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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「どうしたらよいのですか?」

(2011.12.04)

聖書箇所:使徒言行録2章29〜39節(新P.216)

29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』
36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

1.ペトロの説教に対して反応する聴衆

 アメリカのピューリタンで有名な説教家にジョナサン・エドワードと言う人がいます。キリスト教の説教家の歴史を学ぶ際に決して忘れてはならない人物の一人です。彼の名前が有名になったのは彼の語る説教の内容が人々に大きな反響を起こしたからです。エドワードが語る神の裁きの対象である罪人の運命、その罪人がどのような地獄の責め苦を味わうことになるかを描く場面では聴衆の中に卒倒する人が続出したと言われています。残念ながらエドワードの説教は日本語にはなかなか翻訳されません。翻訳しても日本の伝道には役に立たないと思われているからでしょうか。しかし、エドワードは聴衆を恐怖に陥れ、卒倒させるためにその説教を語ったわけではないと思います。彼は罪の悲惨の中に生きながら、自分のその惨状にも気づかないでいる人にその危機的な状況を悟らせ、イエス・キリストへの信仰によって与えられる希望を示そうとしたのです。
 説教者に与えられている大切な使命はイエス・キリストへの信仰に人々を導くことにあります。しかし、その使命を果たすことは必ずしも簡単ではありません。なぜなら、神に背を受けて生きてきた人間ぬいは、このイエス・キリストへの信仰が必要であることを理解することはできないからです。ジョナサン・エドワードはその必要性を理解させるために、神の厳しい裁きの御手の中にある罪人の悲惨な運命を説教の中で強調したのです。
 今日の聖書の部分では前回学びましたペトロの説教の後半の部分が語られています。そしてこの説教を聞いた人々から「わたしたちはどうしたらよいのですか」(37節)と言う反応が起こっています。ペトロの説教を聞いた人々が「このままでは大変なことになる。どうしたらいいだろうか」と考え始めたのです。今まで学びましたようにペトロの説教をこの時、聞いた人々は五旬祭でエルサレムに集まった人々でした。その祭りの最中にイエスの弟子たちが突然、習ってもいない様々な外国語で話し始めた出来事に驚いて集った人々です。確かに彼らは「信心深いユダヤ人」(5節)と言われていますが、特別に何かを求めてペトロの話を聞きに集った者たちではなかったのです。その野次馬のような人々がここではペトロに「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と自分たちの将来について真剣に考えるようになります。そしてこの後、3000人以上の人々がキリストを受け入れて洗礼を受けたというのです(41節)。このような人々の変化はどうして起こったのか。どうしてペトロの説教がこのような反応を引き起こしたのか。そのことについて少し考えてみたいと思います。

