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2003.11.2「輝かしい勝利」

ローマの信徒への手紙8章31b~39節

31 もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましうか。

33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。

37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、

39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。


1. 神が私の味方なら

①トルーマンの秘訣

 アメリカ第33代大統領(在任1945~53)ハリー・トルーマンは広島と長崎に原爆を落とした人物として私たち日本人にはどちらと言うとマイナスのイメージが残されています。彼についてのこんな逸話が残されています。トルーマンが大統領を引退した後のこと、彼が『トルーマン記念図書館』を訪問したときのお話です。ちょうどその図書館にやってきていた近くの中学生たちがトルーマン老人に気づきました。すぐに彼らはトルーマン老人を囲んで次のように質問したというのです。「あなたは大統領になったようなすばらしい人物ですから、きっと私たちの歳と同じころには人気があって、秀才だったのでしょう?」。この質問にトルーマンはすぐに首を横に振って答えました。「そんなことはありません。私は君たちの年頃のころ、他の子と違うところといえば眼が悪くてめがねをかけないと何も見えなかったくらいで、他には何の才能もありませんでした。人気もありませんし、学校の成績もあまりたいしたものではありませんでしたよ」。元大統領のこの意外な答えを聞いた中学生たちは続けてこう尋ねました。「それではあなたはどうして大統領になれたのですか」。すると彼は微笑みながら自分が大統領にまでなれた秘訣について次のように語ったというのです。「それはいつも神様が私の味方であることを信じていたからだと思います。神様が私の味方ならどんな困難にも、勝利することができるということを私は信じていままで生きて来ました。それが私の人生の秘訣です」。

 トルーマンはおそらく今日私たちが学ぶパウロの言葉が自分の人生の秘訣であったことを中学生たちに紹介しようとしたのでしょう。パウロは今日のローマの信徒への手紙の中で語ります。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)。この有名なパウロの言葉はトルーマン老人だけではなくたくさんの人々を励まし、多くの人の人生を導いてきました。今日は皆さんと共にどうして神様が自分の味方だと私たちが確信できるのか、また神が私たちの味方であることが私たちの人生にどんなに重要であるかについて学んで生きたいと思います。


②救いの確かさを伝えるローマの信徒への手紙

 ところで今日の言葉が記されているパウロの書き記したローマの信徒への手紙はいったいどのような書物だといえるのでしょうか。一言で言ってローマの信徒への手紙はキリスト教信仰のもっとも大切な部分を語っている書物だと言うことができます。もちろん私たちにとって聖書に収められたすべての書物は大切なものです。しかし、建物でたとえるならこのローマの信徒への手紙はその建物の骨組みの部分にあたるようなものであると言えるのです。どんなに立派そうに見える建物でもこの骨組みが無かったり、弱いものであったら欠陥住宅ですから、すぐにだめになってしまいます。同じようにこのローマの信徒への手紙に記された教えを私たちが無視したり、なおざりにしたとしたら、私たちの信仰は危険であやういものになってしまうのです。

 テレビで以前、「百人乗っても大丈夫」という物置会社の宣伝がよく放映されていたことを皆さんは覚えておられるでしょうか。実際その会社の社長や社員でしょうか、物置の上に乗っている姿がコマーシャルになっていました。あの物置が壊れないのはその骨組みがしっかりしているからだと思います。パウロはこのローマの信徒への手紙の中で私たちのキリスト教信仰を支える骨組みを語ります。そしてその骨組みを一様に語った上で、今日の箇所ではあたかも百人の社員が乗っても大丈夫というのと同じように、私たちの信仰がどんなにすばらしいものなのかを語ってくれているのです。


2.誰も訴えるものはいない

①神の味方である証拠

 第二次大戦末期、ドイツ軍に占領されていたポーランドの首都ワルシャワで市民がドイツ軍に対して一斉に蜂起するという出来事がおこりました。このとき敗走し続けるドイツ軍を追って、ソビエト軍がワルシャワと川を隔てた向こう側まで進軍してきていたからです。当然、ワルシャワ市民は自分たちがドイツ軍と戦えば、すぐにソビエト軍が川を渡ってやってきて味方をしてくれると思っていたのです。ところが期待に反してソビエト軍は川の向こうから一歩も動こうとせず、ワルシャワ市民はドイツ軍の力によって鎮圧され、たくさんの犠牲者を出してこの蜂起は終わりました。歴史書によれば当時のソビエトの指導者スターリンは戦後にポーランド人主導の政府が立てられることを望まなかったためこのときソビエト軍を動かさなかったのだと説明されています。味方になってくれるはずのものが、味方になってくれなかったらそれはたいへんな悲劇を生みます。

 ところがパウロはここで神が私たちの味方であるはっきりとした証拠があると語るのです。パウロはその証拠こそ神がご自身のひとり子イエス・キリストを私たちのために与えてくださったことだと言うのです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(32節)。

 先日、私の誕生日に息子は私に「お手伝い券」とか「肩たたき券」とかいろいろな券をプレゼントしてくれました。この券を使えば息子は私の仕事を手伝ったり、肩をたたいてくれるらしいのです。その券の中に一枚だけ「何でもやる券」というのがありました。ところがその券には一つ但し書きが加えられています。それは「お金以外…」という但し書きでした。

 神様が私たちに送ってくださった贈り物はイエス・キリストです。その贈り物にはなんの但し書きも付け加えられていません。そのイエスを神様は私たちに与えてくださったのです。そして「これ以上、神様が私たちの味方である証拠はないではないか」とパウロはここで私たちに教えているのです。


