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2003.11.20「永遠に完全な者とされる」

ヘブライ人への手紙10章11~14、18節

11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。

12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、

13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。

14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。

15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。

16 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。

17 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」

18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。


1.習慣から離れ難いもの

 早いものでこの教会堂が完成してからあと三ヶ月もすれば丸三年になろうとしています。私の娘はこの会堂に引っ越してきた当時はまだ幼稚園にも入っていませんでした。それが今は小学校一年生になって元気に近くの学校に通っています。その娘はここに引っ越してきたばかりの頃よく「お家に帰ろうよ」と私たちに言って困らせたことがありました。「お家に帰る」それは娘にとって長年住み慣れた古いアパートに帰ることを意味していました。いまさら、前のアパートに帰ってもそこにはもう何もありません。ところが、娘にとってはやはり生まれたときからずっと育った家であり「自分の家」なのです。どんなに新しく気持ちのよい家に移ったとしても、長年住み慣れた家を離れることは幼い子供にとっても不安であったのかもしれません。皆さんの中でも引越しをされた経験のある方は同じような思いをされたことがあるかもしれません。

 慣れ親しんだものから離れて、新しいものに変わることは相当な不安を人に与えます。キリスト教徒に変わったユダヤ人(ヘブライ人)にとってもそれは同じだったと言えます。彼らは子供のときから聖書の律法によって細かく決められていた生活を毎日送っていました。また、特に彼らは自分たちの罪を償うために動物犠牲を神殿でささげ続けてきました。ところが、キリスト教会はイエス・キリストがただ一度、十字架の上に死に、ご自分の体を犠牲としてささげてくださったのですから、もはや犠牲をささげる必要はなくなったと教えたのです。それは彼らにとって面倒な儀式から解放されることを意味しましたが、反面では彼らが慣れ親しんできた習慣から離れることを意味していたのです。

 今日の箇所ではこのキリストの犠牲の完全性が再び強調されています。そしてこのキリストの犠牲とユダヤ人が今までささげ続けてきた動物犠牲がどのように違うかが論じられているのです。


2.神殿でささげられた動物犠牲の意味

①動物犠牲は罪を償えない(止められない)

 以前、テレビドラマでカウンセラーを主人公にするお話しがありました。心を病んださまざまな人物がそのドラマには登場し、主人公は彼らの心の秘密を探っていきます。現実でもそうなのかもしれませんが、このドラマの面白いところは主人公のカウンセラー自身が自分に理解できない心の闇を持っていて、そのために苦しんでいるというところです。その彼の心の闇を表す行為がドラマの中には登場します。それは彼が何度も何度も長い時間をかけて手を洗うという動作です。

 私たちは手が汚れれば石鹸で洗います。これから寒くなるとインフルエンザや様々なウイルスが巷に登場します。手洗いはそのようなウイルスから自分の身を守る大変に有効な手段です。ところがこのドラマの主人公が手を洗うのは自分の手が汚れているからではありません。彼は心に不安を感じるとすぐに洗面所に行って手を洗い始めます。汚れた手ならば石鹸で洗い流せばすぐに解決します。しかし、原因は彼の心の内部にある不安ですから、彼は手を洗うことをいつまでも止めることができないのです。

 ヘブライ人への手紙の著者はユダヤ人の習慣となっていた動物犠牲について、むしろ彼らがどうしてその犠牲をささげ続けてきたのかその理由をつぎのように解き明かします。

「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます」(11節)。

 「どうしてあなたたちの先祖は犠牲をささげ続けてきたのか、それは本当の意味でそこでささげられた犠牲はあなたたちの罪を除くことができなかったからだ」と彼は教えるのです。その犠牲が私たちの心の支配し、苦しめる罪を本当に解決するものであったなら、私たちの不安はそのことを通して解決されるはずです。しかし、その犠牲が毎日のようにささげ続けられてきたのは、ドラマに登場するカウンセラーが手を洗うことを止められなかったように結局はその罪の支配から自分たちが解放されていなかったことを表す者だと言うのです。

