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2003.10.5「一つの源から出ている」

ヘブライ人への手紙2章9~11節

9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

10 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。

11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。


1.ヘブライ人への手紙の特徴

①不明な点

 私たちが今日学ぼうとしている「ヘブライ人への手紙」にいくつかのミステリーが存在しています。まず、この文章には「ヘブライ人への手紙」という表題がつけられていますが、この表題はおそらく後からつけられたものだと考えられているのです。その証拠にこの手紙の本文の中にはこのような表題の言葉はひとつも登場してきません。つまり、本当は誰に向けて書かれた手紙なのかよく分からないのです。それだけではありません。実はそもそもこの手紙を書いた人物、つまり著者が誰か、それさえもよくはわかってはいないのです。さらにもうひとつ付け加えて言えば「手紙」とこの文章を表題は言っていますが、この文章が本当に「手紙」であるかどうかさえ疑問な点が残っているのです。むしろ聖書の研究家たちはこの文章を「手紙」ではなく「説教」だと解説する人が多いくらいです。もしかするとこの「ヘブライ人の手紙」は初代教会の使徒の誰かが語った説教がこのような形で残されたと考えたほうがよいのかもしれません。


②分かっている点

 ところでおそらく後になってからこの手紙の表題に「ヘブライ人」という名前がつけられたということは今お話しましたが、この名前が付けられたことにはそれなりのわけがあると思われます。この表題がつけられたわけはおそらく、この書物の内容に根拠があるからです。なぜならば、この書物の中には旧約聖書に精通した人を前提に書かれた内容がたくさん記されているからです。特にこの書物には旧約聖書の中に登場する「儀式律法」にかかわる内容が多く取り扱われています。ローマ軍に破壊される前、ご存知のようにエルサレムには神様に礼拝をささげるための「神殿」が建てられていました。神殿ではそこで働く祭司たちによってさまざまな儀式が執り行われていたのです。この書物はその儀式の内容をよく知って、それに慣れ親しんでいた人たちに向かって語られているという特徴があるのです。そこで一番、自然に考えられるのはこの書物はそれらのことに精通している「ヘブライ人」、つまりユダヤ人たちに書かれているということになるのです。おそらくそのためにこの手紙は「ヘブライ人」に書かれたものだと考えられ、このような表題をつけて呼ばれるようになったのでしょう。

 「新約聖書」と「旧約聖書」、この二つの書物の間にはどのような関係があるのか。キリスト教会の内外でよくこのことが論議されてきました。「新約聖書と旧約聖書には根本的に異質な教えが語られている」と主張して、旧約聖書を軽んじてしまう人々も教会の歴史の中にはたびたび登場したくらいです。しかし、私たちは新約聖書も旧約聖書も救い主イエス・キリストを証言することにおいて同じ働きを担っている書物だと信じています。そのような信仰を持つ私たちにとってこの「ヘブライ人への手紙」は旧約聖書の主題がイエス・キリストにあることを明確に教えている大変重要な書物だと言えるのです。


2.詩編8編の読み方

①神の創造のみ業と人間の位置

 さて旧約聖書を通して証言され続けてきた救い主イエス・キリストについて教える使命を担っているこの「ヘブライ人への手紙」の著者は今日私たちが取り上げる箇所においても、同様に旧約聖書のテキストから、イエス・キリストによる救いとそこに示された神の御心を明確に語ろうとしています。

「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」(6~8節)。

 今日の箇所はこの直前に語られているこの6~8節に引用されている旧約聖書の詩編8編の言葉がキリストについて語られた預言であると教え、その内容を解説しているところです。ただ、不思議なことにこの詩編8編の本文を私たちが旧約聖書の箇所から直接に読むと、このヘブライ人への手紙の言葉とは少し違っていることが分かるのです。私たちの持っている旧約聖書には次のように記されています。

「そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(5~7節)。

 この詩編で取り上げられているのはむしろ、神の創造された世界の中で人間がどれだけ光栄ある位置を占めているのかと言うことです。そしてこの事実を通して神を賛美する内容になっているのです。この詩編が語るように私たち人間は神様によって造られた被造物の中で最高のものとして創造され、その造られた世界を治める使命を神様から与えられている存在なのです。


②キリスト預言を読み取る著者

 ところがこのヘブライ人への手紙の著者は「神に僅かに劣るものとして人を造り」と語られている部分を「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが」と記して、この言葉が大変重要だと教えるのです(9節)。どうして両者の文章の間にこんな変化が生じているのでしょうか。このことについては新約聖書の成立事情を踏まえることが大変に重要になってきます。実は私たちが現在読んでいる旧約聖書のテキストはそのほとんどがヘブライ語聖書からの翻訳になっています。ところが、新約聖書が書かれた時代のユダヤ人が日常の生活の中で使っていたのはこのヘブライ語聖書ではなく、それをギリシャ語に翻訳したものだったと考えられているのです。当時のオリエント社会ではギリシャ語が公用語として広く用いられていました。今の英語のような役割と言っていいでしょうか。ですからご存知のように新約聖書はこのギリシャ語を用いて書かれています。そして、そのようなギリシャ語社会の必要にあわせて早くからギリシャ語訳旧約聖書が作られ、ユダヤ人の間に広く用いられていたのです。実はそのギリシャ語聖書(70人訳)の翻訳文からこの詩編8編を読むと、むしろヘブライ人への手紙に引用されている文章とまったく同じになっているのです。それではギリシャ語訳旧約聖書がここで誤訳をしてしまったかと言えば、そうでもないのです。実はもともとのヘブライ語の言葉は意味が広く、このギリシャ誤訳聖書の解釈のような意味も成り立つものなのです。

 いずれにしても、このヘブライ人への手紙の著者はこのギリシャ語訳旧約聖書のテキストからここに語られている「人の子」とは人間のことではなく、救い主イエス・キリストのことが語られていると解釈しているのです。キリストは神の子でありながら、私たちを救い出すために人間と同じ姿をとられました。そのことが今日の「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが」という言葉に示されているのだと教えているのです(9節)。

 私たちも先にフィリピ信徒への手紙の部分で学んだときにキリストは「へりくだって」私たち人間と同じ姿になられ、その死に至るまで従順であることを通して、私たちの救いを実現してくださったことを学びました(フィリピ2章6~11節)。ヘブライ人への手紙は今日の箇所でそのことは旧約聖書の詩編8編の中で預言された出来事であり、この預言がキリストによって実現したのだと教えているのです。


3.終末の裁きを待ち望む人々

①信仰による忍耐

 旧約聖書はこのようにはっきりとキリストによる救いの出来事を預言してきました。そしてこのことを確認するのが今日のヘブライ人への手紙の著作の狙いであったと考えることができるのです。それではなぜ、この手紙はこのようなキリスト者なら誰でも知っていることをあえて、旧約聖書から教えようとしたのでしょうか。どうして、キリストが天使よりも暫く低くされたことが私たちの信仰生活にとって大切になってくるのでしょうか。実はそこにこそこの手紙の書かれた理由が重要になってくると考えることができるのです。

 この手紙の内容を読んでいくと絶えず著者は信仰による「忍耐」をこの手紙の読者に呼びかけているのが分かります(6章12節)。また、そのために信仰による「忍耐」の模範を示す人々をわざわざ登場させてもいるのです(11章)。このような内容から、この手紙の読者たちも「忍耐」を必要とする立場におかれた人々だったと考えられるのです。また、むしろその忍耐を忘れて、信仰生活を放棄しようとする誘惑を受けていた人たちだと考えることができるのです。

