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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「何かをもらえる…」

(2011.12.18)

聖書箇所:使徒言行録3章1〜10節(新P.217)

1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

1.美しの門での出会い
(1)祈りのために神殿に向かう

 今日はエルサレム神殿の「美しの門」の近くで起こった生まれつき足の不自由な男のいやしの物語から学びます。先に学んだ使徒言行録の2章43節には「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」と言う言葉が記されています。この言葉を裏付ける実例として今日の足の不自由な男の癒しが紹介されていると考えることができるかもしれません。さらに今日の出来事はやがてユダヤの宗教議会によってペトロとヨハネが逮捕される出来事を引き起こす原因となっています。それを証明するように二人の逮捕の出来事を記した記事の後の4章22節では「このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた」とこの男性のことが再び紹介されています。つまり、使徒言行録はこの男性の出来事と使徒たちの活動に対して起こったユダヤ人の迫害は強く結びついていると教えているのです。
 イエスはかつて弟子たちが世から憎まれ、迫害されると言う預言を語っています。ヨハネによる福音書15章20節で次のように語られたイエスの言葉が残されています。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」。キリストを迫害した世は、そのキリストに選ばれた人々をも憎み、迫害するだとうと言う預言です。つまり、ここで起こった迫害は教会とイエスとの関係が密接であることを表す証拠であったとも言えるのです。

 さて、使徒言行録はこの出来事の場面設定について次のように記しています。「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た」(1〜2節)。

 前回、イエスの弟子たちが神殿に足繁く通ったのは、そこに集まる人々にキリストの福音を証しするためであったと言うことを語りました。さらに今日の箇所の部分を説教しているある牧師は興味深い説明をしています。ペンテコステの出来事の際に語られたペトロの説教を聞いて新たに教会に加わった人は3000人ほど(2章41節参照)であったと伝えられています。そして初代教会の人々は当時のユダヤ人の習慣と同じように日に三度の神に祈りを献げていたのだろうとも考えられています。そこで、大人数になった初代教会の人々が一度に集まって祈りの会を持つ場所が必要となるわけです。そしてそれに一番ふさわしかったのがエルサレム神殿であったと言うのです。初代教会の人々は毎日、エルサレム神殿の一角に集まって祈り会をしていたと考えることができるのです。
 そしてペトロのとヨハネの二人はこの祈りの会に出席するためにこの日、神殿に赴きました。当時のエルサレム神殿にはいくつもの門が設けられていました。そしてこの出来事はその中で「美しの門」と呼ばれる場所で起こったと言うのです。

(2)生まれつき足の不自由な人

 子供の頃、初詣のために千葉県にある成田山に父に連れられて言ったことが何度もあります。たくさんの初詣客が行き交う成田山の参道の風景が私の幼い頃の思い出に残っています。その中でも、子供の私にはすこし、「恐ろしい」印象として残っているものがあります。それは白い着物を着て、じっと参道の傍らに立っていたり、またアコーディオンを奏でながら軍歌を歌う傷痍軍人の姿です。そこで参拝客たちは彼らに幾ばくかの金銭を施していくのです。そして今日の聖書に登場するのも、神殿への参拝客を目当てに物乞いをしていた一人の男性でした。

