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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「言が肉となられた」

(2011.12.25)

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1〜18節(新P.163)

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

1.クリスマスの歴史
(1)クリスマスの意味

 こんなコントがあります。クリスマスの夜に足早に急ぐ一人の学生が千鳥足であるく酔っぱらいとぶつかりました。酔っぱらいは聖書を小脇に抱えているまじめそうな学生を見て声をかけます。「おい、学生。こんなクリスマスの晩に急いでどこに行く」。すると学生は怪訝そうな顔をして酔っぱらいを睨んで答えます。「どこにって、クリスマスですから教会に行くに決まっているじゃありませんか」。酔っぱらいはその答えを聞いて不思議そうに言います。「えっ、教会でもクリスマスをやっているのか…」。
 今ではこの日本でもクリスマスを知らない人はいません。しかし、いつのまにかクリスマスの本当の意味は忘れられて、世俗的で、騒がしい祭りになってしまっているのは確かなのかもしれません。
 クリスマスの起源は定かではありません。しかし、教会では遅くとも紀元4世紀頃にはクリスマスをお祝いする習慣が生まれていたようです。カトリック教会や、そこから分裂したプロテスタント教会では12月25日をクリスマスとして祝います。しかし、「ギリシャ正教」、あるいは「ロシア正教」と言う呼び名で呼ばれている東方教会の人々は1月6日をクリスマスとして祝う習慣があるようです。
 どうして教会によってこのようにクリスマスの日が違うのかと言えば、聖書にはイエス・キリストがお生まれになった日が正確には記されていないからです。つまり、クリスマスはイエス・キリストの誕生日ではなく、イエス・キリストの誕生を祝う日と呼ぶのが正しいのです。クリスマスの物語には羊飼いが夜通し羊の晩をしていたという場面が登場します(ルカ2章8〜20節)。ある人の説明によれば、イスラエルでは12月の冬に羊飼いが屋外で羊の晩をすることはないと言います。ですから、それはもっと暖かい時期に起こったのではないかと説明しているのです。
 ときどき、家に尋ねてくる「エホバの証人」は「クリスマスはキリストの生まれた日ではない」と目くじらを立ててキリスト教会を非難します。しかし、私たちはクリスマスにキリストの誕生をお祝いしますが、これは教会の伝統であり、決してキリストは12月25日に生まれたのだと言っているわけではないのです。

(2)光を祝う祭り

 そうなるとどうして教会はこの12月25日にキリストの誕生を祝うことになったのか、その理由が何であるかを知りたくなります。実はその理由もいくつかのもの説あり、定説と言うものはありません。ただ、その中でも一番有力なものは、この時期が冬至、つまり夜と昼の長さが逆転する時期であることに関係すると言うものです。ローマの時代、ペルシャを起源とするミトラ教と言う太陽神を奉る宗教があって、ローマでもこの宗教を信じる人が沢山いたようです。そして、ちょうどこの冬至の時期にそのミトラ教の太陽神を奉るお祭りが大々的に営まれていたのです。
 やがて、ご存知のようにローマ帝国はキリスト教を国教として定めます。そこで今まで大々的に営まれていた太陽神のための祭りを、キリストの誕生を祝う日としてお祝いするようになったと言うのです。どうして、太陽神の祭りがキリストの誕生を祝う日となったのか、それも確かなことがわかりませんが。おそらく、その重要なヒントになるのは今日の礼拝で読んだヨハネによる福音書の言葉が有力な根拠となるのではないかと思われるのです。
 このヨハネによる福音書はマタイやルカと違い、羊飼いや東の方の国からやって来た占星術の学者たちの物語を紹介しているわけではありません。この福音書はクリスマスの出来事を直接には記していないのです。しかし、このヨハネによる福音書はその冒頭で、キリストがこの地上に来てくださった意味を深淵で象徴的な言葉を持って紹介しているのです。その中でもキリストについて語る言葉で印象深いのが「光」、あるいは「まことの光」と言った言葉です。キリストはまことの光であって、太陽の光などとは比べることのできない方であると言うのです。いえ、聖書はむしろ空に輝く太陽やその他の星々もこのキリストによって造られたと語っているのです。
 教会によって作られたもっとも古い信仰告白の文章にニカイア・コンスタンティノポリス信条と言う文章があります。その表現は私たちがよく礼拝で読む使徒信条よりも、少し詳しい文章になっています。その信条がイエス・キリストについて紹介する言葉の中にはその方は「光よりの光」と言う文章が登場します。それはすべての光の根源であると言う意味があるのでしょうか。このイエスが存在しなければ、太陽の光も輝きを止めてしまう、キリストは宇宙や世界にとってこのように大切な方なのです。その方が私たちの世界に人となって来てくださったのです。そしてクリスマスはその喜びを知る者が祝う祭りであると考えることができるのです。

