2003.10.26「神に仕える」
ヘブライ人への手紙5章1~6節
1 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。
2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。
3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。
4 また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
5 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。
6 また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。
1.苦難を耐える力はどこから来るか
①苦難の中に生きる信徒に忍耐を呼びかける手紙
以前にもお話ししたように電車に乗るのが苦手な私は、車内に入るとすぐに少しでもその苦痛の時間を忘れようとヘッドホームステレオの音楽に聞き入ります。私はよくそんなときコーラスグループのダークダックスのCDを聞くことにしています。そのCDで最初に流れてくるのは「銀色の道」という曲です。皆さんも聴かれたことがあるでしょうか。この曲の二番には次のような詩が歌われています。『ひとりひとり、はるかな道は。辛いだろうが、頑張ろう。苦しい坂も、止まれば下がる。続く、続く、明日も続く。銀色のはるかな道』。私はこの詩の中の「苦しい坂も、止まれば下がる」というところにいつも共感を覚えながら一緒に口ずさみます。私たちの人生にもいろいろと苦しいことが起こります。しかし、その苦しさに耐えかねて今までやってきたことを放棄してしまったら、これまでがんばってきたことすべてが水の泡になってしまいます。だから苦しいけれど最後までやり遂げよう、この歌はそのように私たちを励ましています。
私たちの読んでいるヘブライ人の手紙の読者も激しい試練の中でたくさんの苦しみを負っていました。そこでこの手紙の著者はこの「銀色の道」の歌詞と同じように、この手紙の読者たちに信仰の歩みを途中でやめてしまうのではなく、忍耐して最後まで歩み続けるようにと勧めているのです。
②キリストがともにいてくださることが力
しかし、この手紙の著者は試練の中にある読者たちにただ口先だけで「がんばりなさい」と言っているのではありません。むかしから、うつ病の患者さんに「がんばりなさい」というのは禁句だと言われています。うつ病を病む人のほとんどはとても真面目な方が多いといいます。そしてそのほとんどは「がんばろうとしているのに、がんばれない」自分を裁いたり、悩んでいるのです。だからそのような人たちに「がんばりなさい」というのは彼らの悩みをさらに深くする原因となりかねないのです。大切なのは「がんばりなさい」という第三者からの口先だけの掛け声ではなく、自分ががんばれる力をどこから得ることができるかにあるのではないでしょう。ですからヘブライ人への著者は掛け声だけではなく、試練の中にあるものが忍耐して信仰を持ち続けることのできる力がどこからくるのかをこの手紙の中で教えようとしているのです。それではその力はどこから来るのでしょうか。それは私たちの共に歩んでくださるイエス・キリストからやってくるのです。そこでどうしてこのイエス・キリストが試練の中にある者を慰め、励ますことができるのかを著者は今日の箇所で「大祭司」という聖書に登場する職務を通して説明しようとしています。
2.アロンの子孫から選ばれた祭司
①大祭司の役目
この手紙は旧約聖書の教えと伝統に精通しているヘブライ人、つまりユダヤ人クリスチャンに向けて書かれたと考えられています。ですから彼らにとって聖書にも登場する「大祭司」という務めを行う役職は身近で、とても分かりやすいものであったと考えられます。しかし、旧約聖書の伝統をよく知らない私たちは、まずこの「大祭司」がどのような務めをもった人なのかを理解した上で、今日の箇所を考えていくことが必要です。
先日、何年も前に警察によって「自殺」と処理された若者の死因が実は「他殺」であったというニュースが新聞に報道されていました。この事件の真相がわかったのは被害者を殺害した犯人が自分の犯行を最近になって自白したからです。ところがこの犯人、罪の呵責を感じながらも長い間沈黙してきた上で、今になって真相を語ることになったのには訳がありました。なぜなら、その事件は15年という殺人事件の時効を迎えて、もはや自分がその罪に問われることはないことが分かっていたからです。だから犯人はある意味で安心して、今回、自分の犯行を自白することができたのです。刑法によればそれぞれの犯罪には「時効」というものが設けられています。ある年限が過ぎれば犯罪を犯した人はその責任から免れることができるのです。
