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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「聖霊が降る」

(2011.11.13)

聖書箇所:使徒言行録2章1〜13節(新P.214)

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

1.聖霊降臨の出来事
(1)イエスの約束の実現を待った弟子たち

 今日の聖書箇所はペンテコステ、聖霊降臨の出来事が記されています。世界のほとんどのキリスト教会はキリストの降誕を祝う「クリスマス」と、キリストの復活を祝う「イースター」、そして聖霊が弟子たちの上に降り注いだ出来事「ペンテコステ」の三つの出来事を祝い、それぞれの日に特別な礼拝を献げます。特に教会ではこのペンテコステはキリスト教会が誕生した出来事と理解し、祝う風習があります。キリストの地上でのみ業が完成し、キリストが天に昇られた後、その天から聖霊が教会の上に降り、その教会を通してキリストが働かれる時代が始まったと理解し、このペンテコステを教会は祝い続けているのです。それではこの最初のペンテコステの日にいったい何が起こったのでしょうか。ペンテコステについては何度も学んでいることですが、私達はもう一度、この出来事をここで考えてみたいと思います。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(1節)。

 「五旬祭」、これがペンテコステを日本語に訳したものです。ユダヤ教にも大変に大切にされている三大祭りが存在します。過越祭、五旬祭、仮庵祭の三つです。敬虔なユダヤ人はこの祭りのたびにエルサレムに集まり、神殿で礼拝を献げました。過越祭は出エジプトの出来事を祝う祭りでしたが、この五旬祭は過越祭から数えて50日目に守られる礼拝です。本来は収穫感謝の祭りであったと言われていますが、ユダヤ人たちはこの五旬祭を神がモーセに律法を与えられた日と考え、その出来事を記念する祭りとしていたようです。
 イエスの昇天が復活より40日目(1章3節参照)とすると、それからさらに10日経っていたと言うことになります。弟子たちはイエスの「エルサレムを離れるな」(1章4節)と言う言葉に従ってエルサレムにとどまり続け、毎日共にあつまり祈りを献げていました。イエスは聖霊がいつ弟子たちのもとに送られるか、そのはっきりとした期限を彼らに語っていません。このとき弟子たちはイエスの「聖霊を送る」と言う言葉だけを信じて、エルサレムにとどまり続けていたのです。カルヴァンはこれは彼らの忍耐を試すものでもあったと語っています。ガリラヤ出身の弟子たちはこのエルサレムに何の生活基盤も持っていませんでした。その彼らがエルサレムにとどまり続けること、しかもいつまでだから分からないけれども、その日を待ち続けたと言うことは大変なことであったと思います。
 先ほども語りましたように「五旬祭」はユダヤ教の祭りで、ユダヤ人が様々な場所からこのエルサレムに集まる貴重な機会でした。神はこの機会を用いてこのペンテコステの出来事を起こされたのです。なぜなら、このペンテコステの出来事を理解するために各地から集まったユダヤ人の目撃者の存在が必要だったからです。しかも、この出来事が彼らによって様々な国々に伝えられるためにもこの五旬祭に起こったと言うことは重要だったのです。神はもっともふさわしい時と場所を選んで、その約束のみ業を実現してくださるのです。人間はそれを早めることも変更することもできません。私達にとって大切なのはその神のみ業の実現を忍耐を持って待つと言うことだけなのです

(2)聖霊の出現

 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2〜3節)。

 かつてイエスはこの聖霊の働きについてニコデモと言う人物にこう説明しています。

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネによる福音書3章8節)。

 ここでも聖霊を風の音と言う表現で説明しています。しかし、このイエスの説明の場合は、人々を驚かせるような大きな音と言うよりは、当事者以外には気づくことがないかすかな風の音と言っていると考えることができます。通常、聖霊の働きはそれを受けた人にのみ理解できるようなものであるからです。しかし、この日の聖霊の働きは誰にでも分かるような音と形によって表現されています。これは弟子たちに起こった変化が天から送られた聖霊の働きによるものであることを誰もがはっきりと理解するためだったのです。ここでの聖霊の登場のスタイルは、その目的のために必要だった特別な出来事であったと言えるのです。ですから、私達はこの出来事の表面的なことがらに目を奪われるのではなく、この出来事によって示された意味を知る必要があると思います。
 よく、聖書を読んでいてイエスのなされた奇跡の数々を目の当たりにしながら、そのイエスを信じることができなかった人たちのことについて疑問に思われる方が多くいます。「わたしなら、絶対にイエス様を信じるはず」と思っているからかもしれません。しかし、考えて見ると奇跡のレベルは別として、同様の出来事はいろいろな場所や人物によってなされることが可能です。出エジプト記の中にもモーセが起こした奇跡を、エジプトの呪術師たちが同じように行ったことが記されています(出エジプト7章)。奇跡自身が人々を信仰へと導くのではありません。そうではなく、その奇跡の背後にある神の力が私達を信仰へ導きます。そして、そこで表された奇跡を神のみ業と理解させるのがこの聖霊の働きであると言えるのです。

2.聖霊は何をもたらしたか
(1)炎のような舌

 「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と語られています。洗礼者ヨハネは来るべき救い主、キリストを紹介するとき、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイによる福音書3章11節)と言っています。このときも聖霊は「炎」と言う言葉で表現されています。火や炎は「浄化」つまり、罪人からその汚れを取り除き清めるという役目をはたします。また、そのような意味で火は汚れた存在のすべてを焼き尽くす裁きの使命を果たします。聖霊はキリストの救いを私達の上に実現し、私達を神にふさわしい者として清めてくださるのです。この聖霊が働かなければ、私達はイエスの救いを自分のものにすることはできません。そのような意味で、聖霊が働かないと言うことはその人に対する厳しい裁きを表すことにもなるのです。
「舌」と言う単語は「言葉」と同じ意味を持っています。

