神から遣わされた者たちであることを表す印です。この二人は天を仰いでいる弟子たちに次のように語りかけます。

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(11節)。

 キリストの救いのみ業を信頼し、そのキリストが聖霊を通して私達を導いてくださっていることを知る者にはさらに大きな希望が与えられていることをこの二人のみ使いは弟子たちに伝えています。それはキリストがまたおいでになる「再臨」の希望です。イエスが十字架と復活を通してもたらしてくださった救いを、聖霊が救いに選ばれたすべての人の上に実現されたとき、イエスは再びこの地上に戻ってこらえると言うのです。このとき、イエスによる救いのみ業は個人のレベルだけではなく、全宇宙的なレベルで実現されるのです。このみ使いの言葉は私達のキリスト者がイエス・キリストが再び来られることを意識しながら、この地上の生活を歩むことが大切であることを教えているのです。

(2)祈って待つ、弟子たち

 使徒言行録はこの後、弟子たちがイエスの昇天の出来事があった場所から、エルサレムの町の中にあった、彼らの宿泊場所に戻ったことを語っています。この場所はイエスが地上での最後の晩に、弟子たちと食事を共にされたあの「最後の晩餐」が行われた場所ではなかったかと推測されています。
 興味深いのはここで使徒言行録の著者であるルカが再び、そこに集っているイエスの弟子たちの名前を記録しているところです。イエスをユダヤ人に売り渡し、彼を十字架につけて殺すための手引きしたイスカリオテのユダはすでに死んでいました。ですから彼以外の弟子たちの名前がここに記されています。彼らは皆、イエスによって招きを受け、弟子とされた人々でした。その人々の名前をここでルカによって再び書き記されたことは、この後の12弟子の補充の出来事に読者たちを導くためのものであったとも考えることができます。しかし、それと同時に彼らの名前が再び挙げられたことは、彼らの人生の再出発がここから始まったことを語っているのではないでしょうか。
 それでは彼らがその新しい歩みを始めるためには何が必要だったのでしょうか。それはイエスの約束された聖霊が彼らの上に降ることでした。この聖霊がくだらなければ彼らの歩みは、キリストに導かれた歩みではなく、単なる人間的な歩みになってしまいます。そこで彼らはエルサレムの一室に帰り、共に祈り始めます。教会がキリストの体として活動するためには、共に祈る必要があることがあることをこの出来事は教えているのです。
 祈る教会、そして神を礼拝する教会に天におられるイエスは今でも約束された聖霊を送ってくださるのです。そしてその教会を通してキリストのみ業が地上に実現します。私達の教会にもキリストのみ業が表されるように、祈り、礼拝を献げ続けて行きたいと思います。

【祈祷】
この地上での救いのみ業を十字架の死と復活のみ業を通して完全に成し遂げられたイエスは、今、天に昇り、神の右に座して、私達に聖霊を送り続けてくださいます。その聖霊のみ業によって私達の教会は生けるキリストの体として歩むことができます。どうか私達が自分の力や業を驕り高ぶるものではなく、あなたに信頼して生きるものとしてください。天におられるイエスのみ業によって、私達は今、この地上ですでに神と共に生きる祝福に与っています。私達が祈り、また神に礼拝を捧げることで、このイエスとの関係をさらに深くすることができるように私達を導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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