しかし、聖書の考える「罪」とそれに対する「刑罰」には時効はありません。私たちは自分の犯した罪を必ず償う必要があるのです。聖書に登場する「大祭司」はこの罪の償いを人々に代わって神様に対して行う勤めを果たします(1節)。彼はそのために神殿に設けられた至聖所というところで年に一回「罪のための供え物やいけにえ」をささげたのです。この場合、罪は時効になったというより、ささげられたいけにえによって償われたことになります。この働きは神様と共に生きようとするイスラエルの人々にとって大切なものでした。なぜなら、罪が残されたままでは彼らは神様と共に生きることができないからです。
②人である大祭司にできることとその限界
この「大祭司」は旧約聖書に登場するモーセの兄アロンの子孫から代々選ばれました。神様はこのアロンの一族を代々「祭司」を勤めるようにと選んでくださったのです。そこでヘブライ人の著者はこの「大祭司」がアロンの子孫、つまり人間から選ばれた意義についてここで説明しています。
「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(2節)。
大祭司は人間ですから「弱さ」をもっています。私たちは「弱さ」をあまりよい意味に評価することがありませんが、この大祭司の務めにおいて「弱さ」は大切な意味を持っています。むしろ大祭司の務めをするために「弱さ」はなくてはならないものだとこの手紙の著者は語っているのです。なぜならその「弱さ」によって「無知な人、迷っている人を思いやることができる」からだと言うのです。皆さんも今までの人生の中でたくさんの人から励まされた体験をお持ちだと思います。その中でも「あの人は本当に自分のことをよく励ましてくれたな」と思う人が、実は自らも苦労人であったということがあるのではないでしょうか。「弱さ」を思いやるためには自らもその「弱さ」を知っている必要があるのです。「大祭司」は人々を神様に執り成す役目を負っていますが、その人々の気持ち、その弱さを知ることがなかったら本当の意味で執り成すことはできません。そこでこの手紙は今日の箇所の直前の部分でキリストが人となられたのは弱い私たちを同情することができるためにであったとも説明するのです(4章14~16節)。キリストも私たちを神様に執り成すために人となり、私たちの「弱さ」を知る必要があったのです。
しかし、もう一方でアロンの子孫の大祭司は人間としての限界も持っていたこともこの手紙は続けて指摘しています。それは彼自らも罪人であるために、自らのために罪を贖ういけにえをささげる必要があったからです(3節)。
今回の大会の教師試験では合格者は一人だけで、私の知っている仲間たちは残念ながら合格することができませんでした。私も神学校の入学試験や説教免許試験に落ちた経験を持っていますので、試験に落ちた人の苦しみが分かるような気がします。だからでしょうか、大会で彼らに顔をあわせてもなんと言って慰めていいのかわからないのです。確かに私には落ちた人の気持ちは理解できます。しかし、残念ながら私には彼らを導いて合格に至らせる力はありません。
アロンの子孫から選ばれた大祭司も弱さを持った人を同情することはできても、その人を助ける力を自らはもっていないのです。しかし、私たちの知っている「大祭司」イエス・キリストは違うとヘブライ人の手紙の著者は続けて語っていきます。
3.メルキゼデクと同じ祭司
①不思議な祭司メルキゼデク
確かにイエス・キリストもアロンの子孫と同じように父なる神様から「大祭司」の任務を遂行するようにと選ばれました。しかし、彼はアロンの子孫から出た「祭司」ではありませんでした。イエスの人としての系図はダビデの子孫、ユダ族につながっています。ですからイエスはこのアロンの子孫から出る祭司ではなく、旧約聖書に預言された「メルキゼデクと同じような祭司」(詩篇110編4節)であるとこの手紙は説明するのです。メルキゼデクは旧約聖書に登場する不思議な人物です。創世記14章でアブラハムは異国の人々に捕らえられた自分の親類ロトを救うために戦いに赴き、その戦いで勝利を収めます。そのアブラハムを迎え、パンとぶどう酒をもって彼を祝福したのがこのメルキゼデクという人物です。彼の経歴は謎に満ちていて「サレムの王」=「平和の王」ということしか分かりません。そしてこの「サレム」は「エルサレム」であると考えられています。しかし、アブラハムはこのメルキゼデクに敬意を払って自分の財産の十分の一をささげています。つまり、メルキゼデクはアブラハムにとってそれほど重要な人物であったことが分かるのです。やがて、人々はこの人物を神が与えてくださる救い主を象徴するものと考えるようになりました。ヘブライ人の手紙の著者はこのメルキゼデクこそがイエス・キリストを象徴するものであり、イエス・キリストは大祭司であっても他の大祭司とは違う特別な祭司であることを語っているのです。
