Message 2011 Message 2009 Message 2008 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
「ペトロの説教一」

(2011.11.20)

聖書箇所:使徒言行録2章14〜28節(新P.215)

14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

1.使徒の証言
(1)キリストに導く聖霊の働き

 テレビのニュースでブータンの国王夫妻が震災で被害を受けた福島の地を訪問し、様々な人を励ましたと言う出来事が報道されていました。そのとき、福島のある小学校を訪問したブータン国王が小学生たちに話した内容が紹介されていました。国王はブータンの国旗にも描かれている竜の話を持ち出して、竜は経験を食べて成長し、やがて誰にも負けない強う竜になるのだと語ったのです。福島の地で大変な災害を経験した小学生たちに、その経験がやがて彼らを強くしてくれると言うことを教え、励まそうとしたのでしょう。
 残念ながらキリスト教の聖書で竜は悪魔を象徴する動物で、あまりよい意味では用いられません。しかし、私達が人生で経験した様々な出来事を神様が必ず用いてくださると言うことは確かなことです。それが私達にとってたとえ好ましい経験ではなかったとしても、神様はそのすべてを用いてくださるのです。私達は今、聖書からペンテコステの出来事を学んでいます。ここで登場する聖霊は聖書を用いて、また私達の経験を通して私達をキリストへと導き、私達に真の救いを与えてくださる方だと言えるのです。

(2)私達の内面に働く聖霊のみ業

 ペンテコステの日にエルサレムの町にとどまっていたイエスの弟子たちの上に神様は驚くべき出来事を経験させました。聖霊が天から注がれ、そこに集まる弟子たちは様々な国の言葉で神の大いなるみ業について語り出したのです。この日の聖霊の働きは誰にでも理解できるように、特別な姿と音で表されています。しかし、私達の経験する聖霊のみ業は、大半の場合は人の目ではむしろ判断のつきにくいような私達の心の内面で起こることが多いのではないでしょうか。今日の部分でペトロは人々の前で立ち上がり大胆に説教をはじめています。実はこのペトロの説教も聖霊の働きによるものなのです。なぜなら聖霊は私達を聖書の言葉と、私達が自分の人生で得た経験のすべてを用いてキリストに導かれるからです。ペトロはこの聖霊の働きによってここで大胆にキリストを証しする説教を語っています。またこのペトロの説教を通して最後には三千人もの人々が洗礼を受けて、新たに教会の仲間に加わったと記されています(41節)。このすべては聖霊のみ業の結果によるものです。
 それでは私達は自分の人生で働く聖霊の働きをどのように見分けることができるのでしょうか。聖霊は私達をキリストへと導きます。そのために私達を悔い改めさせ、信仰へと導くのです。ですから私達がこのようにしてキリストを信じて信仰生活を送ることができていることを通して、私達に聖霊が働いていることを確信することができるのです。

2.すべての人が預言する

 さてこの日のペトロの説教は次のように始まっています。

 「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」(14〜15節)。

 これはペンテコステの出来事を「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(13節)とあざけった者たちへの反論の言葉です。「酒に酔いしれてはなりません…むしろ、霊に満たされ(なさい)」(エフェソ5章18節)とかつてパウロは語りました。酒によっても、私達の人生の本当の解決は与えられません。しかし、聖霊は私達に真の救いを与え、希望を与えるのです。この日イエスの弟子たちは御霊に満たされることで、確かな人生を歩み始めます。
 そしてペトロはこの出来事は旧約聖書に記されていた預言が成就して起こったことなのだと説明しています。旧約聖書に収められているヨエル書によれば、すべての人々に神様からの霊が注がれて、その霊を受けた人々が預言を語るという言葉が記されています。旧約の時代には選ばれたわずかな人々にだけ霊が注がれ、預言者が神の言葉をとりつぎました。ところが、このペンテコステの日に集まった120人ほどの人々は男女や、年齢の違いをこえてそこには様々な人がいたのです。彼らに共通しているのは、皆、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、そのイエスと共に生きる決心をしていると言うことでした。そのとき、この光景を目撃した人々は彼らは「皆、ガリラヤの人々ではないか」(7節)と語っています。そこに集まっていた人々は普段なら誰の目も留められない普通の人々だったのです。ですからその人々の上に聖霊が注がれたことをペトロはヨエルの預言がここで成就したのだと言っているのです。
 ここで興味深いのはペトロがこのヨエルの預言が実現して、自分たちの上に聖霊が注がれたことについて、それは「終わりの時」の徴であると語っている点です。聖霊を受けた者にはもはや何の災いも起こらず、すべてが安全であるとペトロは語っているのではありません。むしろ、神様はこの聖霊の降臨の出来事を通して、この罪の世界に決着をつけ、完全な救いを実現させようとしていと言うのです。
 その救いの完全な実現のためにはこの地上において私達も様々な試練の中に立たされるかもしれません。しかし、それは私達を滅ぼすために起こるできごとではなく、私達を救うために神様が計画された出来事なのです。ペトロはその終わりの時が聖霊降臨の出来事を通して始まったこと、そしてこの終わりの時に神様が私達に求められることは「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(21節)と語られているように、私達が救い主イエス・キリストを信じ、その方に従って生きていくことなのです。

