2003.1.12「『天』と『地上の世』」
マルコによる福音書1章7~11節
7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
1.神の恵みと人の思い
①「熱心」だけでは解決しない
今日は教会の暦では「イエスの洗礼」という名前が付けられている日曜日です。イエスの洗礼という出来事を通して、私たちとイエスの救い御業の関係を学び、またイエスの救いの御業がどのように私たちの毎日の信仰生活と関わりを持ってくるのかについて少し考えて見たいと思います。
まず、救いについて私たちが陥り易い過ちについて考えてみましょう。私たちはとにかく自分が頑張って、一生懸命やればなんとかなると考える傾向があります。救いの問題についても日本人は「富士山に登るにはいくつもの道がある」といって、どの宗教も同じだと考える傾向があります。そして、むしろ関心を払う中心は「その人がどれだけ熱心に自己修養を積んでいるか」というところに向けられます。ところが聖書の語る救いはそうではありません。大切なのは私たちがいつもどこに向かっているのか、つまり誰が私を救ってくださるかということにあるというのです。
二人の男性が夜汽車の中で向かい合わせの席に座りました。長い列車での旅、しばらくは二人とも窓の外を見つめたり、本を読んだり相手に関心を示すこともなく旅を続けていましたが、何かの拍子で座っている相手と顔があってしまいます。そこで少し恥ずかしそうに一人の男がこう話を切り出しました。「汽車の旅も中々疲れますね。ところであなたはどちらに行かれるのですか」。するともう一人の男は眠そうな顔でこう答えます。「はい仕事で大阪まで行くところです。本当に長旅というのはたいへんです。ところであなたはどちらまで行かれるのですか」。もう一人の男も眠そうな顔をして「はい私は実家のある仙台まで参ります。」と答えながらまた二人は相手のへの関心を忘れて、窓の外を見たり、本を読むことに戻ってしまいます。
せっかく汽車に乗ってもその行き先が分からないまま旅を続けるならその人はいつまでたっても目的地に付かないばかりか、自分の向かっている方向とは全く違うところに行ってしまう可能性があります。
旧約聖書で神は預言者イザヤを通してこのような愚かな人間の行動を次のように語っています。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか」(55章2節前半)。人は頼りにならない者に最大限の努力を払っている、しかしそれは全く自分とって何の役にも立たないばかりか、最後にはその人を絶望させ、救いとは全く違った場所へと導くのだと教えているのです。
②私たちを救うための神の約束
この聖書の箇所の前のところにはこのような神様の言葉が語られています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。そしてこの言葉に続いて先ほどの箇所が続きます。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(2節)。
ここでは神様だけが私たちを救い出し、豊かな祝福を与えてくださることができる方であることが教えられています。また、それと共にその神様の救いは私たちの努力とは全く関係なく、「ただ」でいただくことができるものだと教えられているのです。「ただより怖いものはない」などと言って私たちは自分の犠牲を払う事となしに「ただ」でよい待遇を受けることはできないと考えています。しかし、聖書は一貫して救いの問題に関して神様が私たち人間の側に何らかの犠牲を求めることはないというのです。その理由は第一に私たちの努力や支払うことのできる犠牲は、神様の前で何の役にも立たないものだからです。お店に行って「子供銀行」と書かれたおもちゃのお札を出しても、お店の人は何も売ってくれないのと同じように、私たちの側の努力や犠牲は神様には通用しない全く価値のないものなのです。第二は神様ご自身が私たちの支払うべき犠牲を代わって払ってくださるからです。私たちの救いには、貴い犠牲が支払われなければなりません。そこで、神様はその犠牲を私たちに代わって支払うことのできる方を私たちの世界に遣わしてくださったのです。それが私たちの救い主イエス・キリストです。このイザヤ書は救い主イエス・キリストを預言する言葉に満ちています。そしてイザヤがその預言の中で神様の救いは「ただ」と語るときは、このイエス・キリストを私たちのために遣わしてくださる神様の計画が前提として語られているのです。
2.神の恵みによる救い
