2003.1.26「イエスに従い」
マルコによる福音書1章14~20節
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18 二人はすぐに網を捨てて従った。
19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
1.ニネベの人々の回心(ヨナ3:1~5、10)
①ユダヤ人の枠を超える神の愛
先日、友人の牧師と話していたときたいへん興味深いお話を聞きました。このお話も友人とコンピューターを使って会話したときに聞いたものなのですが、私たちはよくコンピューターを通していろいろな人と話すことがあります。コンピューター通(?)はこの会話をよく「チャット」などと呼んでいます。私たちは今やコンピューターを通じてほとんどリアルタイムに世界のいろいろな国々の人々とコミュニケーションを持つことができる時代に生きています。その友人はコンピューターのチャットを通じて最近、イスラエルに住んでいる数学者と知り合いになったと言うのです。もちろん、そこでは英語を打ち込んで会話をするのですが、友人が言うには最後の別れの際に「God bless you」とこちらから書き込むと、相手も「God bless you」と答えてくれるのだそうですが、その「God」の真ん中の字が「o」ではなくて「-(ハイフン)」になっているのだそうです。友人はあるとき別の機会にオーストリアの人ともチャットしたとき相手が同じように「G-d」を使ってきたので、「ユダヤ人ですか」と聞いてみると案の定、「はい」という答えが返ってきたというのです。旧約聖書の十戒には「神の御名をみだりに唱えてはならない」と記されていますが、ユダヤ人はこの言葉を昔から厳格に守って、神と言う言葉を口にしないと聞いたことがあります。コンピューターの世界までそれが守られていることを知りびっくりしたとその友人は話していました。
「自分達こそが神の戒めを厳格に守り、それを守ろうとしない他の国々の人々、異邦人とは違う」というところにユダヤ人たちは誇りを持っています。それは昔も今も同じようです。今日、最初に読まれたヨナ書はそんな考え方も持っているユダヤ人に語られた預言書としては意外な性格を持っています。なぜなら、ここで神の救いの対象とされ、預言者ヨナが遣わされた相手はニネベの町の人々だからです。そしてニネベの町を首都とするアッシリアは異邦人の国であり、聖書によればここに住む人々は神に背き、不道徳極まりない生活を送っていた人々でした。歴史を辿るとこのアッシリアと言う国よって北イスラエル王国は滅ぼされてしまいます。つまり、ニネベの住民はユダヤ人にとって敵国の人々であり、彼らはアッシリアの人々が神様に滅ぼされることを願うことはあっても、決して助けてやろうとは少しも思えない人々だったのです。そしてそこにこそ聖書に語られている預言者ヨナの不思議な行動の原因がありました。ヨナはニネベの町の人々の救いのために働くことを快く思いませんでした。むしろ、神の命令に反して、ニネベとは反対側の方向に向かう船に乗って逃亡してしまうのです。ところが、神はヨナの行方を、嵐をもって阻み、その上で彼を魚に飲み込ませるという出来事を起こします。やがて、ヨナは渋々ニネベの町の人々のために神の言葉を伝えることになります。しかし、彼は最後までニネベの町の人々が神の裁きを逃れて助けられることを「よし」とは思いませんでした。そして彼は神様にまでその文句をぶつけています。神はこのヨナに答えてご自分の気持ちを明らかにしています。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(4:10~11)。
ここに素晴しい神の愛が記されています。神は自分の目にかなった特別な人々だけを愛するのではなく、「全ての人を愛し、滅びることを惜しむ」と語られているのです。この言葉は「自分達だけが特別だ」と誇りを持つユダヤ人には衝撃的なメッセージであったに違いありません。
②神の言葉によって変えられたニネベの人々
このように感動的な神の愛を記すヨナ書ですが。今日の箇所では更にたいへんに不思議なことが記されています。神を神とも思わず、悪をほしいままにしていたニネベの人々、そんな悔い改めの可能性の全くない人々がヨナの言葉に応じてすべてが悔い改め、神の赦しを求め始めたというのです。聖書によればこのニネベの町の広さは大きくて、一周するだけでも三日かかったと記されています。ところがヨナがわずか一日分の距離を歩いて「あと四十日すれば、ニネベの町は滅びる」と神からメッセージを語ると、その効果がすぐに現われてしまうのです。熱心に神様のことを伝道されている人にとってこの話はたいへん不思議に思われるかもしれません。なぜなら、そのような人は伝道がいかに困難であるかを、身を持って知っているからです。しかしこのお話には大切な真理が隠されています。それは人を変えることができるのはその人の持つ素質でもなく、またその人を指導する人の能力でもなくて、ただ神の言葉にあるという真理を示しているからです。一方では神を信じず、悪の限りを尽くすニネベの人々がいます。そしてもう一方では確かに神を信じる人でしたが、その神の命令を快く思わず、真に不本意にメッセージを伝える預言者ヨナがいました。どう見ても成功するような可能性のない状況の中で、たいへんな変化が起こりました。なぜならそこに神様の言葉が語られたからです。私たちの信仰生活にとって大切なのは相手でも、自分でもなく今私たちが頂いている神の言葉の力にあることをこの聖書は私たちに教えているのです。