「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。

 弟子たちが聖霊に満たされて他の国の言葉で話し出したことが語られていますが。この出来事がまぎれもなく天から遣わされた聖霊の働きの結果であることをこの「舌」は目に見える形で示しているのです。

(2)様々な国の言葉を語る弟子たち

 「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」。
 五旬祭に集まったユダヤ人たちがこの出来事に驚いて弟子たちの元に集まって来ます。そして彼らが各自、自分の生まれ故郷の言葉をそこで耳にすることになります。彼らの存在はそのことを理解するために用いられます。パウロは異言は解き明かす人がいなければ意味がないと言っています(コリントの信徒への手紙一14章)。このペンテコステの日に弟子たちが語った言葉が「異言」であるかどうかは議論がありますが、エルサレムにこの日各地から人々が集まっていなかったら、そして彼らが弟子たちの語る言葉を聞かなかったら、弟子たちの語る言葉が驚くべきものであったことが分かりません。彼らがいなければ、それは単なる酔っぱらいの語る戯言にしかならなかったのです。しかし、彼らはこの出来事がどれだけ驚くべきことかをここで証言しています。
 彼らは弟子たちをここで「ガリラヤの人」と語っています。この言葉にはどちらかというと、弟子たちが「学のない田舎者」と言う意味も含まれています。つまり、彼らが流ちょうに外国語を語ることができる能力があるとは通常は考えられないと言っているのです。

3.聖霊の働きの意味
(1)言語の障害を取り除く聖霊の働き

 使徒言行録の著者はここで実際に弟子たちの語った外国語の言葉が広範にまたがっていたかをそれぞれの地名を記して説明しています。5節で「天下のあらゆる国」と言う表現がありますから、当時のユダヤ人たちにとってここには世界を網羅する地名が列挙されていると言っていいのかもしれません。外国の言葉を語ること自身は、私達も勉強をすれば可能かもしれません。しかし、私達がいくら勉強をして外国語を語ってもそれは聖霊の働きの結果ではありません。それでは聖霊は何のために彼らにこのとき外国の言葉を語らせたのでしょうか。
 カルヴァンはこの部分の解説で興味深いことを語っています。もともとこの地球上にたくさんの言葉が存在することには理由があると聖書は私達に教えています。旧約聖書の創世記11章に記されている「バベルの塔」の出来事がそれです。人類はそれ以前には皆、一つの言語を語っていたのですが、高慢になった人類は神の権威を揺るがすような計画をここで立てるのです。そこで神は人間が一つの言語のままであるなら、たいへんなことになってしまうと痛感されたのです。そしてその人類の言葉を様々な異なった言語にしてしまったのです。ですから人類がこのように様々な言語に分かれているのは、人間の罪の結果であると聖書は教えているのです。
 神の計画はキリストの福音を通して人類が救いにあずかることにありました。人間の罪によって築かれた言語の混乱は、この福音が全世界に広がるためには大きな障害となっていたのです。そこで聖霊の働きはこの障害を打ち破って、様々な言語の人々が皆同じようにキリストの福音を聞くことができるようにしたのです。人の罪によってこの世界は救いようのない混乱の中にあるのですが、聖霊の力はその混乱を克服し、人々にキリストの福音を伝えることができるのです。
 この日曜日の朝に世界の各地で教会の礼拝が守られています。そこで語られる言葉は様々に異なっています。しかし、その異なった言語によって「神の偉大な業」、「キリストの福音」が毎週教会で語られているのは、弟子たち上に働いた聖霊が同じように全世界の教会に働いているからなのです。

(2)人を変える聖霊の働き

 聖霊の働きの本当の意味を使徒言行録はこの後で記しています。この後、教会に起こった変化のすべての源はこの聖霊の働きによるものであることを聖書は語るのです。使徒言行録の記した出来事の本当の意味を理解するためにこの聖霊降臨の出来事は見逃すことができないものなのです。
 ある村に一人の旅人がやってきました。彼の目的は「神の奇跡をたくさんの人々が体験できる」と言われるこの村にやって来て、あわよくば自分もその奇跡をあやかるためでした。彼はその村の人に尋ねました「噂の通り、この村ではたくさんの人々が神の奇跡を体験しているのですか」。すると村人はすぐに「その通りですよ」と言いながら、次のように続けます。「でも、あなたは奇跡とは神がその不思議な力を使って人間の願いを叶えることを考えているのかもしれませんが、この村ではそれを奇跡と言うのではないのです」と言うのです。そして彼は続けました。「本当の奇跡というのは私達のような罪人が神様を信じられるようになること、そして神様に喜んで従って生きたいと願うようになることなのです。この村ではそんな奇跡を体験したがたくさんいるのです」。
 聖霊は私達に働いて神の奇跡を起こします。そしてその奇跡とは私達がキリストの救いにあずかるために邪魔になる様々な障害をその「火」を持って取り除き、私達の心に信仰を与え、私達の唇に神への賛美の言葉を語らせることなのです。私達はこの聖霊降臨の出来事を読みながら、私達も同じように聖霊のみ業の中に生きていることを再び確認したいのです。

【祈祷】
私達に聖霊を送り、私達の上にキリストによる救いを実現してくださるみ業を心より感謝します。キリストの言葉を信じ、約束の実現の日を忍耐を持って待ち望んだ弟子たちと同じように、あなたのみ業が私達の人生のふさわしい場所と時に実現することを信じて生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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