 アルコール中毒の患者はアルコールが切れてしまうことを恐れます。だからアルコールを飲むことをやめることができません。仕事中毒の人は仕事をやめれば自分の存在感が人々に忘れられてしまうのではないかと恐れて、休むことができません。ユダヤ人たちは同じように解決されない罪の問題を抱えながら神殿犠牲中毒にかかって、それをやめることができないでいたのです。つまり、ここには本当の罪からの救いはないのです。


②真の犠牲を指し示す動物犠牲の役割

 しかし、それではなぜ神様はこのような動物犠牲を神殿ささげることをユダヤ人に求めたのでしょうか。確かにこの動物犠牲には私たちの罪を取り除く効力はありません。しかし、この動物犠牲には別の意味で大変重要な効力があったのです。それは本当に私たちの罪を取り除くことができるまことの犠牲であるイエス・キリストを指し示し、その十字架の意味を私たちに解き明かすためでした。

 私の父は私が子供のころよく家で旅行地図を広げて、「今度はどこに旅行しようか」と言いながら、有名な観光地の名前を口にします。私も父が地図を広げるたびに子供心に「今度はどこに連れてってもらえるのかな」と期待で胸を膨らませた思い出があります。ところが私の父は最初のうちは「大旅行」を計画するのに、日にちがたつにつれその計画がだんだん縮小されていって、最後には奥多摩とか秩父、房総半島と言った身近な行楽地に変わってしまうのです。実際に日帰りでも行ければよいほうで、大半は地図を広げて家族に期待を持たせてだけでどこにも行かないことのほうが多かったと思います。私の父のように地図上でだけ旅行気分を楽しむという人もいるかもしれません。しかし、旅行地図の本当の使い方はやはり、私たちを正しく目的地に向かわせるということにあるのではないでしょうか。ユダヤ人たちがささげ続けて動物犠牲もこの旅行地図のような役目を持っていたと考えてもよいでしょう。私たちの罪を取り除くことのできるものは救い主イエス・キリストの十字架だけです。それ以外にないのです。そして、神殿でささげられた動物犠牲は私たち人間にこのイエス・キリストの十字架が必要であることを指し示すために神が与えたものなのです。ですから、神殿で動物犠牲をささげるものは自分が神の前で罪を犯し、深刻な問題を抱えていることを認める必要がありました。しかも、その罪は神殿での動物犠牲の儀式に象徴されるように「命」をもって償わなければならないものだったのです。ですからこの動物犠牲をささげる者たちはまことの犠牲として神様から送られたイエス・キリストを喜んで受け入れる必要があったのです。

 実際に観光地に行って、そこまできても旅行地図だけを広げているのは愚かな行為です。観光客が見るべきものは地図ではなく、実際の観光地の風景でしょう。それと同じように動物犠牲をささげてきた者が今、見つめなければならないものはまことの犠牲であるイエス・キリストであるのです。ヘブライ人への手紙の著者は神殿での動物犠牲とイエス・キリストの関係をこのように明らかにします。ですからまことの犠牲であるイエス・キリストがささげられた以上、もはや神殿での犠牲は何の意味も持たなくなってしまったのです。


3.完成された救い

①「立ち」続ける祭司たちと「座られた」キリスト

 私たちはよく忙しく作業しているとき、一人で腰掛けている人を見ると「そんなところに座り込んでいないで、働け」と叱ったり、また反対に叱られることがよくあります。この場合「座る」とは何もしないで休んでいる動作を言っているのですが、今日の聖書の部分でもこの「座る」という言葉が同じような意味で使われています。

「しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き」(12節)

 ここでキリストが「神の右の座に着き」と訳されている言葉は「神の右に座る」という意味を持った言葉なのです。そしてこの場合の「座る」はキリストが私たちの罪を償う業を完全に終えて、すべてが完了したこと、もはやそれ以上彼は何もする必要がないことを表しているのです。この「座る」とは対照的に、この前に登場している祭司たちは「立ち」(続けて)います。彼らの業は決してそれだけではいつまでも完成することができないという意味を表しているのです。しかし、キリストのささげられた犠牲は一度だけで完全に完成しており、それ以上何も付け加える必要ないものなのです。