2.イエスは言

 さて、私たちはこのヨハネによる福音書が記した言葉から、イエス・キリストが「言」(1節)であること、また「神の独り子」であること(14節)、またその方が「まことの光」であること(9節)についてもう一度確認しながらこのクリスマスの喜びを分かち合いたいのです。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1節)。聖書はこの「言」について、私たち人間が通常使っている「言葉」とは区別した字を使って紹介しています。この区別は大切です。なぜなら、私たちは人間が使う「言葉」ほど当てにはならないものはないからです。よく、「口約束ではなく、証拠を示せ」と言うことがあります。人間の口先だけの言葉ではあてにならないからです。しかし、そこで示された証拠でさえ、人間が示すことのできるものはすべて当てにはならないものです。なぜなら、その言葉を語る者、その証拠を示す人間自身が明日はどうなってしまうか分からないような不確かな存在でしかないからです。
 聖書はイエス・キリストをそのような不確かな存在として紹介しているのではありません。福音書は続けて「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3節)と説明しています。この言こそが万物を造ったと言っているのです。これは聖書の最初の書物である創世記に書かれた創造物語が土台となって語られているものです。神は無からすべてのものを創造されました。その創造の重要なポイントは神がすべてのものを「言」によって創造されたと言うことです。つまり、イエス・キリストは宇宙のすべての存在を創造し、支える方であると聖書は言っているのです。その方が私たちのところにやって来てくださり、私たちの救い主となられたのです。
 私たちはイエス・キリストをいつも過小評価しているのではないでしょうか。せいぜい、悩める心を癒すカウンセラーとか、あるいは病気を治してくれるヒーラー、または何でも願い事を聞いてくれる方と考えたりします。しかし、私たちの救い主となられたイエスは宇宙のすべてを支配する方なのです。その方が私たちを導いてくださると言うのですから、それは私たちの想像を遙かに超えた祝福だと言えるのです。

3.神の独り子であるイエス

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。

 福音書はイエス・キリストを「父の独り子」と紹介しています。先程の「エホバの証人」はイエスを「神の子」であって、神ご自身ではないと説明します。しかし、聖書がイエスを神の「独り子」、つまり神の本当の子供であると言うのは、イエスが神であることを示すためだからです。人間の子供は人間ですし、犬の子供は犬、猫の子供は猫、神の独り子は神、イエスは父なる神と全く変らない神ご自身であることを聖書は語っているのです。この「神の独り子」イエスが私たちの間に宿られました。私たちと同じ人間の姿をもってこの地上に来てくださったのです。それがクリスマスが私たちに示そうとする祝福です。それではどうして、この出来事が私たちにとって大いなる祝福であると言えるのでしょうか。
 このヨハネによる福音書の14章にイエスの弟子の一人フィリポとイエスの間に交わされた次のような問答が紹介されています。

「フィリポが『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ』」(8〜9節)。

 私たちは「神様を見たい」と思うときがあります。「見ればはっきりするのに」と思うときがあります。とくに試練の中に立たされて、神を見失ってしまうような危機に立たされるとき、私たちは神様を見たいと願うのです。しかし、聖書は、神は霊である方であり、また私たち人間の力では見ることも、知ることもできない方だと言うのです。そんな私たちに神の姿を、そして神の思いを知らせてくださるためにイエスは地上に来られ、私たちと同じ人間となられたのです。そしてイエスは私たちの目からは隠されていた神の私たちに対する思い、またその計画を私たちにはっきりと知らせてくださったのです。
 「神様を信じている」と言っても、その神がどのような方か、私たちをどのように思っているかがわからなければ、その信仰は運命論と変らなくなってしまいます。「私の人生は神様によって導かれ、またそのすべては決められている」と言えても、その神がいったどのように導かれ、決められているのかが分からなければ、私たちは自分の人生をどのように考えていいのか分かりません。せいぜい、すべてが決められているのだから諦めるしかないと言うことになります。しかし、イエス・キリストは神様が私達一人一人を救いに導き、また完全な救いに至るようにと、私たちの人生を取り扱ってくださっていることを教えてくださったのです。
 ですから、このイエス・キリストによって私たちの人生に隠された神様の計画の秘密が明らかにされたのです。クリスマスの祝福は私たちに一人一人に与えられているのです。

4.まことの光なるイエス

 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)。

 先程申しましたように、クリスマスは光のお祭りです。そして私たちを照らし続ける太陽の光よりもすばらしいまことの光こそイエス・キリストです。
 光のすばらしさは、闇の中で明らかになります。大震災の後に行われた計画停電で町々にともる灯が消されて、私たちは暗闇の怖さをしりました。灯りがなければ、暗闇の中で私たちは何もできなくなってしまいます。この聖書が記された時代は電気の灯りなどない時代でした。月明かりが雲に遮られれば、すべてが闇となってしまうその時代にイエス・キリストを「光よりの光」と信じた人々の思いはどのようなものだったのでしょうか。
 問題は目に見える灯りだけではありません。私たちの人生に襲いかかる闇の力に私たちはどのように立ち向けばよいのでしょうか。たとえ、その人生で闇の力と戦い続けても、やがては私たちは力を失い一気に闇の中にひきづり込まれてしまう。私たちの死はその闇の勝利を物語るものなのでしょうか。
 しかし、このまことの光であるイエス・キリストの姿を予め知らされていた旧約聖書の預言者ミカは、自分が死の勝利に飲み込まれてしまったかのような中で次のように語ります。

「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」(7章8節)。

 クリスマスの喜び、それはまことの光イエス・キリストが私たちのところに来てくださったという喜びです。このキリストは今も聖霊を通して、私たちと共にいてくださいます。私たちがどこにいても、このまことの光が私たちから離れることはないのです。
 古代ローマで行われていた太陽神の祭り、それは闇に対する勝利を祝う祭りでした。冬至の日を境にして、夜の力に昼の力が勝っていくからです。クリスマスを祝う私たちは、この太陽神ではなく、まことの光であるイエス・キリストの誕生を祝います。この方の誕生によって、私たちの人生を取り巻こうとした闇の力は滅ぼされました。このようにイエスを信じる私たちの人生は暗闇の支配から解放されたことをもう一度覚えたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
すべてのものを造り、支配しておられる「言」なるイエス・キリスト。また私達に神の隠された御心を明らかにしめす神の「独り子なるイエス・キリスト。そして私達をすべての闇の力から解放するために来てくださった「光よりの光」イエス・キリスト。その方を私達のために送ってくださったことを喜び祝うために私達は今日集められています。どうか私達がこの喜びを心に刻み、心からの感謝をあなたに献げることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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