2003.1.5「人が礼拝すべき『栄光』とは」
マタイによる福音書2章1~12節
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
1.本当の栄光とは何か
①自分の実力をアピールする時代
最近、私はテレビで『マネーの虎』という番組を良く見ることがあります。出演者は自分の事業に必要な資金をこの番組にレギュラーで出演している有名な実業家たちから融資してもらうという番組です。しかし出演者はただ簡単にお金を融資してもらえるのではなく、お金を提供する実業家達を自分の力で説得しなければなりません。そのために彼らは一生懸命になって自分の事業の素晴しさ、それを行うおうとしている自分がどれだけその事業をやり遂げることのできる力を持っているかをアピールしなければなりません。私などは出演者の計画を聞いてすぐ「なるほど」とうなずいてしまうのですが、以前、銀行で実際に融資の仕事をしていた家内は「この人の考えは甘い」などと辛口の批評を飛ばしています。いずれにしても結構、人気のある番組でたくさんの人がこれを見ているらしいのです。「出る杭は打たれる」と言って昔の日本では自分だけを強くアピールしようとする人間を嫌いました。しかし、現在の日本では自分の実力をどれだけ人々にアピールできるかが大切になるそのような時代になりました。もちろん、自分の実力が十分に発揮できる社会は好ましいものですが、これも行き過ぎると大きな落とし穴があるような気がします。口の上手い人や声の大きい人だけに活躍の場が与えられ、実力があってもそうできない人には活躍の場が与えられないということも起こりかねません。
②神の栄光をアピールする使命を担ったイスラエル
聖書に登場するイスラエル民族は世界の中で自分達の存在をアピールする力を何ももっていないような小さくて、弱い民族でした。彼らは絶えず周辺の大国の力に脅かされながら生きていました。歴史上では彼らと同じような小さく、弱い国々が大国によって滅ぼされ、国家も民族もなくなってしまったケースがたくさん存在します。イスラエルの国も周辺の国々から「風前の灯火」のようにすぐ滅んでしまうような存在として考えられていたのです。ところがこの小さくて弱い民族に対して預言者イザヤは驚くべき預言を語ります。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る」(イザヤ60:1~4)。
自らの存在をアピールする力を何も持ち得ない彼らを目指して世界の人々が集まってくる、暗闇の中で彼らの放つ光を目指してたくさんの人々が押し寄せてくるという事態が起こるとイザヤは語ります。もちろん、ここに登場する「光」は彼ら自身の持っていたものではありません。「あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる」と語られるように、神様の栄光が彼らを通してこの地上に現した「光」なのです。
このイザヤの預言には「栄光」についての二つの真理が語られています。まず、本当の栄光は私たちの人間的な実力によって現されるものではありません。むしろ、本当の栄光とは神様ご自身のものであり、神様の御心を受け入れ、その計画に従う人々を通してこの地上に現されるものなのです。まさに、この場合、人間は神の栄光を映し出す鏡のような存在であると言えるのです。第二にこの神様の栄光が表されるとき、地上の人々は自分達が追い求め、また誇ってきた「栄光」がイミテーションであり、実は闇の中に生きていたことに気づき、本当の光を目指して歩み出すということです。世の中には本物に似せて作られたイミテーションがたくさん存在しています。しかし、本物の素晴しさを知る人はイミテーションで満足することはできません。
③神の栄光は幼子イエスの上に現された
このイザヤの預言は有名で立派な人々によってではなく、全く無名で財産も力も持っていなかった一人の女性の上に現されました。おとめマリアは天使によって「自分が神の子をみごもる」と聞かされたときに、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38 )と告白して、その栄光を現す器として用いられたのです。
興味深いことに旧約聖書で「神の栄光」が語られるのはその多くの場合、神の厳しい裁きが下されるときに「神の栄光」が現されると語られています。ところがこのイザヤ書で語られる「神の栄光」は神の厳しい裁きを告げる言葉ではなく、全世界の人々を救う神の恵みの御業を通して現されているのです。おとめマリアを通してこの地上に来られた救い主イエス・キリストはご自身の上に私たちが被るべき裁きのすべてを負い、それによって私たちに救いを実現してくださいました。まさに神の栄光はイエス・キリストを通して全世界の人々を救うという恵みの御業を通して豊かに現されることをイザヤは預言したのです。
2.神の栄光を礼拝する
①すべての人々を救い出す神の計画(公現日)
「そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」(イザヤ60:5、6)。
このイザヤの言葉がその通りに実現した事を今日のマタイの福音書は東の国からやってきた占星術の学者たちの登場を通して語ります。ご存知のように彼らは古い聖書の訳で「博士たち」と紹介されていました。また教会の歴史の中ではたぶんこのイザヤ書60章の預言の影響もあるのでしょう、この人たちを「王様」と信じてきたのです。そこで諸国の王が救い主キリストを礼拝しにやって来た日、この日を「公現日」と呼んで教会は祝い続けたのです。つまり、神様の救いの計画はこのときまでは限られたイスラエルの民族の中に秘められていました。しかし、この日を境にこの救いは世界の人々に明らかになったのです。イエス・キリストの出現は神の救いの計画の中に忘れられている者、見逃されているものは誰一人いないとようことを教えています。このイエス・キリストを通して私たちは旧約聖書から語られ続けた神の約束が「自分のためのもの」であると確信を持っていえるようにされたのです。