②プラスアルファは必要ない

「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」(14節)。

 キリストの犠牲の目的は私たちの罪の償いをし、私たちがしみも傷もない聖なる者、完全な者となるためでした。私たちは自分の力ではそれを成し遂げることができません。しかし、イエス・キリストを信じる者はキリストの十字架の犠牲を通して、神の目から聖なる者、完全な者と見なされるようになるのです。それは言葉を変えて言えば、神に背き、神と共には生きることができなくなっていた私たちが、神と共に生きることができる特権を与えられたことを表しています。私たちはこの祝福をただイエス・キリストを信じることによってのみ受けることができるのです。なぜなら、イエスが私たちのためにすべて必要なことをなしとげてくださったために、私たちはそれ以外に何もする必要がないからです。

 ここで私たちが注意すべきなのは、このキリストのささげられた犠牲の完全性を否定する様々な教えです。それはこの手紙が書かれた時代にもたびたび、現れました。「イエスを信じることも大切だが、律法を守ることも大切だ」と主張する偽教師たちが現れ、パウロをはじめとする使徒たちは彼らと戦う必要がありました。

 現在でもキリストを信じるだけではなくて「輸血をしてはいけない」とか、「何々を食べてはいけない」とか、そのほかに「これこれをしなければ」ならないと私たちの救いに対して様々な条件を付け加えて教える集団や人々が存在します。しかし、それらの教えは聖書が語っているキリストによる救いの完全性を否定するものであるのです。その限りでこれらの教えはキリスト教とは言えません。もし、私たちが救われるためにキリストの十字架以外の何物かを必要とするなら、キリストの十字架は私たちの救いのために十分ではないことになってしまいます。それは聖書の教えるキリストによる救いに矛盾するものです。私たちこのような誤った教えに十分注意を払うべきなのです。


4.勝利を確信して生きる

 このように今日の箇所でヘブライ人への手紙の著者はキリストが十字架上でささげられた犠牲の完全性を強調しています。しかし、その一方で「その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」(13節)と語り、キリストがまだ待っているという姿も語られています。これは私たちを救うための御業をすべて成し遂げられたイエスが、今はその救いが私たちの上に現実のものになることを待っておられるということを言っています。ここにはこのヘブライ人への手紙の記者の独特な主張が登場しています。

 私たちの救いはキリストによって完全に成し遂げられています。しかし、今、その救いはまだ私たちの前に完全な形として現れていないのです。だから、このヘブライ人への著者はこの手紙の読者たちに信仰の目を通してこのキリストによってもたらされた勝利を見つめ続けながら生きるようにと教えるのです。それは言葉を変えていえば、私たちの目の前にどのようなことが起こっても、その出来事に揺り動かされることなく、キリストの勝利を確信して歩みなさいということになります。

 私たちはとかく、目の前に起こる出来事に支配されて、この完成された救いの勝利を忘れてしまいます。そして時にはその勝利を疑ってしまうことがあるのです。しかし、そのようなときこそ私たちは信仰の目をキリストに向けることが大切です。キリストがすでに私たちのために救いを完全に成し遂げてくださったこと、キリストが勝利してくださったことを思い起こす必要がるのです。

 ミステリー小説や映画の結末を先に知ってしまうことはその楽しみを半減させてしまいます。しかし、私たちが私たちの人生の結末を先取りして知ることができることは違います。しかも、その結末で私たちはキリストが勝ち取ってくださった祝福のすべてを受けることができるのです。今、目の前で私たちの人生にどのようなことが起こったとしても、その行き着くところにはこの勝利が待ち構えています。ヘブライ人への手紙の著者はこの勝利のゴールを指し示しながら、この地上の生活を希望と勇気を持って歩み続けようと私たちに呼びかけているのです。


2003.11.20「永遠に完全な者とされる」