 「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」(2節)。

 この男性は生まれながらに足の不自由な人であったと言われています。つまり、彼は生まれたときから一度も自分の足で歩いたことがないと言うわけです。彼は誰かにここまでわざわざ運んでもらって、その上で神殿に通う参拝客目当てに物乞いをしていたのです。そこにペトロとヨハネが通りかかったところからこの物語は始まります。
「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」(4節)と言われています。二人の関心がこの男に注がれていたと言うことです。彼らはどんな関心を持ってこの男を見たと言うのでしょうか。
 ヨハネによる福音書の9章には「生まれつきの盲人」とイエスとの出会いの物語が紹介されています。この盲人もおそらく神殿の近くで物乞いをしていたのではないかと推測されます。しかしこの時のイエスの弟子たちの関心は彼が生まれつき目が見えない理由は、誰が罪を犯したためなのかと言うものでした(2節)。つまり、彼が生まれつき目が見えないのは、誰かの犯した罪に対する神が与えた罰のせいなのだと彼らは考えていたのです。そしてそれが当時の誰もが抱いた常識的な解釈であったのです。しかし、イエスは人々の考えとは違って「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)とここで語られたのです。
 もしかしたらこのときペトロとヨハネは同じように生まれたときから持っている障害で苦しんでいる人を見て、そのときイエスの言葉を思い出したのかもしれません。生まれつき足が不自由で歩くことができない男の人生を他の人々は不幸な人生と考えたり、神の罰を受けているのだと考えていたはずです。そしてだからこそ人々は彼の人生を憐れみ、いくらかの施しをしたのです。しかし、イエスの言葉を知っていたペトロとヨハネはこの男性を見たときに、「神の業がこの人に現れるためである」と言うイエスの言葉を思い出したのです。つまり、この時の二人の関心は神がこの男性のためにどのような業を表すのだろうかと言う関心であったと考えることができるのです。

2.望んだものより

 「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」(4〜5節)。

 ペトロとヨハネの二人はこの男に「わたしたちを見なさい」と語ります。おそらく、二人はこの言葉を通して、この男の関心を自分たちに向けようとしたのでしょう。そして二人はこの男性の関心を最終的には神に向け、またその神が遣わされた救い主イエスに向けようとしたのです。この男性の人生に隠された本当の意味を教えてくださるのはその神以外にはおられないからです。
 しかし、このように真剣にその人の人生に関わろうとするペトロとヨハネの態度に対して、この男の反応は普段と変わるものはありませんでした。「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」(5節)とそのときのこの男の反応が説明されています。彼の望みはいくらのの金銭を二人からめぐんでもらうことでしかなかったのです。カルヴァンはこの男の反応こそ、わたしたちの姿でもあると言っています。神が真剣に私達の人生に関わろうとされるのに、また最上の祝福を私達に与えようとしているのに、私達の願いはとても小さく、また貧しいものでしかないのです。

3.ナザレ人イエス・キリストの名
(1)金銀はない

 ペトロとヨハネの呼びかけに何かをもらえると期待した男に対して、二人はこう語りかけます。

 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。

 かつてイエスは十二人の弟子を福音を告げ知らせるためにイスラエルの村々に派遣したことがありました(ルカによる福音書9章1〜6節参照)。その際、イエスは次のような指示を弟子たちに伝えています。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(3節)。イエスが弟子たちに「何ももって行くな」と厳しく命じたのは、彼らが持っているもののすばらしさを悟らせるためであったと言えます。なぜならこのときイエスは福音を伝えるためのすばらしい力を彼らに与えてくださっていたからです。
 私達の信仰生活でも、今まで自分が頼りにしていた様々なものが奪われて、不安でどうにもならなくなったときにかえって神様の守りを感じることができたと言うことがないでしょうか。本当は私達を支えてくださっている方は神であるのに、私達のもっているものがその事実を遮ってしまって、肝心なものを私達は見ることができなくなっているのです。
 以前、インドネシアで宣教師として働いていた牧師からこんなことを聞いたことがあります。インドネシアの貧しい農村では満足な医療機関がありません。そのため、誰かが病気になるとみんなで一生懸命になって神に祈りを献げるのだそうです。もちろん、病気を治すためには医者や病院が必要です。しかし、大きな病院がたくさんある日本では病気になればどこの医者に行こうかと考えることが先で、神様に祈りを献げることなどはまず考えません。しかし、だからこそ多くのものを持ち、多くの頼るべきものを持っている私達日本人は神様と自分との関係が分からなくなってしまっていると言うのです。