2.イエスに従う弟子(マルコ1:14~20)
①簡単に書かれる弟子達の召命記事
そして今日の福音書の記事もこの神の言葉の力に注目するようにと私たちを招待しています。この箇所ではガリラヤ湖で漁師をしていたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネたちが、イエスから「弟子になるように」という招きを受けて、網を棄て、舟や家族をそこに置いて従ったという出来事が記されています。ここに登場するシモンは後にペトロと呼ばれる、初代教会のリーダーのような働きをした人物です。教会にはペトロやその他の使徒たちについての伝説がたくさん残されています。有名なのは映画『クオ・ヴァデス』に描かれたペトロにまつわる物語です。ローマ教会のリーダーとして働こうとするペトロたちの活動の前にローマ皇帝ネロの残虐な迫害が繰り広げられます。そのためローマ伝道を諦めて、ローマの町を脱出しようとするペトロの前にイエスが現われるのです。そこでペトロが「主よどこにゆかれるのですか」と尋ねるとイエスは「お前が今、棄てようとしているローマの人々のために私はもう一度十字架にかけられに行くのだ」と答えるのです。イエスの言葉で自分の行動の誤りに気づかされたペトロはもう一度、ローマに立ち戻り、迫害を恐れず伝道活動を行い、最後には逆さに十字架に付けられて殉教したという伝説が教会には残されています。教会のこのような伝説の真偽はともかくとしても、興味深いのは時代が後になればなるほどこのような伝説に登場する教会のリーダーたちの業績が称えられ、彼らが普通の人物とは違った強い信仰を持った人々として描かれているということです。それを読む人は「確かにここに登場する人たちはただ者ではない、まさしく聖人に違いない」と思わせるような演出(?)が後になって作られた教会の伝説には加えられているのです。ところが、最も最初に彼らの行動を文書化した聖書、しかも今日のマルコによる福音書はこの教会にも使徒たちにとって重要な召命の記事をいとも簡単に記してしまいます。
②突然の変化を引き起こす主の言葉
子供のときから親しんだ故郷を離れること、また彼らにとって唯一、生活を支える手段であった漁師としての職業を捨てて、イエスに従うことは大変な決意がいったに違いない。私たちはそれを想像しだせばきりがないほど、彼らのこのときの決断には多大な犠牲が要求されていました。聖書の解説者によればシモンとアンデレの兄弟と違って、ヨハネとヤコブの場合には「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」とわざわざ語られているように彼らは相当な財産家の「網元」であったと考えられています。それならばなおさら彼らにとってイエスに従うことは困難な問題を生み出すことになったかもしれません。父ゼベダイの面倒を見る跡取り息子が二人ともいなくなってしまったら、ゼベダイはどうすればよいのでしょうか。しかし、聖書はそのような疑問の一切を無視するかのように簡単に彼らの応答を記しています。
イエスが彼らをご覧になられる。そして語りかけられる。その二つの行為を通して、二組の兄弟は一切をそこに残してすぐにイエスに従うのです。ここにもまた、私たちがイエスに従うことができるのは私たちの決意や、努力ではなく、イエスの側の働きかけとその力にあることが教えられているのです。人はいつも自分の側の可能性や力量を見て、「自分はイエスに従うことができるだろうか」と悩んだり、時には疑ったりすることがあります。しかし、私たちがその生涯をかけてイエスに従うことができるのは私たちの側が持っている何らかの可能性にあるのではなく、イエスの側の力にあるのです。そのような意味でこのマルコの福音書は今でも聖書の中に語られているイエスの言葉を読む私たちが、心からそれが自分に語られたイエスの言葉であり、神の言葉であると信じるなら、最初にイエスに従った弟子達を支配したのと同じような神の力を受けることができるとここで教えているのです。
3. 新しい生き方の可能性(コリント7:29~31)
①放縦か禁欲主義か