①すべての人に悔い改めを迫ったバプテスマのヨハネ
さて、新約聖書の福音書にはこの約束の救い主イエス・キリストが来られる前に彼の登場を準備する人物としてバプテスマのヨハネという人物を紹介します。彼は「荒れ野」と呼ばれる人を簡単には寄せ付けない場所を活動の根拠地に選びました。人は厳しい状態に立たされたとき本当に頼りになる者が何であるのかを真剣に考え始めます。ヨハネは荒れ野に人々を招く事で多くの人々が真実に神に向き合うことを望んでいたのかもしれません。彼はヨルダン川という川で「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたと語られています(マルコ1章4節)。
このヨハネの施した洗礼の意味はそれを受ける者に心から「自分は神様の前で罪人であって、神様に赦してもらわなければならない者です」と認めさせる狙いがありました。自分が病気だと思う人は医者に行って早々に治療を受けます。しかし、自分が病気にかかっているにも関わらず、自覚症状も感じず、「私は健康で医者にかかる必要なない」と思っている人は医者にかかる機会を逸して、最後には取り返しのつかない状態になってしまいます。ヨハネは人々の心の健康診断をしたのです。ただ彼の診断の独特な点は、彼の健康診断によれば誰一人健康な人はいなくなってしまうのです。「神様の赦しを必要としない人は一人もいない、みな罪人だと」とヨハネは診断したのです。ですから、別の福音書で「自分は神様に赦しをいただく必要はない」と考えていた当時の模範的な宗教家たちに対して「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(マタイ3:7)と語り、彼らの考えを激しく非難したのです。
②洗礼を受ける必要のないイエスがなぜ?
しかし、そんなヨハネも「この人だけは別だ。この人は罪とは無縁であって、赦しを必要とするような罪人ではない」と考えていた人物がいました。そのことについてヨハネはここでこう語ります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(7、8節)。ヨハネは「自分と比べ物にならない方がこれからやってくる」と語り、「自分は健康診断をするだけだが、これからあなたたちの病を本当に癒すことのできる方が来られる」と預言したのです。この預言の相手こそが救い主イエス・キリストでした。
ところがここでヨハネにとっては意外なことが起こります。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)とマルコの福音書はこの出来事を淡々と語っていますが、他の福音書ではヨハネのこのときの狼狽ぶりが紹介されています(マタイ3章14節)。彼はイエスが洗礼を受けられるのをやめさせようとしたのです。ちょっと不謹慎な例かもしれませんが。たとえば床屋さんに髪の毛が一本もない人がやってきて、散髪する椅子に座って「よろしくお願いします」と言ったら床屋さんはどう思うでしょう。手の施しようがありません。同じように罪とは全く関係のない「神の御子」であるイエスが彼の元にやってきて、「『罪の赦しを得さえるための洗礼』を授けて欲しい」と願ったのですから彼は相当困ったはずです。しかし、聖書を読むと洗礼を受け終わったイエスの上に聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの父なる神の御声が聞こえたと言われています。この出来事から考えるとイエスの洗礼は神の救いの計画に相応しいものとして行われたことがわかります(9~11節)。
それではイエスの受けられた洗礼は何を意味するものなのでしょうか。キリスト教会はこの出来事について、次のように考えてきました。「イエスはここでご自身のためではなく、救いを必要としている私たち全ての人間のために代わって洗礼を受けられたのだ」と。つまり、イエスはこのときから自分が私たちに代わって罪人として取り扱われ、私たちが支払うべき犠牲をすべて代わって支払ってくださることを決意され、その決意を表されたのだと考えることができるのです。イエスはその公の生涯(救いのための活動をされた期間)の初めにこれから自分が行う事はすべて私たちのためであるということを教えるためにご自身から進んで洗礼を受けられたのです。だからこそ、私たちはここから始まるイエスの生涯の物語を一人の歴史的偉人の伝記ではなく、私の救いのために生き、私の救いのために死んでくださった方の記録として読むことができ、またそう読むように求められているのです。
3.神の恵みによって生きる信仰生活
