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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「主に救われた人々の生活」

(2011.12.11)

聖書箇所:使徒言行録2章40〜47節(新P.217)

40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

1.ペトロの勧めを受け入れた三千人の人々
(1)神の一人息子を殺した人々

 イエスの語られた数々のたとえ話の中に「ぶどう園と農夫」のたとえと言うお話があります(ルカ20章9〜19節)。主人が作ったぶどう園をゆだねられた農夫たちは、そのぶどう園の収穫物をすべて自分のものにしてしまおうと企みます。そのため、収穫されたものを受け取るためにやって来た、主人の元から遣わされた僕たちをひどい目に遭わせた上で追い返してしまいます。そしてこのことに悩んだぶどう園の主人は農夫たちの元に自分の愛する息子を遣わすことに決心します。主人は自分の息子なら農夫たちも敬って、その言うことを聞いてくれるだろうと考えたのです。ところが農夫たちはこの農園全体の権利を引き継ぐはずの跡取り息子を殺したら、「農園全体は自分たちのものになるはずだ」と考えて、この主人の息子を殺害してしまうのです。そしてイエスはこのような暴挙を行った農夫たちを主人は決して見逃さず、かならず厳しい罰がくだされるはずだと語ったのです。
 この話を聞いた律法学者や祭司長たちは「イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」(19節)と記されています。ぶどう園は神によって選ばれた民イスラエルの人々を指し示しており、そのぶどう園を神からゆだねられた農夫たちは当時の宗教家たちのことを表していたからです。当時のユダヤの宗教家たちは神の元から遣わされた預言者の言葉を無視した上に、神がご自分の子であるイエスを救い主として遣わされても、そのメッセージに耳を傾けなることがなかったのです。そして彼らは神の一人息子であるイエスが自分たちにとって邪魔者であると考え、彼を十字架につけて殺してしまったのです。本当ならイスラエルの民を神の元に導くべきつとめを与えられている宗教家たちが、自分たちの利害のために神が遣われた者たちを迫害し、その上で神の子イエスまで殺してしまったのです。ですから彼らには厳しい神の裁きが下されることが予想できるのです。

(2)邪悪な時代から救われよ

 そこでペトロはペンテコステの日にイエスを信じる者の群れの上に起こった不思議な出来事に驚いて集った人々にこのように語りかけます。「邪悪なこの時代から救われなさい」(40節)。ここに語られている「邪悪」さとは神から遣わされた僕たち(預言者)を迫害し、そのメッセージに耳を傾けない人々、主イエスを十字架につけた人々が民衆の上に君臨し、神の救いが実現することを邪魔している時代のことを語っているのです。そしてペトロはこの邪悪な時代から救われるためには、神が遣わされた救い主イエスを受け入れる必要があると訴えたのです。
 邪悪なこの時代を神はそのままにはしておかれません。自らの目先の利害にこだわり、救い主を受ける入れることのできない世に対して、神が裁きをくだされるときがやってきます。それが聖書の語る最後の時、終末のときです。ペトロはこの終末のときを前にして、キリストの福音を受け入れることが大切であることを説いているのです。そして彼のその勧めに耳を傾けた三千人ほどの人々が洗礼を受けて教会の仲間に新たに加わったと使徒言行録は言っています。聖霊が彼らの心に働きかけ、キリストへの信仰を彼らに与えられたのです。ですから彼らが受けた洗礼はその聖霊の働きかけを確かに受けたと言う証拠なのです。そして、洗礼を受けた人々はこの聖霊の働きを通して、天におられるイエスとの命の関係に入れられたのです。そのような意味で洗礼は私たちとイエスとの命の関係が結ばれたことを表す目に見える印なのです。そして聖霊は私たちとイエスとの間の命の関係を堅く保つために働き続けてくださるのです。

2.信仰者の生活
(1)使徒の教えと相互の交わり

 使徒言行録は新たな仲間が加えられたキリストの教会の人々がどのような生活を送ることになったのかをここで語っています。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)。

 先日の夜の祈祷会で12歳になられたイエスが両親から迷子になり、やがてエルサレム神殿で発見されたと言う聖書の記事を学びました。その中で日本の有名な説教家でもあり、神学者であった植村正久の「キリストを縮小するなかれ」と言う言葉が紹介されていました。これは私たちがいつのまにか救い主イエスを自分の器にあわせて小さくしてしまうことへの警告の言葉です。私たちがイエスを自分の器に合わせて小さくしてしまうなら、結局は本当のイエスを見失ってしまうことになるのです。私たちが作り出した小さなイエスには私たちを救う力は決してありません。ここで初代教会の人々が「使徒の教えに」熱心に耳を傾けたことが語られています。ここで言われている「使徒の教え」とは教会の教理と理解してよいでしょう。教理を学ぶことはときには私たちにとって退屈であったり、難しいことがあります。しかし、教会の教理は私たちが真のイエスを見失うことがないように私たちを助けるものなのです。だから初代教会の人々もこの使徒の教えを大切にしたと言えるのです。
 「相互の交わり」。今日の礼拝で交読するジュネーブ教会信仰問答問281は興味深いことを言っています。カルヴァンはここでもし人が、イエスが教えてくださった主の祈りの「罪の赦し」を求める祈りを必要としないと考えているなら、その人は「キリスト者の交わりを棄てることになるのであります」と言っているのです。このカルヴァンの言葉から考えればキリスト者の交わりとは「神に日ごとに罪の赦しを求める人々」が集る交わりと定義されると言ってよいでしょう。教会は聖人たちが集っている場所ではありません。神に日ごとに罪を赦していただかなければならない人々が、その赦しを真剣に求める人々の集まりが教会の交わりなのです。そして同時に、その罪がイエス・キリストの故に赦されていることを日ごとに確信し、感謝する者が集る場所が教会の交わりです。ですから、もし私たちが互いに許し合い、愛し合うことができるとするなら、それは私たちが神様からすばらしい赦しを受け、またその愛を豊かに受けているかからなのです。そのような意味で私たちの教会の交わりはこの神の赦し、神の愛の上に成り立っているものなのです。