②罪に定められることがない

 さて、先週もヘブライ人への手紙の中で私たちが学んだように、この私たちと神様との関係を考える際に重要になってくるのは私たちの罪の問題です。聖書が問題にする罪とは私たちが神様に従えないこと、神様の敵となっていることを表す証拠です。そこでパウロはここで再び私たちのこの罪の問題について語ります。「あなたは罪を犯している罪人であって神の敵ではないのか」。もし私たちが誰かにそのような告発を受けたときはどうなるのかとパウロは話を続けるのです。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」(33節)。聖書はやがて必ず私たちが神の前にたち、裁判を受けなければならないと語ります。そのとき私たちは自分が潔白であると言い切ることができるのでしょうか。ところが、パウロはこの裁判で重要なのは私たちが持っている潔白の証拠ではなく、私たちを弁護する方、つまり私たちを「執り成してくださる方」が誰であるかにあると言うのです。私たちのためにもっとも優秀な弁護士がすでに天におられるのです。その弁護士こそ私たちの主イエス・キリストです。彼はご自身のなさった十字架の贖いのみ業によって私たちの罪を償い、代わりに私たちを無罪としてくださる方なのです。この方がおられるからこそ私たちの罪はすでに解決されており、神様が私たちの味方であることを確信できるとパウロは教えているのです。


3.神の愛から引き離すものはない

①迫りくる試練

 さてこのような私たちと神様との関係をパウロは論じた後、次に彼は私たちに外から襲い掛かる事柄について考えを進めます。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(35節)。

 歴史によればこの手紙が書き送られたローマの都でやがて大規模なキリスト教徒への迫害が始まります。また実際にこの手紙を書き記したパウロは信仰のためにここに並べられた試練の数々を実際に受けていました。信仰者になったからといって私たちの人生からすべての問題が無くなってしまうわけではありません。むしろ、嵐のような試練が数々起こってくることもありうるのです。それならば信仰を通して神様が私たちに与えて下さる祝福とはいったいどのようなものなのでしょうか。神様の与えてくださる祝福とは私たちの人生からすべての問題がなくなってしまうものではありません。むしろ神様はこの数々の迫害や試練の中でも誰も奪うことのできない祝福を私たちに与えてくださるのです。そしてパウロはその祝福とは「キリストの愛」であると言っているのです。この「キリストの愛」はどのような状況下にあっても私たちを励まし、私たちに生きる力と希望を与え続けることができるのです。


②何が私たちの支えなのか

 ここで当たりまえからもしれませんが、この「キリストの愛」は「キリストの私たちへの愛」であって、「私たちのキリストへの愛」を語っているのではないことを確認しておきましょう。パウロは続けて方ってこう語ります。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(37節)。「私たちを愛してくださる方」が私たちの人生における勝利の秘訣なのです。

 よくこのことはサルと猫の親子の関係にたとえらることがあります。サルの子供はどこかへ母親と移動する際に母親のおなかにぶら下がって両手でしっかりと母親にしがみ付いて行きます。子サルが少しでもその手を緩めたり、離してしまったら大変なことになります。子ザルが目的地に付くためには相当の努力が求められるのです。ところが猫の子供の場合は違います。親猫は子猫の首のところをくわえて移動します。このとき子猫は何もすることなく、親猫のされるがままに運ばれていくのです。

 私たちの側の決意や努力ははかないものです。いつその手を離してしまうか分かりません。しかし、キリストの愛はそうではありません。私たちをいつも導いて離すことはありません。そして私たちを目的地へと必ず導いてくださるのです。パウロはこのキリストの愛が私たちにある限り、どのようなことが私たちの人生に起こったとしても、私たちは必ず神様の定めてくださった目的地に到達することができると言うのです。中途半端に終わってしまう人生は勝利とはいえません。キリストによって私たちの人生は必ず目的地に着くことができるからこそパウロが言うとおり私たちは「輝かしい勝利」収めることができるのです。


③エリシャの従者が見たもの

 旧約聖書には預言者エリシャという有名な人物が登場します。列王記下には彼について次のようなお話が記録されています(列王記下6章)。イスラエルに敵対する隣国アラムの王がイスラエルを何度も攻撃しようとします。ところがそのたびに彼の作戦は見破られてしまうのです。不思議に思ったアラムの王がその原因をさぐると実はイスラエルの預言者エリシャがいつもその作戦を見破って、イスラエルの王に教えているからだと分かりました。そこでアラム王は自分たちが勝利するためにはまずこのエリシャを亡き者にしなければならないと考え、軍隊を送って預言者エリシャが滞在するドタンの町を包囲させたのです。

 朝早くエリシャの召使が町の外を包囲しているアラム軍に気づき、半分パニックに陥りながら主人のエリシャに「どうしたらよいでしょう」と報告します。このときエリシャは神様に「自分の召使の目を開いて見えるようにしてください」と祈ります。別に召使はこのとき目が見えなかったわけではありません。なぜなら彼は自分たちを取り囲んでいるアラムの軍隊を見ることができたからです。しかし、彼の目に見えていなかったものが確かにありました。それは彼らを囲んでいるアラムの軍隊よりもはるかに多く数の天の軍勢が自分たちを味方するためにやって来ている姿でした。エリシャはこのとき召使に自分たちの敵よりも、はるかに勝る援軍が近くに来ていることを彼に知らせたのです。

 パウロはまさにこのときのエリシャのように信仰の戦いの中にたたされている私たちを励まそうとしています。パウロの助言の通りに信仰をもって私たちが十字架の主イエス・キリストを見上げるなら、聖霊は私たちの心の目を開いてくださり、神様が私たちの味方であることをはっきりと教えてくださるのです。


2003.11.2「輝かしい勝利」