②栄光に固執しない学者たち
ところでこの学者たちの行動を通して聖書はイエス・キリストによる救いを受け入れるとはどのようなものなのかを私たちに教えています。そのことはこの救いを同じときに受け入れることのできなかたった人々との対比を通して分かってくるのです。まず、学者たちと比べて地理的には救い主イエスに遥かに近いところに住んでいたはずのヘロデ王は、「新しい王誕生」のニュースに驚き、「自分の王座がその者によって奪われてしまうのではないか」と心配します。その結果彼は救い主を受け入れるのではなく、彼をこの世から抹殺することだけに心を傾けていくのです。彼は自らが持っていた王としての「栄光」を失うことを恐れて、本当の栄光を現すためにやって来られた救い主を拒んでしまうのです。ジェームズ・ボイスというアメリカの説教家はクリスマスメッセージの中で、学者たちもまたヘロデと同じような高い地位とこの世の栄光をもっていた人に違いないと語っています。なぜなら、彼らは異国の国からやってきた旅人であったにも関わらず、やすやすとヘロデ王との謁見を許されているからです。王自らが直接に会うとなればそれに等しい身分を彼らが持っていたことが伺いえると言うのです。確かに、その当時の社会において占星術の学者は国の将来を判断するたいへん重要な責任を担っていた政府の閣僚のような存在であったと考えることができるのです。しかし、彼らはその栄光に縛られることはありませんでした。むしろ、彼らは本当の「栄光」の主であるイエス・キリストを拝むために、すべてを棄てて旅立ちこの国までやってきたのです。
③知識だけに満足しない学者たち
第二に救い主を受け入れることができなかったのはヘロデのそばにいた律法学者たちです。彼らは聖書の教えに精通し、救い主の誕生とその誕生の地がベツレヘムであることさえ知っていたのです。これに比べて東の国からやって来た占星術の学者たちの知識は僅かで頼りのないものでした。もし星が彼らを導かなかったら彼らの知識はでは到底このイスラエルまでたどり着くことも、救い主に出会うこともできなかったのです。知識に置いては遥かに勝る律法学者たち、彼らはしかし自分達の知識に満足するだけで、実際に救い主に会いに行こうとはしませんでした。結局、彼らもまた救い主の栄光を拒んでしまったといえるのです。
このことを通して私たちが学ぶことはイエスの栄光を受け入れ、自らもその栄光を現すことができる人は自分に固執することなく、知識だけで満足することなく進んで行動する人だということが分かります。まさにそれは自分が神の前に罪人であることを告白し、神の約束を信じてイエス・キリストを信頼する信仰者の姿だという事ができます。ですから東の国からやってきた学者たちは私たち信仰者の象徴的な存在ということができるのです。
3.神の栄光をあらわす方法
①本物の「栄光」を求めたパウロ
使徒パウロはこの博士達によって示された神の栄光をその生涯を持って伝えた人物でした。神の救いがイスラエルの国、あるいはユダヤ人だけに限定されていると考えた人々とは違い、彼はイエス・キリストの救いは全世界の人々に与えられていると力説し、またその福音を様々な国々の人々に伝えました。彼もまた過去において自分の栄光を追い求めていた人物の一人でした。しかし、イエス・キリストに出会ったときから彼は本当の「栄光」が何であるかを知らされたのです。イエス・キリストを知ってから彼は自分が追い求めてきたものが価値のないもの、イミテーションであったことを知らされ、本当の「栄光」を現す生き方を求めて歩み出したのです。
②私たちを通して現される神の栄光
私たちがパウロの生き方から学びえる点は「神の栄光を私たちが現すためにどうしたらよいか」ということへの答えです。まず、パウロは自らがキリストの救いが最も必要な者であることを大胆に認めました。先日、この礼拝で盲人バルティマイのお話をしました。彼は目が見えないという障害を持ちながらも、イエスに出会い、その目が癒されることを通してイエスの素晴しさを示す器として用いられることになりました。彼は何も語らなくても、彼の存在自身がイエスの素晴しさをアピールしたのです。同じように私たちもまたキリストに救われることを通して、キリストの素晴しさを現すことができる、その栄光を現すことができるのです。
第二にパウロは自らもまた神の計画に積極的に参加しようとしました。神の計画は、あるいは神の御心がわからないと言う人がいます。しかし、パウロにとってはその神の計画は明らかでした。「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」(エフェソ3:6 )。パウロがこの計画が実現するために異邦人に福音を熱心に宣べ伝えました。神の御心はイエス・キリストによってすべての人々がその救いに預かることです。私たちに示された神の計画、神の御心はこれなのです。ですから私たちの生き方を通して、私たちの存在を通してイエス・キリストが証しされるとき、神の栄光は私たちを通して現されるのです。もちろん、これは私たちがみなパウロのように福音伝道者になって、世界中を駆け回ることだけを言っているのではありません。
私たちはいつも私たちの人生にとってイエス・キリストが絶対に必要なことを示すことでイエスの救いを証しすることができるのです。苦しい中で祈りを捧げる姿を通して、忙しい中でも礼拝に参加することを通して、歌も歌えないような状況の中でも神に賛美する姿を通して、私たちは私たちの人生にとってイエス・キリストの救いが絶対に必要なことを証しすることができます。そして私たちが自分の人生を通してイエスの救いの出来事、その栄光を現すとき、世界の人々はその救いを目指して、真の光を目指して集まってくるとイザヤは預言したのです。このようにしてイザヤの預言はこの最初の公現日だけで実現してしまったのではなく、私たちの信仰生活を通して続けて実現されていくのです。