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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「誰が主の復活の証人になるのか」

(2011.11.06)

聖書箇所:使徒言行録1章15〜26節(新P.214)

15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
20 詩編にはこう書いてあります。

『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』

21 -22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、
24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

1.神の約束の真実さを知った弟子たち
(1)イエスの言葉の真意が理解できない

 使徒言行録を続けて学びます。今日の部分ではイエスの弟子の一人であるペトロが登場し、発言をしています。イエスの復活と昇天を経て、弟子たちはこのときどのような気持ちでいたのか様々な想像が生まれます。私もこのペトロのことを考えるとこんな想像が生まれてきます。ペトロは12弟子のリーダーのような存在でした。特に地上にあったイエスのもっとも身近にいることができた人物です。ですから福音書の中にもイエスが特にこのペトロに向かって語られた言葉が記されています。その箇所を読むとペトロは語られたイエスの言葉の真意を理解することができずにいたことが伺えます。
 たとえばマタイによる福音書16章21〜23節にはこのような物語が記されています。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 ペトロはイエスの語る十字架と復活の預言を理解することができません。その上でイエスを諫め始め、返ってイエスから「サタン、引き下がれ」と言う厳しい言葉を受けることになりました。
 また、イエスの逮捕の直前にもペトロはイエスの言葉を聞いて次のような反応を示しています。ルカによる福音書22章33〜34節です。
 「するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」」。

(2)確かにされたイエスのみ言葉に対する確信

 イエスの逮捕の出来事を前に激しい試練がペトロたちの前に起こることを預言されたイエスに対して、自らの力を過信するペトロは「そんなことはない」とその言葉を否定します。そこでさらにイエスはペトロが今夜、鶏が鳴く前に三度、イエスを否認することになるという預言を語られたのです。
 イエスの復活と昇天を経験したペトロはかつてイエスが語られた預言の数々の意味と、その預言がことごとく現実のものになったことを理解しました。つまり、このときのペトロは主イエスの語られた言葉に対する信頼が確かにされていたのです。今日のペトロの発言と弟子たちの行動はこの主イエスの語られた言葉に対する応答であったと言えます。彼らはイエスの語られた約束の言葉が必ず実現するということを、自分たちの肌を持って感じ、確信していました。だからこそ、この使徒言行録の最初に記されている「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章8節)と言うイエスの言葉が必ず実現することを彼らは信じ、その約束が実現する日のために備えようとしたのです。
 このとき、集まっていた弟子たちは全部で「120人ほど」(15節)であったと記されています。この数がどれだけ正確な数字であったのかわかりません。なぜなら「12」と言う数は「12部族」、「12使徒」と数えられるように、その数字自身に象徴的な意味が込められていることが多いからです。いずれにしても、私たちはこの小さな群れから、聖霊降臨の出来事を経てキリスト教会が始まったと言うことを覚えたいと思うのです。どんなに大きな大木も、その最初は小さな新芽でしかありません。キリスト教会もこのわずかな群れから世界に広がる大きな群れとなりました。たとえ小さな群れでも、私たちが主イエスの約束を信じて、生きるなら、主イエスはその小さな群れを十分に用いてくださることを覚えたいと思います。

2.イスカリオテのユダの裏切りをどのように理解するか
(1)人には理解できない出来事

 このときペトロは120人ほどの弟子たちの集団を前にして次のように語り始めました。

「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」(16節)。

 「イスカリオテのユダはどうしてイエス様を裏切ってしまったのでしょうか」。「ユダは自殺して、結局どうなってしまったのでしょうか」。牧師になってから何度か聞いた質問です。イエスに選ばれた弟子でありながら、そのイエスを裏切ったユダと言う人物への疑問は様々な形で私たちの心を悩ませます。その背後には「自分もユダのような信仰の失格者になってしまうのではないか」と言う心配が私たちの心の中にあるからかもしれません。私たちですらそうですから、ペトロたち弟子たちはなおさらであったに違いありません。同じようにイエスによって導かれて弟子となり、寝食を共にして過ごしてきた仲間の一人が驚くべき出来事を引き起こして、しかも自ら命を絶って死んでしまったからです。彼らはそのことに心を痛めていたのかもしれません。しかし、このときの弟子たちの行動はあくまでも冷静でした。彼らはこの出来事について勝手な人間的解釈をしませんでした。さらに、イエスを裏切り、その結果自分たちをも裏切ったユダをいたずらに非難することも、また罵ったり、呪うこともしていないのです。

(2)聖書に答えを求める弟子たち

 ある説教者は「ここで弟子たちは自分たちの上に起こった出来事を理解するために聖書研究をしている」と言っています。なるほどここで語られるペトロの話は自分たちの上に起こった出来事は聖書に預言されていたことが実現したことにほかならないと語っています。その上で、その出来事に該当する旧約聖書の言葉を引用して説明しているのです。
 私たちの教会でもたびたび共に集まって聖書研究会をしています。この聖書研究会の意味は、聖書に書いてある知識を身につけるということ、つまり私たちの知的な満足を満たすためにしているのではありません。私たちもまた私たちの人生に起こっている様々な出来事の本当の意味を探るべく聖書を研究しているのです。
 この聖書研究の結果、彼らが得た結論は二つです。第一に人間的知識や知恵では解釈することが困難なユダの裏切りの出来事も確かに神様の計画の中にあったと言うことと、それ故にその神様を信頼しなければならないと言うことです。私たちには理解することのできないような事柄が私たちの人生には起こります。そしてそこには人間的な様々な解釈が成り立つと思います。しかし、私たちに本当に力を与え、私たちの混乱した心を静めることができる方法は、その出来事の背後に神様の計画を認め、それに信頼することなのです。ペトロたちはその結論を聖書研究から見つけ出しています。
 またもう一つ、彼らが見つけ出した結論は、主イエスによって始められた業が必ず成就することを信じて、自分たちもそのために備えなければならないと言うことでした。つまり彼らは、イエスが12人の弟子、つまり「使徒」を選んだことには意味があると言うことを知ったのです。イエスはこの12人を選び教会を建て、その教会を通してみ業をこの地上に実現されようとしています。ですから、教会の土台となるべき12人の弟子は一人も欠けてはならないとペトロたちは考えたのです。そこで行われたのがユダの死によって欠員が生まれた12人の弟子、つまり不足している使徒を補うということでした。