様々な会社の経営を立て直すことで有名な経営コンサルタントがいました。あるとき一人の牧師がそのコンサルタントに「その働きの秘訣はどこにあるのか」と尋ねました。するとその経営コンサルタントはこっそりその秘訣を打ち明けたのです。彼は言うのです。自分は相談を受ける会社の様々な情報を集めて、この会社は再建の見込みがあると判断できるところを探して、そういう会社だけと契約を結ぶ、だから仕事に失敗したことがないのだと語ったのです。つまり、このコンサルタントは立ち直る可能性の持った会社以外の仕事は最初から引き受けないというのです。これが彼の成功の秘訣であったというのです。私たちはときどき、神様をこのコンサルタントのように考えていることがないでしょうか。神様は自分に可能性があるときだけ関わりもち、そうでないなら見捨ててしまう。そのために、私たちはいつも自分が持っている条件を気にして生きてしまいます。そしてその条件を満たさない自分に絶望したり、ときには見切りをつけて「私はもうだめだ」と言ってしまうことがあるのです。パウロはコリントの信徒の手紙一でたいへん興味深い勧めを私たちに語っています。
「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(7:29~31)。
このコリントの信徒への手紙がパウロによって書かれたことには特殊な事情があると言われています。なぜなら、キリスト教を受け入れたコリントの町の人々でしたが、その退廃した町の影響を受けたり、それとは別に聖書の教えを間違って伝える教師達によってたくさんの混乱が教会の中に起こっていたのです。その一つは結婚についての問題でした。一方では現代社会と同じように結婚制度が軽視され、男女が何の秩序もなく交わるという問題が起こりました。しかし、もう一方ではこの結婚制度自身が汚れたものであって、結婚自身を否定して、信徒達に独身を勧める人々も現われたのです。パウロはそのような混乱に陥った人々にたいへ自由なアドバイスを送りました。
ある人々はパウロがここで「地上の物事に関わりあってはならない」と禁欲主義的な勧めをしていると考える人があります。しかし、それはこのパウロの言葉じりを一部だけ捉えて、パウロの教えの全体を無視するところから起こる誤解です。
②新しい生き方を可能にするもの
むしろパウロがコリントの信徒たちに語りたかったのはイエスに従うこと、神に従うことに何か一定の条件が絶対になくてはならいということはないということです。ある人は「イエスに従うためには立派な家庭が必要だ」と考えます。またある人は「むしろ家族などあると、真剣に信仰生活を送ることができない」と考える人がいます。「お金を持っていることが大切だ」と考える人もいれば、「それは返って邪魔だ」という人もいます。「クリスチャンはいつも喜んでいなければならない」という人がいれば、「いやむしろ地上の滅びる魂を思うときにクリスチャンは悲しまねばならない」という人がいます。このようにイエスに従うには様々な条件を自分でクリアしなければならないと教える教師たちの中でパウロはそうは教えなかったのです。自分のように独身でいてもよい。また結婚してもいい。豊かな人でも、貧しい人でもその条件に関わり無く、キリストに従うことができるとパウロはコリントの信徒たちに教えているのです。そのような意味で先ほどのパウロの言葉はそのような人間の側の条件を誇り、そこに安住しようとする人々への警告の言葉と考えることができるのです。たいせつなのは従う私たちの持つ条件ではなく、すべてを可能にしてくださる方が私たちを導いてくださるという信頼なのです。
ある男性が遠い村から「たくさんの奇跡が起こっている」とうわさされている村を目指して旅立ちました。「一度でいいから自分もその奇跡を目撃したい」という願いがあったからです。その希望をもってこの村にやってきた彼でしたが、やっとの思い出たどりついたその村はどうも彼が期待していたような村ではありません。「どこに行けば奇跡が目撃できるのだろう」と疑問に思った彼は勇気を出して、一人の村人に尋ねてみました。「ここではたくさんの奇跡が起こっていると聞いて遠くからやってきたのですが、それは本当ですか」。村人は「そうですよ」と答えます。しかし、その村人はその言葉に付け加えてこう男性に語るのです。「もしかしたら、あなたの村では神様が人間の言うことを聞いて、不思議なことを起こしてくださるのが『奇跡』だと言っているのかもしれないけど、この村ではちょっとちがうのです。この村では人間が神様の御心に喜んで従うことができることを『奇跡』と呼んでいるのです。そんな奇跡ならたくさんこの村で起こっていますよ」。
私たちは海を割られ、死んだ人を甦られせることを神の奇跡だと考えることがあります。しかし、聖書はもっと大切な奇跡が神の言葉によって起こるのだと私たちに教えるのです。それは私たちがイエスに喜んで従うことができる奇跡です。私たちの持っている条件は様々に違っています。そんな条件など何一つ持っていないと思っている人もいるかもしれません。しかし、神様は御言葉によってニネベの人々を変えたように、またペトロやヨハネたちを導いたように私たちをも導いてくださるのです。今日の聖書の箇所はそのような神の御言葉の力に私たちが信頼することが大切であることを教えているのです。