(2)イエスのみ業が現される

 さて。ペトロとヨハネはこの生まれつき足の不自由な男性に 「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(7節)と語りかけました。この言葉は魔術師が何か不思議なことを行うときに唱える呪文のようなものではありません。「イエス・キリストの名」とはこの出来事の主導権がイエス・キリストにあると言うことを表している言葉です。つまり、この生まれつき足の不自由な人を癒されるのは、まぎれもなくイエス・キリスト本人であると言うことをペトロたちのこの言葉で示そうとしたのです。

 「そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(7〜8節)。

 生まれてから一度も自分の足で立ったことのない男が、「躍り上がって立ち、歩きだした」と語られています。そして彼は神を賛美し始めたと言うのです。今まで神を賛美するなどと言うことからはほど遠いところで営まれていた彼の人生が、神を賛美するものと変えられたのです。確かに彼はいままで毎日神殿にやって来ていました。しかし、それは神を礼拝するためではなく、神殿に来る参拝客からいくらかの金銭を施してもらうためでしかありませんでした。しかし、このとき彼ははじめて神を賛美し、礼拝するために神殿に足を踏み入れたのです。

 「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」(9〜10節)。

 彼のこの姿はどんな人々を驚かせます。「どうして彼は歩けるようになったのか」と民衆はその原因について関心を持つようになりました。そして、民衆はこの原因を知るべくペトロとヨハネの元に集まり、その民衆に向かってペトロは説教が始まるのです(11〜26節)。
 カルヴァンは奇跡はそれ自身だけでは不完全であり、その奇跡に本当に意味を持たせるものは福音の説教であるとこの部分を解説しながら言っています。ペトロの語る福音の言葉がこの奇跡に本当の意味を与えたのです。

(3)聖霊の働き

 私達はこのペトロの語った説教については日を改めて考えてみたいと思います。しかし、それとは別に、今日の物語の中から、私達が学ぶべき点を最後に整理して考えてみたいと思います。
 まず、この物語はいったい何を私達に教えているのでしょうか。それはペンテコステの出来事を通して弟子たちの上に降った聖霊の働きについてです。昇天されたイエスの姿は確かに今、私達の目には見ることができません。しかし、主イエスは私達の教会の上に続けて聖霊を送り、その聖霊を通してご自身のみ業を現されるのです。キリストの教会に聖霊は働き続けています。そして、その働きを通してイエスは、ご自身のみ業をこの地上に実現してくださるのです。
 このことを通して、さらに私達が覚えたいことは、私達の人生は何のためにあるのかと言うことです。生まれつき足の不自由な人は、ペトロとヨハネの働きを通して癒しを受けました。彼の上に起こった出来事は、イエス・キリストが行われたと考えるしか説明のできないことでした。ペトロが語る説教を聞いて民衆が納得できたのは、目の前にこの男が立ち、踊りながら神を賛美している姿を見たからです。つまり、イエス・キリストが生きて働いておられることをこの男性は自分の人生を持って証しすることになったのです。神は同じように私達の人生も用いてくださるのです。もちろんこれは、私達の人生に超自然的な出来事が必ず起こって、人々を驚かせると言うことではありません。しかし、聖霊は今も、私達それぞれの人生を通して、イエス・キリストが生きて働かれていることを表わしてくださるのです。そしてそのために私達一人一人の人生を用いてくださるのです。
 その意味で私達はこの美しの門の前で癒された一人の男性の姿を、神に救われて生きる私達一人一人の人生を象徴するものと考えてよいのです。

【祈祷】
天の父なる神様
誰もが通り過ぎていくか、またはいくらの同情を払いながらも、わずかな施ししかできない人間の姿に反して、イエスは生まれつきに足の不自由な男性に特別な関心を払い、ペトロとヨハネを通してご自身のみ業を表わしてくださいました。そのイエスの関心が私達一人一人にも注がれていることを私達に覚えさせてください。また、ペトロとヨハネと同様に、イエスは私達信仰者を用いてご自身のみ業を表わしてくださいます。どうか、私達が聖霊の力によってイエスの思いを共有し、イエスのみ業が私達の人生を通して実現するために働くことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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