(2)パンを裂くことと祈り

 「パンを裂くこと」。これは私たちの教会で執行される聖餐式の式文の中にも登場する言葉です。ですから彼らは聖餐式を守ることに熱心であったと理解することができます。この聖餐式は主イエスが十字架にかかられる前の夜に弟子たちとともに守られた食事を記念し、それを思い起こすためのものです。弟子たちがその聖餐式を繰り返し守ったのは、この最後の食事の席での主イエスの姿を思い起こすためであったと考えることができます。主イエスはすでに天に昇り、弟子たちの目に見える形ではこの地上にはおられません。しかし、聖餐式を守るとき弟子たちはそのイエスが自分たちと今もともにいてくださることを信仰の目を持って見ることができたのです。
 私たちの信仰生活は決して平坦なものではありません。特に私たちは試練にたたされるときに主イエスの姿を見失うことがたびたびあるのです。主イエスはどこにおられるのか。イエスは私を見捨ててどこかに行ってしまったのではないかとまで疑いを抱くときがあるかもしれません。聖餐式はそのような弱さを持つ私たちを助けるためにイエスが残してくださった礼典です。ですから、この聖餐式に与る私たちはその席にイエスがともにいてくださることを信仰の目を持って確認することできるのです。そして聖霊は実際に聖餐式に与る私たちのうちに働いてイエスとの命の交わりをさらに堅くしてくださるのです。
 「祈ること」。祈りは私たちの独り言ではありません。神との会話です。ですから神が生きて働いてくださると信じる私たちはその神に祈りを持って話しかけることができるのです。また神も私たちとの祈りの生活を通してその関係を深めてくださるのです。
 「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」。これらは私たちにキリスト者に課せられた義務ではありません。むしろ、私たちの弱さを知る私たちに神が与えてくださった私たちを助けるための手段のようなものなのです。ときどき、「教会生活に疲れたので一人で信仰を見つめ直したい」と考える人がいます。しかし、このように考える人は自分の弱さを知らないからそういえるのかもしれません。神が与えてくださったこれらの助けの手段を用いないで、私たちの信仰生活を維持することはできないのです。そのためこの助けを私たちが手放すとき、私たちの信仰生活はやがて枯渇し、死を迎えるしなかないのです。

3.神を賛美する生活

 最後に初代教会の人々が示した二つの態度について考えましょう。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(44〜45節)。この使徒言行録の記述はいつの時代にも様々な誤解を生みました。「キリスト者は私有財産を持たないで、すべてを共有すべきである」と考える人が現れたのです。しかし、自分の財産を売って、教会にその財産を寄付したバルナバの話(4章36節)などがこの書物にわざわざ記されているのは、その行為がきわめて特異なものであったからだと言えます。さらにこの初代教会の人々が示した行為は信仰の目的ではなく、信仰がもたらした実の一つであったと理解することができるのです。なぜなら、自分の生活のための思い煩いで頭がいっぱいの人は決して他人の生活を助けることを考えることができないからです。初代教会の人々が示したこの愛の行為はイエスの福音に基づいて、彼らが「思い煩い」から解放されていたことを表しているのです。
 第二に彼らは毎日「神殿に参り」(46節)と記されています。これは少し不思議なことです。なぜなら主イエスを通して神を礼拝することが可能になった人々にとって、エルサレム神殿の礼拝はすでに用のないものになっていたからです。エルサレム神殿で行われる礼拝も、またその神殿自身も、イエス・キリストを指し示すためのものでしかありませんでした。それなのに彼らは、前と同じように神殿に参拝したと言うのです。カルヴァンはこの行為について初代教会の人々が神殿で集る人々にキリストの福音を伝えるためのものであったと説明しています。私たちは次にこの神殿の「美しの門」と言うところで起こった出来事を学ぶことになっています。この出来事も実はペトロとヨハネが神殿に参拝する途中で起こっています。そしてこの出来事をきっかけに二人はイエスの福音をユダヤ人の前で語る機会を得ていくのです(3章)。
 初代教会の人々は神の望みは人々がこの「邪悪なこの時代から救わる」ことだと言うことを知っていました。だから彼らは自らの家に止まり続けることなく、福音を必要としている人々のところに赴いて、その福音を証ししたのです。そしてその神のみ旨に従う人たちを用いて神が働いてくださった結果、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」と使徒言行録は語っているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちに聖霊を送ってくださり、私たちの信仰生活を導いてくださることに感謝いたします。あなたに導かれて「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」初代教会の人々と同じように、私たちもこれらのあなたの与えてくださる助けを用いて信仰生活を送ることができるようにしてください。私たちを自分に対する思い煩いから解放し、兄弟姉妹に対する愛に生きる者としてください。またあなたのみ旨を覚えて、キリストの福音を証しすることができるように私たちをこの世界に遣わしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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