①教会内に起こった愛の欠如の問題
このように私たちの救いのために生き、命を捧げられたイエス・キリストを「イエスの洗礼」という出来事は私たちにはっきりと示しています。そしてこのイエス・キリストこそ私たちの信仰生活の出発点であり、目標でもあるのです。今日、最後に読まれたヨハネの手紙はそのような問題を私たちに教えています。ヨハネの福音書とヨハネの手紙は、それを書いた著者が誰であるかについて議論があるにもかかわらず、その文体や内容の類似点を多くの人が認めている文章です。しかし、非常に似ている二つの文章ではありますが。大きく違う点がいくつか存在します。その一つはそこで取り扱われている問題が、ヨハネの福音書の場合にはユダヤ人と教会の関係に中心が置かれているのに対して、ヨハネの手紙ではキリスト教会内部の問題が中心に取り上げられているのです。この教会には新たに生まれた異端者の問題がありました、またそれ以上に教会の交わりの中で愛が欠如して、お互いがお互いを裁き合うという問題が起こっていたのです。ヨハネの手紙をお読みくださるとすぐ分かるようにこの手紙には「愛」という言葉がたくさん使われているのがわかります。もし、ヨハネの働いていた教会に愛が溢れていたなら、彼は愛について改めて教える必要はなかったはずです。しかし、彼の教会から今や、この世の愛ではなくイエス・キリストの愛がなくなってしまうような危機が起こっていたのです。彼はだからこそこの手紙の中でイエス・キリストの愛を語り、その愛に戻るようにと教えたのです。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」(5章1節)。ここではイエスの愛によって救いに与った者を「神から生まれた者」と言っています。その神の愛によって救われた人は神を愛し、また同じように神に愛され、救われた兄弟姉妹を愛するはずだとヨハネは教えているのです。ヨハネがこう教えるのは、はやりこのように生きることのができない人々が現実として存在し、教会を深刻な危機へと導いていたからに違いありません。
②勝利者イエスへの信仰とヨハネ
しかし、この深刻な問題に対してヨハネは次に拍子抜けするような意外な答えを語ります。「このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」(2、3節)。ヨハネは「愛することは簡単だ」とここで断言するのです。この言葉を読むとき、「そのとおり」と同意できる人がどれだけいるでしょうか。それが言える人はおそらく「本当に立派な愛の人?」か「あるいは今まで本当に人を愛そうとしたことがない人」だと言ってしまうのは過言でしょうか。それではヨハネはそんなに立派で愛に満ちた人だったのでしょうか。福音書は彼をそんな人物だとは紹介していません。むしろ彼は本来「雷の子」という別名を持ち、人に対してすぐに腹を立て、裁いてしまうような人物だったと紹介しているのです。そんな彼が「いやいやそういう自分だったが、私も今は努力して愛の人なりました。私を見習ってください」と言っているのでしょうか。そうではありません。ヨハネは私たちに次のように教えているのです。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(4、5節)。私たちは「世に打ち勝つことができる」そうヨハネは教えます。それは言葉を換えて言えば「私たちはこの世で遭遇する問題に勝利することができる」と教えているのです。そしてその勝利の根拠こそイエスを信じる信仰にあるとうのです。この後でヨハネは「水と血を通って来られた方イエス・キリストこそ」がその勝利を私たちに約束してくださるのだと教えるのです。「水」はイエスの洗礼、「血」はイエスの十字架を意味するものと考えるならこれは私たちのために生きてくださったイエスの生涯を現しています。そしてこのイエスの成し遂げてくださった御業を「霊」が証しするとヨハネが語るとき、それは聖霊が実際に私たちに働いてイエスの勝利を与えてくださるということを言っているのです。
私たちの努力であるならこの愛の掟を実現することは不可能でしょう、しかし聖霊をもって私たちの上に働いてくださる勝利者イエス・キリストを通してヨハネは「神の掟は難しいものではない」と教えているのです。私たちはこの世で遭遇する問題に自分の力ではなく、イエスを信じ、イエスの勝利によって勝利していくことができるとヨハネは教えているのです。つまり、私たちの現実の信仰生活の問題まで、イエスはその生涯と十字架によって勝利し、解決を与えてくださったことをこのヨハネの手紙は私たちに教えているのです。