2.旧約聖書のキリスト論的解釈

「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない」(27節)。

 ペトロはダビデの作と考えられる詩編16編の言葉(旧約聖書のギリシャ語訳からの引用)を引用してイエス・キリストの復活が旧約聖書に預言されていた出来事であったと説明しています。ペトロの論旨はもしこの詩編の内容がダビデ自身のことを語っているとしたら、内容に矛盾が生じてしまうと言うのです。なぜならダビデは死んで葬られ、その墓は今でも存在しているからです。ダビデが死んだままである以上、「朽ち果てるままにしておかない」、つまり「死んでしまったままにしておかない」と言う言葉が実現しなかったことになると言っているのです。 そこでペトロはダビデは預言者であって、神の救いの計画をこの詩編を通して語ったと考えるのです。しかもこの救いの計画はダビデの子孫、その王位を約束された者の中から起こることを神は彼に約束していたのだと言うのです。
 詩編はご存じのように信仰者の読んだ詩のようなものです。信仰に関する内容を詩の形で表現した文章です。おそらく、この詩編16編を自然に読めば、これは作者が自分は決して神に見捨てられることがなく、地上の生涯が終わってもその神との関係は変わらないことを告白する内容であることがわかります。つまり、この詩自身を読んだだけでは、これがキリストについての預言であると言うことは誰にもわからないのです。それではどうしてペトロはこの詩編がキリストの復活を預言するものだと判断することができたのでしょうか。それはペトロたちが行った独特の聖書解釈の方法に理由があるのです。
 ペトロはこのダビデの詩編についての解釈を明らかにした後、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」(32節)と語ります。彼らにとって何よりも確かなことはキリストが甦られたこと、死に勝利して復活されたと言うことです。この出来事をかき消すことのできるものは何もありません。なぜなら、この出来事が弟子たちの心には焼き印のようにしっかりと刻み込まれているからです。そこで彼らがとった旧約聖書の解釈方法は、(この時代はまだ新約聖書は出来ていませんでしたから…)キリストによって明らかにされた救いの出来事を通して聖書を読むこと、聖書を解釈をすると言う方法でした。その点で彼らの聖書解釈方法は他のユダヤ人たちにはできない新しい方法でした。なぜなら、彼らはキリストの復活を知らないからです。
 旧約聖書を熱心に読むのは私たちキリスト者だけではありません。ユダヤ教徒もイスラム教徒もこの書物を大切にしています。しかし、私たちの旧約聖書についての理解は他の宗教に属する人々と根本的に違います。それは私たちが旧約聖書をキリストによって示された救いの出来事を通して解釈するからです。
 キリストによって示された救いの出来事、弟子たちが心に刻んだ確かな事実、それは今や新約聖書の内容として私たちに伝えられています。ですから、私たちにとって大切なのは新約聖書によって示された、イエス・キリストによる救いの出来事を通して、旧約聖書を読むことそれが私たちにとって大切であると言えるのです。旧約聖書の内容はこのキリストによる救いの出来事を通してその本当の意味を理解することが可能となったのです。

3.聖霊降臨が示した事実

 さて、ペトロは人々にキリストについてここで何を示したのでしょうか。人々はペトロから何を示されて「自分たちはどうしたらよいのだろうか」と言う思いにさせられたのでしょうか。ペトロは語ります。

「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(33節)。

 イエスは復活され、天に昇られました。ここでの「イエスは神の右に上げられ」と言う表現はイエスが救い主として天と地とすべてを治めることのできる権威を父なる神から授けられたと言う意味です。そしてイエスが天地万物すべてを治められる統治者となられた証拠として今、弟子たちの元に聖霊が遣わされたとペトロは語るのです。
 ペトロは自分たちに起こった出来事、群衆が目の前で目撃している出来事こそ、キリストの復活とその勝利を証していると説明しているのです。そしてペトロはこのことについても詩編110編の言葉を引用して解説します。

『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」』(34〜35節)。

 この言葉こそ、天に昇られたイエス・キリストの勝利に満ちた支配を預言しているとペトロは語っているのです。復活され、天に昇られたイエス・キリストは今は、私たち人間の肉眼の目で見ることができない存在です。しかし、その確かな存在を確かめることができるものがあるとペトロは語ります。それはエルサレムに集った人々が目撃した聖霊に満たされて神のみ業を語った弟子たちの存在です。聖霊に満たされた彼らの存在こそがイエス・キリストの復活と勝利を示すものなのです。
 神は今も、私たちに聖霊を送り、私たちに一人一人に信仰を与えてくださいます。それは私たちを通してキリストの復活と勝利を証しさせるためです。聖霊は私たちがキリストの復活の証人として生きることができるようにしてくださり、私たちを通して今もイエス・キリストが生きていることを証ししてくださるのです。