②大祭司キリストの果たす役割
それではイエス・キリストはメルキゼデクと同じような祭司としてどのような点で他の大祭司と違っているといえるのでしょうか。ヘブライ人の著者はキリストが「永遠の救いの源」となられた方だと説明しています(10節)。アロンの子孫たちは毎年一回、民の罪を償うための供え物を携えて至聖所に行きました。つまりその供え物の効力は一時的でしかなかったのです。ところがメルキゼデクと同じ祭司イエス・キリストはご自分の命をささげることによって完全な罪のための供え物をささげてくださったのです。この救いの効力は永遠です。
ハイデルベルク信仰問答の問56はキリストの償いの効力について「わたしのすべての罪と、さらにわたすしが生涯戦わなければならならない罪深い性質をも、もはや覚えようとなさらず…」と言っています。キリストの償いは私たちが犯した個々の罪だけではなく、その罪を犯させる私たちの罪深い性質にまで及んでいると言うのです。つまり、キリストは私たちと神様の間に存在した罪を完全に取り除いてくださる大祭司なのです。この大祭司の働きのゆえに私たちはこの生涯を神様と共に歩むことができるのです。ですからイエス・キリストはたとえ私たちの人生にどんなことが起ころうとも神様が私たちの味方であることを疑うことがないようにしてくださっているのです。
このことに関連して、もうひとつ興味深いことは今日の箇所でアロンの子孫である大祭司が「弱さ」のゆえに人々を「思いやることができる」と教えられているところと、先にも引用した人となったキリストが私たちを「同情することができる」と説明している言葉の違いです。聖書はこの二つの言葉がギリシャ語原語では違う言葉で表現されているので、日本語でも「思いやる」と「同情する」という言葉を使って訳しています。ところがせっかくこのように分けて訳して、「思いやる」と「同情する」の違いは私たちにはどうもよくわかりません。日本語ではこの二つの言葉の違いがよく説明できないのです。実はギリシャ語では「同情する」と訳された言葉には「感情を一緒に抱く」という意味がはっきりと現れています。しかし一方の「思いやる」では「感情を適度に抱く、感情を抑制する、穏やかに振舞う」という意味が含まれているのです。つまり「思いやり」と訳された言葉の場合には苦しむ人の感情をある限度までしか共有できないという意味が込められています。なぜなら、彼はそこから立ち直る力を自分からは持っていませんから、相手の感情を完全に背負いこんでしまったら、相手と同じようにだめになってしまう可能性があるからです。そのため彼は「感情を抑制し、穏やかに振舞う」必要がるのです。ところがイエス・キリストが私たちに抱く「同情」は違います。なぜなら、彼は私たちが味わっている苦しみに打ち勝つ力を唯一持っておられる方だからです。だから、彼は私たちに対して限界なくかかわって下さる方なのです。人であるなら「もうこれ以上は一緒には行けません」と言うときが訪れるかもしれません。しかし、イエス・キリストは私たちの心を最後まで同情しつくし、私たちと同じ苦しみを担ってくださる方なのです。
詩篇23編の記者は神様について「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」と自分の信仰を告白しました。この詩篇の言葉のようにだれも付き合いきれない死の苦しみの中であっても、イエス・キリストだけは私たちと最後まで共にいてくださり、慰めてくださることができるのです。なぜなら、彼はこの死にも勝利する力を持っておられるからです。
このようなすばらしい方が私たちと共におられるのです。そして試練の中で私たちが苦しみに打ち勝つ力はこの方の中に十分隠されているのです。だから、私たちはこの信仰の歩みを最後まで忍耐して歩み続けることができるのだとヘブライ人への手紙の著者はこの箇所で私たちに教えているのです。