3.キリストを指し示す聖霊
(1)正しい理解を妨げるもの

 さて。ペトロはここでペンテコステの日に起こった不思議な出来事の意味を説き明かすだけで説教を終えているのではありません。彼の話は次にイエス・キリストについての話に変わっていきます。なぜなら聖霊は、彼らが主イエス・キリストを証しするために、そして彼らが主イエスの復活の証人となるために天から送られたからです。
 ペトロはここでイエスが確かに「神の子」であることを人々に論証しています。まず、イエスが地上でなされた奇跡と、不思議な業、しるしによってそれは証明されていると彼は語るのです。これらの事柄はイスラエルの人々が実際に体験した事柄でした。しかし、彼らはそれらの出来事を自分の都合のいいように理解したり、またイエスの力をも利用しようとしたために、彼らはその本当の意味を理解することができなかったのです。
 自分の願望を実現するための助けとして信仰を考えている人は、救い主イエス・キリストに出会うことはできません。私達が自分に都合の悪い出来事が起こったとき、「こんなはずではなかった」とだけ考え、その出来事を受け入れないとしたら、私達はその出来事を通して私達を真の救いへと導こうとされる神様のみ業をも拒否してしまうことになります。私達にとって大切なのは起こった出来事をペトロと同じように聖書を通して考え、また聖霊の助けを持って理解していくことなのです。そうすれば私達もまたどのようなときにも救い主イエス・キリストにあって希望を持ち続けることができるのです。

(2)復活によって明らかにされたこと

 さてペトロは次にイエスが「神の子」であると言う確かな証拠をその十字架と復活の出来事を通して人々に論証しています。

 「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(23〜24節)。

 ユダヤ人は十字架にかけられたイエスに向かって「(おまえが)神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27章40節)とののしりの声を上げました。彼らはイエスが十字架にかけられ、そこで死んだことは、彼が神の子ではないことを証明しているのだと考えたのです。かつては弟子たちも同じような思いを持っていました。だから彼らはイエスが十字架にかけられ死んでしまったときに、イエスの前から逃げ出すしかなかったのです。
 しかし、弟子たちはやがてこのイエスが復活されると言う事実を体験しました。そしてイエスの復活は彼が真の神の子であったことを証明するものだったと考えたのです。ペトロはここでダビデが読んだとされる詩編16編の言葉を引用してこの理由を説明しています。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない」。イエスは「聖なる者」として、つまり「神の子」として父なる神様から取り扱われているので、だからイエスは復活の恵みにあずかったとペトロはこの旧約聖書の言葉を通して説明しているのです。

4.聖霊が明らかにする正しい信仰

 今日の部分の最初でペトロは他の「十一人と共に立って」この話を語り出したと記されています。つまり、ここでペトロが語っている話は彼自身が得た独自な見解ではなく、十二人の使徒が聖書を読み、聖霊によって導かれて得た結論であったと言えるのです。地上にあってイエスのみ業を実現するために選ばれた十二人の使徒の大切な使命は教会を建てると言うことにありました。教会を建てると言っても彼らは建築家でも、大工でもありません。ですから、彼らの役目は教会堂と言う建物を建てると言うことではなく、イエスを信じる者たちの共同体を組織し、それを育てると言うところにあったのです。
 それではその教会にとって大切なことものは何でしょうか。それはイエスに対する正しい信仰を、そこに集められた皆が持つと言うことです。ところが一口に「イエスを信じる」と言っても、そこには様々な理解や解釈が生まれる可能性があります。ある人はイエスを自分の模範になる人だと考えるかもしれません。また、他の人はイエスを霊能力者の一人として信じていると言うかもしれません。しかし、このようにイエスに対する理解やその信仰がばらばらであったなら、それは真の教会とは言えません。それではイエスに対して興味を抱く人々が集まる自由なサロンのようなところになってしまいます。何よりもその信仰理解が人間の生み出した単なる解釈なら、私達を罪から救い、永遠の命を与えるものとはなり得ないのです。
 そこで使徒たちはイエスについて、また神について私達は何を信じるのかを明らかにする必要があったのです。ペトロのここでの説教はその正しい信仰の内容を教えるものだったのです。イエスは父なる神が私達を救うために遣わしてくださった方、子なる神なのです。だからその方は私達を罪から救うことができ、私達に命を与えることができるのです。
 教会の信仰を告白する古い文章の中に「使徒信条」と言うものがあります。その内容は私達の教会の週報にも印刷されています。これは使徒たちが信じた教え、使徒たちが伝えた教えを簡単に言い表すものだからこそ「使徒信条」と言う名前がつけられているのです。教会はこの使徒たちの理解した教えを大切にしてきました。そしてその教えはペンテコステの日にこの使徒たちに与えられた聖霊が彼らに教えらたものなのです。
 聖霊が今でも私達の上に豊かに働いておられる証拠は、私達もこの使徒と同じ信仰の告白を今ですることができることに表されています。教会は今でも聖霊によって導かれた使徒たちが教えた信仰の土台の上に建っているのです。そして私達もまたこの聖霊に導かれて、この使徒たちが伝えた信仰の教えを人々に宣べ伝えることができるようにされているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
聖霊を私達に送り、使徒たちが信じた信仰と同じ信仰を私達に与えてくださる恵みを感謝いたします。この神様の救いが世界に実現しようとしているこの終わりの時に、様々なものが変化し、また人々に不安と恐れを抱かせるときにも、私達をキリストへと導き、そこに真の希望があることを確信することができるように、私達の教会を聖霊によって導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

このページのトップに戻る