4.あなたのために十字架にかけられた
(1)あなたのために

 長い間、ラジオ伝道の奉仕をしていて、いろいろと学ぶことができたものがあります。私はラジオを録音するときにその対象が不特定多数の人々であると言うことを考えて、よく「皆さんは」と言う呼びかけの言葉を使うことがありました。しかし、あるとき録音の奉仕をしてくださるスタッフの方から「「皆さん」ではなく、「あなたは」と呼びかけてほしいのです」とアドバイスされたことがあります。なるほど、放送を聞いている人は確かに不特定多数の人であるかもしれません。しかし、その放送を聞いている人は一人一人、別の人格を持った人たちなのです。そしてその人たちは皆、自分に語られるメッセージを聞きたいと思ってラジオに耳を傾けているのです。ですから「皆さんはどうしますか」ではなく、「あなたならどうしますか」と語りかけた方がよいのです。
 ペトロの説教を読むと、彼の語った人々への呼びかけの言葉が微妙に変化していることがわかります。最初ペトロは「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」(14節)と語りかけています。次に「イスラエルの人たち」(22節)と言う呼びかけ変わり、今日の箇所の最初のところではその言葉が「兄弟たち」(29節)となっています。ペトロはこの呼びかけの言葉を通して、このときエルサレムで起こった出来事に驚いてそこに集った人々に「あなたたちはこの出来事の傍観者ではなく、当事者として集められている」と語りたかったのではないでしょうか。つまり、ここで起こった出来事は「あなたのため」に起こったことであるとペトロは言っているのです。

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。

 「あなたがたが神が遣わされた救い主を十字架につけて殺したのだ」とペトロは人々の罪を告発しているのです。そしてこの言葉を聞いた人々は「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言う反応を示すことになりました。神の救いの計画と自分との関係がこのペトロの告発によって明らかにされたのです。

(2)聖霊の働きが私たちにもたらすもの

 私たちは実際に、イエスの十字架の刑罰を目撃した者でも、また「イエスを十字架につけよ」と叫んだユダヤ人の一人でもありません。しかし、「イエスを十字架につけた人はあなたたちだ」と言う問いに対して、「確かに私もその一人です」と答えることができる者だけが神の救いの計画と自分との関係をはっきりと理解することになることには変わりはありません。
 どうして、神が遣われた救い主イエス・キリストは十字架にかかり殺されなければならなかったのでしょうか。それは私のためであり、私の罪を身代わりに背負い、その呪いを代わって受けられたためだと考える人に、聖書の語る福音は力を現すことになるのです。なぜなら、聖書の語る福音はキリストを十字架につけるような罪を犯した者たちのために語られているからです。ですから、「私とキリストの十字架とは何の関係もありません」と考える人には聖書の福音は力は何に効力も現すことができないのです。
 だからこそ「キリストの十字架の死は、自分のために起こった」と思える者は幸いな人であると言えるのです。いえ、私たちは誰も自分の知識や知恵ではこの事実を悟ることはできないのです。キリストが天から聖霊を送ってくださらなければ私たちはこのことを誰も悟ることができません。この意味ではこの聖霊降臨日の日に天から聖霊を受けたのは外国語を語りだした弟子たちばかりではなく、ペトロの語るメッセージに心打たれ「わたしたちはどうしたらよいのですか」と語り出して人々の上に聖霊が送られていたのです。
 私たちもまた同じ聖霊の力を受けてキリストへの信仰を告白し、今、神を賛美する者としてこの礼拝に集められています。そして私たち一人一人の存在は、私たちに聖霊を天から送ってくださっているイエス・キリストの復活とその勝利をも証しするものであることを、私たちはこのペトロのメッセージから知ることができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
イエス・キリストの十字架の死と私たちとの関係を明らかにし、私たちをキリストの福音へと導いてくださった聖霊の働きに感謝します。その聖霊は私たちを用いて、キリストの復活とその勝利を証しする者としてくださいます。降誕節のシーズンになり、町にはクリスマスの飾り付けが行われるようになりました。このクリスマスを祝う人々に、ペトロの元に集った人々と同じように、クリスマスの本当の主役であるイエス・キリストとの関係を知ることができるようにしていください。そのために私たちの教会が人々に大胆にキリストの福音を伝えることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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