 忍耐を欠く人の特徴とはどのようなものでしょうか。そのような人は自分の心が満足する答えがすぐに与えられることを願います。その答えが与えられないと不満を抱き、また人を非難します。そして、やがてはその非難は現状を肯定しているかのように見える神様を非難するということに発展していくのです。この手紙の読者たちにもそのような信仰の危機が起こっていました。「信仰者である自分たちがどうしてこんな苦難の中に生き続けなければならないのか」。「どうして、神を蔑ろにする人々がこの世では繁栄し、支配者となって、自分たちを苦しめるのか」。「どうして速やかに神はこのような現状を裁いてくださらないのか」。このような疑問と不満が彼らの心を支配し、彼らを神様から遠ざけようとしていました。だからこそ、この手紙の著者は彼らに信仰による忍耐を呼びかけ、また教えたので。


②どうして忍耐が必要なのか

 それではどうして、私たちはこの信仰生活の中で忍耐する必要があるのでしょうか。いったい、私たちの忍耐にはどのような意味があるのでしょうか。どうして神は私たちのために速やかに裁きをこの地上で行ってくださらないのでしょうか。そのことについてこの手紙は次のように答えています。「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」(9節後半)。言葉を変えればキリストは「すべての人が救われるようにと死んでくださった」と言う意味になります。「キリストを地上に送ってくださった神様はすべての人の救いのためにこれだけ忍耐されている」とヘブライ人の手紙の著者は教えているのです。そしてここに神の御心があると私たちに明らかにしているのです。

 「神が裁きを遅らせている理由は明確ではないか。神はすべての人々が救われるためにキリストを送ってくださった。それなのに、どうして神はわずかな人々だけが救われることで満足することができるであろうか。だから最後の裁きの日まで、一人でも多くの人々をその恵みのうちに救い出すために、神様は今も忍耐しておられる」と私たちに教えているのです。


4.神とともに忍耐する

 旧約聖書には「ヨナ書」という名前のついたたいへん小さな預言書が収められています。預言者ヨナはニネベという町の人々のために神様のメッセージを伝える使命を与えられます。ところがヨナにとってニネベの町の人々は憎んでも憎みきれないような存在でした。なぜならこのニネベの町を首都とするアッシリアという国はヨナの住むイスラエルの国をたびたび侵略し、たくさんの人々を殺害していたからです。おそらくヨナはこれまでこの国とニネベの町の人々が速やかに神の裁きによって滅ぼされることを願い、祈りをささげてきたのではないでしょうか。ところがそのヨナに与えられた神様の命令はまったくこのヨナの願いに逆行するものでした。「行って、ニネベの町の人々が滅びないように私のメッセージを伝えなさい」と神はヨナに命令されたのです。

 最初はこの命令を拒んでニネベとはまったく違ったところに行こうとしたヨナでしたが、神様の不思議な力によって引き戻され、ニネベの町の人々に神様のメッセージを取り次ぐことになります。やがて、神様の働きかけによってこの町の人々は悔い改め、その滅びを免れます。ところがヨナはこのような神様の御心を最後まで理解することができません。この書物の最後にはこの神様の思いが次のように記されています。「すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」」(ヨナ4章10~11節)。

 私たちは信仰による忍耐を忘れて、すぐにこのヨナと同じように自分にとって都合の悪い人々がいなくなってしまうことを求めるようなところがあります。しかし、私たちの神様はすべての人が救われることを願って救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。この救いのために神様はどれだけ忍耐してくださっているでしょうか。私たちもまた、この神の忍耐のおかげで、この救いの恵みの中に入れていただいたのです。だから神様は私たちも同じようにこの忍耐をともにしてほしいと願われているのです。

 確かに詩編が教えるように神様は私たち人間を被造物の中で最もすばらしい地位をもち、すべての被造物の支配者となるように造ってくださいました。そして、その約束が実現するために救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。しかし、この約束は簡単に実現するものではありませんでした。神がこの約束実現のためにどれだけ大きな犠牲を払い、また忍耐しておられるか。そのことを説明するためにヘブライ人への手紙の著者はこの詩篇8編を選んだと考えることができるのです。


2003.10.5「一つの源から出ている」