3.約束の実現を待つ姿勢とは
(1)備えることを忘れた村人

 先ほども触れましたようにこのときペトロたちはイエスの約束された言葉が必ず実現すると言う確信を持っていました。それでは神の約束が必ず実現すると言う確信を持つ者たちは、次にどのような行動をするのでしょうか。それは神の約束が実現したときに備えることです。
 こんなお話があります。ある村で雨が一滴も降らない日照りが続き、このままでは農作物も育たないと村人たちは悩んでいました。「もう神様におすがるだけしか方法は残されていない」。そんな誰かの提案によって村人全員が教会に集まり、神様に祈りを献げることになりました。村人たちは懸命になって祈りを献げ、「あとは神様にお任せするしなかい」と家路につこうとしたときのことです。今まで雲一つ無かった晴天の空が突然に真っ黒な雲でそまったかと思うと、雨が降り始めました。そして雨のあまりの強さのために教会から家に帰ろうとした村人も、外に一歩も出ることができずに空を見上げています。なぜなら彼らは誰も傘を持って来ていなかったからです。すると彼らと同じように教会堂に集まって祈りを献げていた一人の少年が、家から持ってきた傘を開いて彼らの前を通りすぎました。少年は不思議そうに大人たちの様子を眺めてこう言ったのです。「みんな、神様に雨を降らしてくださいと祈ったのでしょう。それなら、どうして神様が雨を降らししてくださったときのために傘を準備してこなかったの」。
 私たちはどれだけ神様が私たちの祈りを聞いてくださったときのために準備をしているでしょうか。神様の言葉が実際に私たちの上に実現したときのために準備をしているでしょうか。このときペトロたちは確信をもってその準備をし始めたのです。

(2)神が選んでくださるように

「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」(21〜22節)。

 使徒の働きを受け継ぐ者に求められた資格は人間的才能や魅力ではありませんでした。イエスの公生涯が始められたときから彼と共に生き、十字架と復活、そしてそのイエスの昇天を目撃した人でなければなりません。なぜなら、使徒の任務はそのイエスが確かに復活され、今も生きておられることを人々に証言することだからです。
 この条件にあった候補者が二人現れました。「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立て(た)」(23節)と記されています。興味深いのはこの二人の内の一人ヨセフは「ユスト」と言うラテン語の別の名前を持っていたと言うことです。つまり、どちらかというとこの二つの名前で呼ばれるヨセフの方が人々によく知られていて、評判のよい人物ではなかったかと考える人もいるのです。しかし、教会は人の評判で使徒を選び出したのではありませんでした。わざわざそこでくじを引いてこの二人の内、誰が適当であるかを選び出したと言うのです。くじを引くと言う行為は旧約聖書の時代から神様の御心を判断する手段として用いられていたようです。弟子たちがなぜこのときにくじを使ったのか、その理由はこのときの弟子たちの祈りによって明らかです。

「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」(24〜25節)。

 弟子たちは神様の御心を求めたのです。自分たちではなく、神様がその働きにふさわしい人を選んでくださるようにと願ったからです。現在の私たちの教会ではくじを引いて教会役員を決めることはありません。ほとんどの場合は選挙と言う手段を通して役員は選ばれます。その選出の方法は違っても、そこで私たちが願い求めなければならないことは同じことなのです。教会の選挙は人気投票ではなく、神様が選んでくださった人が示されるようと言う願いを持ってなされる必要があるのです。
 私たちはこの後、神の驚くべきみ業である聖霊降臨の出来事の記事を読むことになります。その出来事は確かにエルサレムに集まった人々の目を奪い、その心を驚かせるものでした。しかし、そのような出来事の前に、弟子たちは聖書を研究し、使徒の欠員を補っています。これはある意味でたいへん地味な作業のように見えます。そしてむしろ私たちの教会の活動は今も、聖書を学び、また教会の体制を整える人目には地味な活動が中心となっています。しかし、これらの活動は神様のすばらしい約束が必ず実現することを信じて、そのための準備として行われていることを私たちはもう一度、覚えたいのです。
 12人の使徒とそしてその人々を含めて集めた120人の弟子たちの群れが神に用いられて、福音が世界に伝えられたように、私たちの小さな群れも神に用いられる者であることを信じて、私たちにできる備えを今日もしていきたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
かつては主イエスの言葉の本当の意味も理解できずにいた弟子たちが、あなたのみ業を体験して、その約束が必ず実現することを知ったように、私たちにもその確信を聖霊を通して与えてください。そしてその確信に基づいてあなたの約束の実現する時を待ち、その日のために私たちにできる備えをさせてください。私たちがそのために聖書を学び、教会の群れを整えていくことができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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